伯爵
馬車は新雪を固く踏みしめ、静まり返った街路を進んでいく。白銀に縁取られた屋根と重厚な石造りの街並みの向こう、モルヴァン伯爵邸の尖塔が、姿を現した。
冬の鈍色の空を貫くように聳える黒い塔は、巨大な影がそのまま形を成したかのようだ。近づくにつれ、館を囲む鉄柵や門扉の装飾が露わになる。蔦を模した細工は鋭く、雪を戴いたその輪郭は、氷の棘のように冷たい光を跳ね返していた。
窓は高く、狭い。
昼の光が届く時間帯のはずだが、館内に人の営みを示す気配はない。むしろ、奥に溜め込まれた暗がりが、外へ滲み出しているかのようだった。
鉄柵の前で馬車が止まる。
御者が用件を告げると、門番は露骨な警戒を顔に浮かべ、無遠慮に馬車の窓へ顔を近づけてきた。赤みを帯びた瞳が、値踏みするようにセレスを捉える。
短い確認の後、門番は何事かを囁き合い、「待たれよ」とだけ告げて、門の奥へ消えた。
寒気の中、馬車は取り残されたように静まり返る。
そのうちに、雪がちらちらと舞い始める。
やがて現れたのは、執事らしき男性。白磁のような肌、色を失った唇。やはり、吸血鬼だろうか。
彼は門を開き、深く一礼した。
「――お待たせいたしました。どうぞこちらへ」
馬車は軋んだ音を立て敷地内へと進み、沈黙に満ちた館の、正面玄関前で止まった。
セレスはイリヤを伴い、無機質な歩調で先導する侍従に連れられて、応接室へと通される。だが、そこで再び待たされることになる。暖炉には火が入っていたが、その炎は妙に冷たく見え、時間の流れをさらに長く感じさせた。
◇
沈黙の時間が更に積み重なる中、扉が開いた。
現れたのは、銀盆を手にした侍女だった。彼女は音ひとつ立てずに歩み寄り、紅茶を置いて去っていった。
残されたのは、薬草の香りがする紅茶。
そして――依然として訪れぬ伯爵の気配。
セレスはティーカップには触れず、ただその香りを確かめた。
扉が開いた。
「――お待たせいたしました。モルヴァン伯爵がお会いになるとのことです」
続いて現れたのは、爽やかな笑みを湛えた紳士だった。歳は三十代前半ほどに見える。整えられた金髪に、澄んだ湖のような青い瞳。仕立ての良い服に包まれた姿は、吸血鬼のイメージからかけ離れている。
「すまない。待たせしてしまったね」
柔らかな物腰で席につき、気遣うように紅茶へ目を向ける。
「ああ、その紅茶。少し癖があるけど、どうかな? 気に入っていただけたかな。僕は好きなんだけど」
軽妙な声音に、場の空気が僅かに緩む。
それでもセレスは笑わなかった。
彼は程よい温度の紅茶に口をつけると、心底寛いだ様子で溜め息を吐いた。まるで、多忙な公務の合間に、ようやく本来の休息を取り戻したかのような仕草だった。
「それで、孤児院の職員の件で、わざわざ足を運ばれたと聞いたが……」
「はい。ノエルという方が、二日前から行方不明です」
伯爵は頷きかけ、ふと首を傾げた。
「失礼――」と、短く前置きを挟み、彼はその透き通るような青い瞳で、セレスの存在の隅々を、見透かすように測った。
「きみ、人族だろう。どうして帝国の研究員に?」
「――お答えする義務は?」
落ち着いた返答に、伯爵は眉を下げ、苦笑した。
「いや、構わない。ただ……興味が湧いたんだ」
カップの縁を指でなぞりながら、伯爵は言葉を選ぶ。
「人族で、魔術師のきみが、どうして陛下の許しを得たのか。――いや、失敬。問いが間違っているな」
ふと視線を上げる。その瞳には、柔らかな陽だまりのような光と、底知れぬ夜の影が同時に宿っていた。
「きみがなぜ、そんなに美しいのか。僕は、それが知りたいんだ」
セレスは口元だけを僅かに動かす。
「まあ、お上手ですのね。それは、吸血鬼の嗜みですか?」
伯爵は喉の奥で小さく笑い、ティーカップを卓に戻した。
「きみほどの美貌を、老いに委ねるのは惜しいと思っただけだ」
声は柔らかく、それでいて、瞳の奥には、引き摺り込むような磁力を帯びていた。
「僕の血を受けて、僕の番になる気はないだろうか?」
唐突な提案に、セレスは思わず目を丸くした。その背後で、イリヤが息を呑むのがわかった。
セレスは、すぐには答えなかった。
伯爵を見返す視線は冷静で、感情の揺れはない。
伯爵は唇に艶やかな笑みを湛えたまま、静かに言葉を重ねる。
「人間族は、目を離した隙にすぐに亡くなってしまうからね。僕の妻になれば、老いも、死も、煩わしい選択すらも――もう迷わずに済む」
セレスは一瞬、伏せ目がちになり、長い睫毛を震わせた。
そして、顔を上げた彼女の瞳には、先ほどまでの冷徹な光ではなく、どこか夢見心地な、柔らかな色彩が宿っていた。
「……そんなことが、本当に叶うのでしょうか。吸血鬼の番……それは、私のような人間族には、あまりに甘美な響きですわ」
セレスの声音は、蕩けるような熱を帯びている。伯爵の瞳に宿る、征服欲がギラリと輝いた。
乗り気のセレスに、お目付け役のイリヤの影が、殺気を帯びて重なる。
「前向きに検討させていただきます。……ええ、ノエルのことなんて、もうどうでもよくなってしまいました」
セレスはきりのよいところで会話を終わらせ、伯爵邸を後にした。
外は雪も止み、程よい気温で、セレスは歩いて宿舎に戻ることにしたのだった。




