呼吸する施設
鉄の扉が、鈍く軋んだ。
中に足を踏み入れた途端、空気が変わる。粘ついた冷たさが肌に纏わりついた。
音という音が吸い取られたような静寂。重く沈殿する薬品と、腐敗の匂いが鼻腔を刺す。
そして──不規則に、微かに、だが確かに響く。
カタ……ゴォ……シュウウ……
それはまるで、機械が呼吸するかのような異様な音。
金属の肺が、薬液と共に肺動を繰り返しているような、人工生命体の「息づかい」だった。
セレスとイリヤが進む先――奥の闇がわずかに蠢いた。
──来る。
暗がりの中から、ひとつ、影が現れる。
子供ほどの背丈のそれは、白く無表情な仮面のような顔に、関節の逆転した細い手足。無音のまま、無数の魔術式を纏い、歪な肢体をうねらせて迫ってくる。
それは、人族の錬金術師たちが、魔族の肉体を切り刻み、接ぎ木し、無理やり「機能」だけを抽出した、獣の時代の残滓。
セレスは杖を構え、魔力を集中させた。
だが――魔術が放たれる、ほんの刹那。
セレスの思考が、わずかに躓いた。
――聞こえた。
音ではない。
言葉でもない。
それでも確かに、そこには意思があった。
叫びにもならない、弱々しい何か。
(……生きている?)
いや、違う。
生きている、のではない。
生かされている。
誰かの都合で。
「セレス様」
平坦なイリヤの声が、背後から響いた。
「……迷っていますか」
その問いは、責めではなかった。
ただの確認。
だからこそ、残酷だった。
「……」
沈黙が、答えになる。
「では、私が判断します」
瞬間、イリヤの体からひやりとした殺気が立ち上る。
影のように滑らかに、だが迷いなく彼女は一歩踏み出した。
金属音が鳴った。メリケンサックの重撃が空気を裂く。
ホムンクルスが跳躍し、セレスに向かって腕を伸ばした刹那――
イリヤの拳が、横からその顎を砕いた。
白い仮面が粉砕され、ホムンクルスは壁に叩きつけられる。
追撃。膝蹴り、回し蹴り、そして拳。
そのすべてが正確に急所を打ち抜き、動きを封じるためだけに構成されていた。
数秒後、ホムンクルスは、痙攣ののち動きを止めた。
その胴から染み出たのは血ではなく、防腐剤の混じった黒い泥だった。
――恐怖を知らない存在は、選ばない。
選ばない者は、救わない。
かつて彼らにも、意志があったのかもしれない。誰かを愛し、空を仰ぐ自由があったのかもしれない。
セレスは思う――だが、それを選ばなかった、あるいは選ぶ権利を奪われた結果が、この暗い通路に転がるゴミだ。
セレスは、返り血を拭うイリヤの横顔を見つめた。
イリヤの瞳には、死んだホムンクルスと同じ、深淵のような無化が宿っている。
けれどそこにあるのは、帝国が掲げる理性だ。
かつてセレスは、人を焼いた。
敵兵であり、命令であり、戦争だったからだ。
だが、目の前のそれは違う。
国でもない。
兵でもない。
罪ですらない。
胸の奥に、冷たい刃物を押し当てられたような感覚が走る。
あの玉座から注がれた昏い視線が、セレスの脳裏に蘇る。
今、セレスは問われているのだ。自分自身の選択を。




