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爛れた心に口づけを。狂愛の魔帝と、殺せぬ魔女の物語。R15  作者: 島田まかろん三世


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魔狼族

 晩餐の夜、ヘルミスは用意された客間で、一瞬たりとも瞼を閉じることなく朝を迎えた。休戦中とはいえ、敵国の心臓部に身を置くなど、正気の沙汰ではない。だが魔帝は「客人を追い出すほど狭量ではない」と笑い、あえて彼を城に留めた。


 それが何を意味するかを、ヘルミスは理解していた。

 この城では、生き死にすら、主の裁量に含まれる。


 それでも帰らなかった。

 セレスのいる空気を、ただ一晩、手放すことができなかったのだ。


 翌朝――


 ヘルミスは、ネクレイア魔帝国の門前でセレスに見送られながら、馬車に乗った。乗り込む間際、セレスの肩を強く掴んだ。その指先は、微かに震えている。


「……手紙を書くよ。必ずだ、セレス。きみがあの男に焼き尽くされる前に、僕が……」


 最後まで言わず、ヘルミスは力なく微笑んだ。それは再会の約束ではなく、自らの崩壊を食い止めるための呪文のようだ。


 セレスは頷いたが、何も言わなかった。

 ただ風に揺れる銀の髪を見送りながら、胸にあるのは別れの寂寥せきりょうではないと知っていた。


 ◇


 セレスはロカから依頼を受け、ネクレイア魔帝国の北のはずれ――ザナハと呼ばれる地にやって来た。


 そこは、古くから人族との争いが絶えない土地だった。

 特に、隣接するラッセル王国――ドワーフ族を主体とする国――とは、幾度となく戦火を交えてきた歴史がある。一時は完全にラッセル王国の領地として占領されていた時期もあったが、現在はネクレイア魔帝国の領地だ。


 吹きすさぶ冷風と灰のような大地に覆われたこの地は、かつて獣魔人たちが根を張り、牙と誇りを賭けて生き抜いていた場所だ。人族に奪われ穢されたのち、奪い返した土地でもあった。


 馬車に乗り、イリヤに導かれてたどり着いたのは、閑散とした街。そこから少し離れた丘の上に立つ、無骨な黒鉄の施設――ネクレイア帝国が接収した、かつての錬金術師の研究拠点だった。


「……警備隊が張っているのは、あれね」


 セレスの視線の先には、粗布の天幕が並び、魔帝国軍の黒旗が風に棚引いていた。その周囲には、屈強な獣魔人の兵たちが、警戒の目を光らせている。彼らはみな、狼の頭をしていた。


「ロカ様の同郷の者たちです」


 イリヤが低く囁いた。


 馬車を下りると、鋭く澄んだ冬の空気が頬を打った。

 一人の獣魔人の兵士がセレスに気づき、鋭い嗅覚で彼女を測るように鼻を鳴らす。


「人間の匂いだ。魔術の匂いもする。お前が、ロカ閣下に使わされた魔術師か」


 その男は、戦槌を肩に担ぎながら歩み寄って来た。

 彼の名はグリード・グランファング。警備隊の隊長だった。


「この施設は、元は我々の先祖の祠だった。それを人族に潰され造られたものだ。

 主人だった錬金術師の名も、記録には残っていない。今もなお、あの中にいて生きているのか――それすら分からん」


 彼の視線の先、黒鉄の施設は、まるで生き物のように冷たい風を吐き出している。

 戦時中に帝国軍が管理していた旧軍事資産で、領主が変わっても、ここはロカの管轄だ。


「だが、奴の創った()()()()――ホムンクルスだけは、いまだ施設の中で蠢いている」


「戦闘用ホムンクルス……」


 セレスが呟いたその言葉に、グリードは僅かに眉を顰める。


「制御不能だ。意思も、感情もない。だが殺意だけはある」


 声には怒りとも諦めともつかない色が混じっていた。


「中には薬品が撒かれていて、俺たち獣魔人の鼻も役に立たない。

 しかも、構造が毎回違う。入るたびに壁が動き、通路が消え、迷路のように組み替えられている。

 一度入ったら、道を覚えても意味がない。記憶さえ欺くような作りになっている」


 彼は重い戦槌を地面に打ち付け、吐き捨てるように言った。


「部下が何人か……戻らない。……俺たちではもう、どうにもならない」


 グリードは、セレスを見据えた。


「頼む」


 その瞳には、戦士としての誇り高き信念と、戻らぬ部下を案ずる思いが交差していた。セレスはその思いを受け取ると、深く頷いた。


「任せて。私が戻るまで、誰一人、中に入らないで」


 施設の外縁に立ち、杖を構える。

 セレスは深く息を吸い、術式詠唱を開始した。


「――迷陣遮断・外環封絶式(ガレアス・リルタ)


 術式が走り、迷宮の鼓動が止まる。

 屈強な狼の兵士たちが、思わず息を呑んだ。獣の膂力りょりょくも、鋭い爪も、この黒鉄の怪物を前には無力だった。それを、この華奢な人間の女が、言葉ひとつで従わせたのだ。彼らの瞳に、軽蔑ではなく、底知れぬ者への「畏怖」が混じり始める。


 セレスは、肩越しに声をかけた。


「行くわよ、イリヤ。中に入って確認する。援護をお願い」


「承知しました」


 イリヤは、いつもと変わらぬ無感情な調子で答える。

 セレスは静かに杖を握り直す。


 そしてふたりは無言のまま、鉄の扉を押し開ける。

 古い軋みとともに、冷たい闇の口が、彼女たちを迎え入れた。



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