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爛れた心に口づけを。狂愛の魔帝と、殺せぬ魔女の物語。R15  作者: 島田まかろん三世


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焦燥

 書庫に漂う、あまりに濃密で切実な師弟の残香。

 壁際に佇み、それを黙って見守っていたロカ・グランファングは、内心で、胃液が上がってくるような不快感を押し殺していた。


 ロカにとって、魔帝がこの場にいない。それだけが、救いだった。

 もし、陛下がこれを見ていたら――想像するだけで、喉の奥が冷えた。


 セレスを抱くハイエルフ。

 そして――一瞬でも、抱き返したその腕。


 ロカは小さく息を吐いた。


「――そろそろ、いいか」


 静かな声だった。

 だがそれは、柔らかく区切るためのものではない。

 終わらせるための声だった。


 セレスは、ゆっくりとヘルミスから離れた。先ほどまでの、無防備な『少女』の顔を霧の向こうに隠し、いつもの、感情を見せない瞳を、ロカへ向ける。


「……ええ。ロカ、この書庫にある本は一通り目を通したわ。けれど、並んでいるのは基礎魔術のばかり。私が求めているのは――」


 その言葉に、ロカは笑った。

 乾いた、感情のない笑いだ。


「基礎魔術ばかり……当然だ」


 ロカは嘲笑を隠さず、肩を竦めた。セレスの眉間に、不快な色が走る。


「……それは、約束が違うのでは?」


「約束、か」


 小馬鹿にするように、ロカはセレスの言葉を反芻した。


「陛下が約束されたのは、『魔術書を見せる』だ。この場にあるもので、条件は満たしている」


 そう言って、顎を突き出す。


「これで十分だろう」


 あからさまに見下す視線が、セレスへと落ちる。

 その瞬間、ヘルミスの魔力が揺れた。殺気に近い波動。

 セレスは無言で彼の袖を引き、その衝動を制する。


「……地位を剥奪されたとはいえ、私は魔術師よ。こんな子供騙しの写本を見せて、私を愚弄するつもりなの?」


「愚弄だと?」


 ロカは鼻で笑った。


「どこまでも身の程を知らぬ女だ。わからないか? ならば、はっきりと教えてやる」


 そう言って、両腕を広げる。


「これが――今のお前の価値だ」


 視線の先に並ぶのは、平易な魔術書ばかり。

 確かに、そうした書にこそ深淵が潜むこともある。理屈としては、理解している。


 しかし――《そういう話》ではない。


 セレスは、ぎり、と奥歯を噛み締めた。


 「魔術書研究員」とは、結局のところ、形ばかりの中身のないラベルに過ぎなかったということか。

 期待が冷めていくなか、だがロカは、続けてこう言った。


「深淵を覗きたければ、相応の価値を証明してみせろ」


 剥き出しの牙と、凍てつくような嘲笑。金色の瞳は、セレスの足元を見透かしているかのようだった。


()()()()()()()()


 「お前に何ができる」――声なき嘲りが、耳元で囁かれた気がした。


 魔帝の腹心であるロカの、これはセレスへの、形を変えた二度目の挑戦状か。魔帝の寵愛を受けるか、あるいは、無惨に切り捨てられればいいのに――その天秤を弄ぶ権利が、今は自分にあるのだと、ロカの優越感が垣間見える。


「と、その前に――」


 わずかにロカの肩から力が抜ける。それは任務の通告から、単なる「伝言」へと切り替わった合図だった。彼は苦虫を噛み潰したような顔で、セレスを見据える。


「陛下が、今夜共に食卓を囲まぬか、と仰せだ」


 先程までとのあまりの温度差に、セレスはパチリと瞬きをする。そして、目の前の男の屈辱を味わうように、華やかに、にっこりと微笑んだ。


()()()()()()()()()と?」


「――そうだ」


 忌々しそうに吐き捨てたロカは、次に、セレスの傍らで不穏な沈黙を守っていたヘルミスへ視線を転じる。


「……あんたも同席してくれ」


「ああ。是非ともご一緒したいが――なぜ?」


 訝し気に眉を顰めたヘルメスに、ロカは低い声で言った。


「俺は、あんたがその女を、いっそこのままどこか遠くへ連れ去ってくれることを、切に願っている。」


 魔帝の腹心が、休戦中の敵将に腹の内を匂わせた。それは、背信行為に等しい。だが、セレスという不純物が陛下を狂わせる前に、その毒を取り除けるなら本望。そう言わんばかりの覚悟が見える。


「なぜ――そんなことを僕に?」


 ヘルミスの眼差しには、明確な警戒と疑念が浮かんでいた。

 ロカの顔が、僅かに歪む。察しろと言っているように思えた。


「どちらにしろ、僕はもう、セレスの選択を黙認するつもりはない」


 それが答えだと理解し、ロカは頷く。

 だが、安堵が書庫の空気を緩めようとしたその矢先、しばし沈黙を守っていたセレスが、そっと口を開く。


「先生。……あなたは私を、古の鎖で、繋ぐつもりですか?」


 穏やかな声。しかしそれは、ヘルミスの存在そのものを「古い遺物」として切り捨てる響き。それは、風のない湖面に落ちた小石のように、確かな波紋を広げた。


「きみは、わかっていないんだ――!」


 苛立たし気な、ヘルミスの声。


「私は、私の意志を捻じ曲げてまで、誰かに従う気はありません」


「ああ……その意志は尊重する。だが、それが間違っているのなら、止めるのは師である僕の責任だ!」


 その声には、やり場のない寂しさと、押し殺した怒り、そして、断ち切れぬ未練が濁流のように波打っていた。


「先生の言う『正しさ』は、私を縛る枷にしかなりません。この道が地獄でも、私は自分の足で歩いていきます。私の幸せを、『正しさ』で奪わないでください」


 どろりとした澱みが、辺りに漂う。


 甘い感傷など微塵も持ち合わせぬロカですら、肌にまとわりつく不快な熱量に、居ても立ってもいられない心地だった。己の計画が、セレスの拒絶という予想外の壁に突き当たり、足元から瓦解していく。天を仰ぎ、胃の腑を抉るような苛立ちを吐き出したい衝動を、彼はかろうじて喉元で押し殺した。


「その会話は、まだ続くのか?」


 水を差すような低い声だ。

 極限まで膨れ上がっていた愛憎の火花は、一瞬にして冷え切った沈黙へと変質する。セレスとヘルミスは、まるで魔法が解けたかのように互いから顔を背け、押し黙ったのだった。


 主君を裏切り、女を逃そうとする腹心。

 教え子を略奪せんとする師。

 そして、過去を切り捨て深淵を望む魔女。


 三人の歪な執着を、魔帝の居城は飲み込んでいく。

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