零れる情愛
メイドのイリヤの無言の先導で、セレスは冷厳な石造りの廊下を進んでいた。
通されたのは、魔帝の居城の一階。重厚な黒檀の扉で閉ざされた書庫だった。
「こちらです。……陛下からの『贈り物』でございます」
イリヤは扉を開けると、感情の一片すら見せずに頭を垂れた。
セレスは期待と、それ以上の警戒を胸に、ゆっくりと書棚へと歩み寄った。だが、最初に視界に飛び込んできたタイトルの数々に、セレスは冷ややかな失笑を禁じ得なかった。
『ものを早く腐らせる魔術』
『他人を誘惑する魔術――魔性の微笑み編』
『ペットの飼い方・初級篇』
並んでいるのは、街の露店で叩き売られているような、稚拙な入門書ばかり。
セレスは本をパタンと閉じ、しばらくの間、無言で立ち尽くした。
これが、「贈り物」?
魔帝の意図が掴めない。「気味が悪い」と、セレスは呟いた。
◇
その頃、ネクレイア魔帝国の謁見の間には、場にそぐわぬ「清廉な空気」が満ちていた。そこに跪いていたのは、銀灰色の髪を持つハイエルフ、ファウロス・ヘルミス。母国より遣わされた「理論魔術学の権威」である彼は、今、石畳に染み出す瘴気にその膝を汚していた。
彼が握りしめているのは、単なる親善の書状ではない。
ハイエルフ王家が秘蔵していた、「かつての停戦時に魔帝が誓った血の約定」。
その一回限りの行使権を、彼は一個人の独断で持ち出し、自らの寿命を対価に関門を突破してきたのだ。
玉座に深く沈んだ魔帝ヴェルは、跪くハイエルフを「検品」するように見下ろした。
「セレスティアの知り合いというのは――お前か」
魔族の皇帝、ヴェラルク=ザハ・ヴェルグの声は、酷く冷ややかに響く。
「――で?」
その尊大な態度。
「私の教え子に、会わせていただきたい」
魔帝は口角を上げて、跪くハイエルフを見下ろした。
「教え子か……まあ、そうか。だが――俺のセレスに会いに来たのが、男だという事実が、気に喰わない」
ヘルミスは頭を垂れたまま、理性を怒りで塗り潰されそうになるのを堪えていた。
魔帝の口から出た「俺のセレス」という言葉。それがヘルミスの心臓を逆撫でする。
(『俺のセレス』? こいつはなにを言っているんだ――)
煮えたぎる独占欲を「理性」という名の薄氷で覆い隠しながら、ヘルミスは心の中で、誰にも譲らぬ執着を反芻する。
(あの子は、『僕のセレスだ』)
その心中を見透かしてか、魔帝は愉悦の笑みを深めた。
「いいだろう。会わせてやる」
そう言って立ち上がった魔帝を、側近のロカが制した。
「陛下、もしや――直々に、あの者を案内なさるおつもりですか?」
「だめか? セレスに会いに行くついでだ」
「何のついででしょうか、陛下。配下の一役人に会うために、公務を放棄なさるおつもりですか。……ご心配なら、自分が行きます」
魔帝は片眉を上げた。側近とは長年、死線を共にしてきた仲なのだろう。交わされる言葉は短くとも、互いの意図は正確に、そして痛烈に通じ合っているようだった。
「わかった」
魔帝は、ゆっくりと玉座へと腰を戻した。
その仕草の中に、ほんの僅かな未練を残しながら。
◇
書庫の扉が開き、ロカが入ってきた。
「――ああ、ロカ。いいところに……」
言いかけたセレスの動きが、止まる。
ロカの背後から現れた、冬の月光を思わせる長身の影。眼鏡の奥に潜む、深く、静謐なエメラルドの眼差し。
「……先生?」
呼びかけるより早く、ヘルミスはセレスに歩み寄った。
理性も、矜持も、すべてを置き去りにして。
抱き寄せられた瞬間、セレスの思考が一瞬、空白になる。
懐かしい香り。かつての安息。もう戻れない場所。
「無事だった……! セレスティア!」
震える声。
だが、次の瞬間、セレスは彼の胸を押し返した。
「――どうして来たんですか」
冷たい声。
自分でも驚くほどに。
「この国が、どれほど危険か……あなたが一番、わかっているはずでしょう」
ヘルミスは力なく唇を綻ばせた。その肌は、禁忌の手段でここまで来た代償か、不自然なほど青白い。
「きみを迎えに来たんだ。……相談もなしに、こんな地獄へ来るなんて」
セレスの目元が翳る。その口元に、暗い笑みが浮かぶ。ヘルミスを見上げ、首を傾げた。
「相談したところで、何が変わったでしょうか」
セレスの突き放すような言葉に、ヘルミスは愕然と顔を歪める。
「きみは――きみは僕を」
ヘルミスは再びセレスを強く引き寄せた。頬が触れ合うほどの距離で、叫びにも似た掠れた声で囁く。
「……なんだと思ってるんだ――!」
ヘルミスは、セレスの痛みに追いつけなかったのだ。
それは、救済の淵に間に合わなかった自分自身への、身を焦がすような悔恨だった。
部屋の隅でそれを見守るロカの指が、剣の柄に深く食い込む。
帝国の書庫。静寂の中で、三人の歪な感情が、音を立てて絡み合っていた。




