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爛れた心に口づけを。狂愛の魔帝と、殺せぬ魔女の物語。R15  作者: 島田まかろん三世


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10/15

捕食者の指先

 セレスとロカの間にあった殺気が、魔帝の一声で霧散した。主の命に従う従順な犬のように、跡形もなく闇へ沈んでいく。


 セレスが杖を下ろした。狼頭の側近も剣を引き、肺の中の熱を吐き出すように一つ、息を吐いた。


「……御意」


 ロカは頭を冷やすように首を振り、己の分をわきまえて後退する。


 代わって、魔帝ヴェラルク=ザハ・ヴェルグが、遊戯場の中央へと足を踏み出した。漆黒の外套が宵風を纏い、夜そのものが歩いてくるような錯覚を抱かせる。


「十分だ。どちらも、いいものを見せてもらった。ロカ……それから、セレスティア・アルヴィレーン」


 魔帝の、ルビーのごとき瞳が、真正面からセレスを射抜く。


「それでは、俺と勝負をしよう」


 その一言に、セレスの思考が停止する。口がぽかんと開いた。


「ご冗談を――」


「冗談ではない。――その前に、回復ポーションを飲め。手負いを相手にしては俺が笑われる」


 逆らう余地を与えぬ威圧。

 ロカから手渡された液体は、喉奥を焼くほどに甘く、濃密だった。魔力が血管を駆け巡り、疲労が強制的に押し流される。


「手加減は無用だ」


 魔帝は両腕を広げた。その背後から、禍々しくも美しい瘴気が、じわりと滲み出す。


「さあ、待っていてやる。最大級の魔力を放て。この俺が、受け止めてやる」


 セレスは深く、重いため息を吐いた。


 どうせなら、殺すつもりでやろうと、セレスは思った。

 魔帝を殺してしまえば、自分がそれに成り代われるかもしれない。そうしたら、禁忌魔術書は私のものだ――と。


 セレスは杖を握り直し、ハイエルフ式の古代語詠唱を開始した。全魔力を、一撃へと収束させる。


 天が、脈動する。


 次の瞬間、降り注いだのは幾億の煌めき――星核爆砕アストラ・バースト

 天の星々を収束させ、質量へと変えた光の強襲。焼き尽くす熱と斬撃の奔流が、魔帝を呑み込まんと襲いかかる。それは魔術を超えた、「神秘」そのものの具現だった。


 だが、魔帝は微動だにしなかった。

 彼は歓喜に満ちた笑顔で、その猛威を抱きしめたのだ。凄絶な圧力が黒衣を靡かせ、石床が悲鳴を上げて砕け散る。


「ああ――」


 魔帝の口から、極上の美酒に酔いしれるような吐息が漏れる。


「いい……これは、実に、いい」


 まるで愛しい恋人を抱くかのように、陶然とした面持ちで目を細める。

 そして次の瞬間――あやすような手つきで、その猛威を軽やかに押し退けた。


 押し寄せた術式が、空間ごと宙へ跳ね返され、上空の障壁に激突して爆ぜる。まばゆい飛沫と轟音が、一帯を白く染め上げた。


 その荒れ狂う余波の中、魔帝は迷いなくセレスへと肉薄し、細い腰を強引に抱き寄せた。


「――!」


 驚愕に目を見開くセレス。指先から杖が滑り落ちる。


「いいぞ。いい。お前は本当にいい女だセレス。悉く俺の期待を凌駕してくる」


 セレスの鼓膜を震わせるのは、情欲と殺意が混ざり合ったような、地這う低音。


「わかるぞ。俺を殺すつもりだったな。無礼で生意気で大胆で、刺激的だ。実に素晴らしい。そのうえ――」


 魔帝は獲物の頸筋を味わう獣のごとく、ねっとりとした眼差しをセレスに這わせた。その瞳の奥には、狂気にも似た悦楽が渦巻いている。


「心が爛れていて、とても美しい」


「放してください陛下」


 セレスは感情を押し殺して告げるが、魔帝の腕は鉄鎖のように強固だった。もがけばもがくほど、その肢体が彼の強靭な肉体に深く擦りつけられる。


 腕の中で無駄な抵抗を繰り返す獲物の躍動が、魔帝の征服欲をさらに激しく焚きつける。彼は愉快そうに、喉の奥でくつくつと笑った。


「ああ、セレス。陛下などという他人行儀な呼び方はよせ。俺のことは、ヴェルと呼ぶんだ」


 至近距離で浴びせられる熱に、セレスはわずかにまばたきをした。


「……ヴェル、と呼べば、魔術書を見せてくれるのですか」


「そうだ。いい子だ、俺のセレス。敬語も必要ない」


 魔帝――ヴェルの大きな掌が、セレスの胸元に重なる。だがセレスは、不敵に口角を上げた。


「そう。けれど……あなたの私になった覚えはないわ、ヴェル?」


 挑発的に睨み据える拒絶の言葉に、魔帝の喉が、ごくりと喉仏を揺らして動く。

 刹那の沈黙――。直後、魔帝は腹の底から、抑えきれぬ歓喜が湧き上がるのを感じた。


「俺の圧倒的強さを見ても、俺に屈服する気はないというのか?」


「ないわ」


「数々の俺への不敬……それを思えば、今この場で首を刎ねられても、文句は言えぬのだぞ」


「では、なぜそうなさらないのですか?」


 問い返すセレスを、魔帝はじっと見つめた。視線の熱が、重なり合う。それは、セレスの深淵を暴き、すべてを奪い尽くそうとする熾烈な眼差しだった。


「俺に抱かれろ、セレス」


 剥き出しの欲望を突きつけられ、セレスは思わず息を呑んだ。だが、その動揺は一瞬で消え、代わりに、氷のような拒絶が瞳に宿る。


「あなたに抱かれるメリットが、見当たらないわ」


 その答えに、怒りを覚えるどころか、魔帝は自嘲するように、かすかな笑みを漏らす。


「逆らうな、と……そう仰りたいのですか?  ならば、お好きにどうぞ。陛下」


 セレスは挑発的に首筋を晒し、無防備な姿を投げ出した。自分に価値を見出しているこの男が、追放や処刑など選びはしない――その確信があるからこその、この不敵な態度だ。魔力封じの手枷を外せるほどの魔力をあえて見せつけ、それでもここに留まると示したことで、均衡は既に、セレスの側に傾いている。


「そうじゃない――。俺が欲しいのは、そんな形だけのむくろではない」


 魔帝の掠れた声が、セレスの耳朶を震わせた。


「俺はお前のすべてが欲しいのだ。その魂の隅々まで一つ残らず喰らい尽くし、それでもなお、そこに在り続けるお前を……。そんなお前を、望むのだ、セレス」


 魔帝の手が這い上がり、セレスの顎を上向かせる。


「正直に答えろ。嘘は直ぐに見破る」


 逃げ場を奪うような魔帝の言葉に、セレスはわずかに眉を顰めた。


「俺を初めて見た時、なにを思った?」


 不意を突かれた問いに、セレスの心臓が跳ねた。


「この瞳を、美しいと思ったか?」


 至近距離にある、ルビーに似た双眸。セレスは、唇を戦慄おののかせ、言葉を失った。否定しようにも、喉の奥に熱い塊が詰まったように、声が出ない。


「お前には、俺が、どう映っている?」


 押し寄せる問いが、重くセレスを縛る。魔帝の腕の中で、その心臓は最早、制御不能なほど、激しくリズムを乱していた。


「好みか? 答えるんだセレス」


「――とても……魅力的だとは……思う」


 絞り出すようなその答えを聞いた瞬間、魔帝の口元が、残酷に微笑んだ。


「俺の唇の形が好きか? セレス」


「――ええ。好きよ」


 肯定するたびに、セレスの中の理性が、一枚ずつ剥がれ落ちていく。


「この唇で、どこに触れられたい?」


 魔帝の瘴気が、セレスの精神を甘く、深く、酩酊させていた。

 誘惑の果実のごとき唇が近づく。逃げ場を失い、熱い吐息の中でその瞬間を待っていた――。


 ドンッ!!


 次の瞬間、セレスは衝動的に、全力で魔帝を突き飛ばした。


 予期せぬ拒絶に、魔帝の体が大きくよろめき、石畳の上を数歩後退する。静寂が遊戯場を支配した。

 突き飛ばしたセレスの手は微かに震え、荒い呼吸が白い肩を揺らしている。それは女の動揺ではなく、喰われる寸前の獲物が放った、生存本能の爆発だった。


「陛下――!」


 影から滑り込んだロカが、剣の柄に手をかけ、セレスを殺さんばかりの眼光で睨み据える。主君に対するこれ以上の不敬は、側近として看過できない。

 魔帝は側近を一瞥し、それを制した。


 ロカは踏みとどまり、己を制した。ただ、ぎりっと奥歯を噛み、セレスを見た。


「だいたい、その女は危険極まりない! これ以上生かしておいては――」


 そこまで言って、ロカは突如として言葉を失った。魔核が凍りつき、喉の奥が引き攣る。主君から放たれた、氷のような、あるいは絶対的な死を想起させる冷徹な気配が、ロカを支配した。


「あれは、()()()()()()()だ、ロカ・グランファング」


 低く、地を這うような声。魔帝の瞳から、先ほどまでの熱狂が引き、代わりに底知れぬ暗濁が広がった。


「心得ておけ」


 澱みのない、魔帝の宣告。

 そこにあるのは、獲物を決して逃さない捕食者の眼差しと、支配者の意志だけだった。


 ロカが、その魔圧に膝を屈しかけた、その時――。


「――私は確かに、貴方の庇護を求めてここに来た。けど、誰かの所有物として飼われるために、ここを選んだわけじゃないわ」


 凍りついた空気を切り裂くように、セレスが凛烈たる声を張り上げた。魔帝に対し、 真っ向から、燃えるような意志を叩きつけたのだ。


「飼う? 飼う……か」


 魔帝が、薄く微笑む。獲物が期待通りの牙を剥いたことに、喜んでいるのだ。


「聞き捨てならんな。俺がいつ、お前を飼うなどという退屈な真似をすると言った?」


 魔帝はゆっくりと、セレスに歩み寄る。


「俺が求めているのは、庭に繋がれて餌を待つ犬ではない。俺の隣で共に深淵を覗き込み、時に俺の喉元すら狙う、誇り高き魔女だ。……思い上がるな、セレス。俺はお前という存在すべてを、対等に奪いに来ているのだ」


 セレスは、圧迫感にごくりと喉を鳴らしたが、恐怖を塗り潰すように、艶然として、魔帝を睨んだ。


「私のことを調べたのなら、知っているでしょう? 私がなぜ、テリアを追放されたか」


「……あの愚鈍な王子が、お前の好みではなかったから、袖にしたのだろう?」


「違うわ」


 セレスはぴたりと言葉を止め、告げた。


「――王妃という名の人生で、私の自由を奪われたくなかったから、ふったのよ」


 世継ぎを産むためだけの、血の通わないお人形になる気はない。

 不遜なまでの断言に、魔帝の唇から笑みが消えた。


「……では、お前は――俺が千年かけて築き上げたこの帝国を捨てれば、俺のものになるというのか?」


 究極の問いに、セレスは残酷な笑みを浮かべる。


「あら。私のために、この国を捨ててくださるの?」


 しかし、魔帝は迷うことなく首を横に振った。


「……では、お前は――お前という存在を手に入れられぬままの人生を、この俺に歩めと言うのか?」


 更なる究極の問い。

 セレスは瞬き一つせず、平然と言い放った。


「そうなります」


 迷いのない断絶。その言葉に、魔帝の喉から乾いた笑い声が漏れた。


「胸が、張り裂けそうだ。……酷いな。こんな感情は初めてだ。一体どうすればいい」


 魔帝は、しばし黙したまま立ち尽くしていた。打ちひしがれているのか、両手で顔を覆っている。

 やがて、指の隙間から赤い瞳が覗いた。


「……俺は、お前を愛してなどいない」


 低く、断定する声。


「ただ――お前を失う未来を想像した瞬間、俺の思考が停止した。それが、恐怖だと理解するまでに時間がかかった」


 セレスは、無意識に一歩、距離を取った。

 魔帝から滲み出る情念は、熱ではない。底なしの暗闇だ。


「この恐怖を、共有してくれ。俺と、お前で――」


 それは願いというよりも、自らを呪縛し、セレスをも道連れにしようとする不吉な契約だった。


 近くで見守っていたロカは、「こんなはずではなかったのに」と、自身の目論見が崩れていく音を聞いた。

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