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遠征

伝令の言葉を聞いた瞬間、胸の奥が、軋んだ。

 武器貯蔵庫爆破、水脈司令塔襲撃。

 イェナ軍に潜入しているマラーの工作員から連絡があった。イェナの中枢区域の武器庫の爆破準備が完了したと。よって、五日後の夜八時、武器庫爆破と同時に、隣接している水脈司令塔を襲撃し、爆破する計画が言い渡された。

 水脈司令塔。

 イェナの大地の下には、幾重にも張り巡らされた地下水脈が存在する。乾ききった砂漠の世界において、それは生命線そのものだった。

 水脈司令塔は、その地下水を汲み上げ、分配し、制御するための中枢施設である。巨大な円筒状の塔は、地表に突き刺さるようにそびえ立ち、軍需工場、兵舎、鍛造場、補給倉庫へと水を送り続けていた。

飲料水として、作物を育てるために、そして鉄を冷やし、兵器を量産するために。

 塔の制御室では、水圧、流量、分配先が厳密に管理されている。水脈司令塔の管轄範囲には、イェナ軍の中枢施設が集中している。兵站、整備、指揮、すべてが、水を前提として成り立っている。

 この塔を失うということは、ただ水を失うだけではない。

 兵は渇き、武器は作れず、傷ついた者は癒されず、軍は、内側から崩れ落ちていく。

 だからリーガンはここを狙う。

 イェナ最大の軍事圏を、取り返しのつかない絶望へ叩き落とすために。

 だが、関係の無い民間人を巻き込む事も必至の計画であった。

 何度も頭の中で反芻してきた作戦のはずだった。訓練の合間にも、夜の寝台でも、幾度となく想定した光景だ。

 それでも、実際に決定事項として告げられた瞬間、ウルメスの胸の奥が、ひどく静かに冷えた。

 来たのだ、と。

 逃げ場のない現実が、ようやく追いついてきた。

 自分が拳を握り、引き金を引き、誰かの生を終わらせる日が。

 マラーの兵士として。

 心臓が、鈍く脈打つ。

 ――ミラ。

 名前を口に出さずに、胸の内で呼ぶ。

 今この瞬間も、農場で土に触れているかもしれない。水を運び、作物を世話し、誰かと笑っているかもしれない。

 その日常を守るために、自分は戦う。それは、はっきりしている。迷いようもない。マラーの主戦力が負ければ、マラーで暮らしている人々は全滅する。戦える者が居なくなるからだ。だから、絶対に、負けられない。

 だが同時に、別の感情が、確かに存在していた。

 この遠征で、どれだけのものが失われるのか。戻ってこられない仲間は何人いるのか。

 そして――自分は、本当に“帰れる”のか。

 母の顔。フィリアの声。血の匂い。あの反乱の日。

 同じだ、と一瞬、思ってしまう。そして、すぐに首を振る。

 (それでも守りたい命が、今、俺にはある)

 ウルメスは、ゆっくりと息を吸った。肺に満ちる空気が、少しだけ冷たい。拳を強く、握りしめる。

 ミラは先に宿舎に帰っていた。

「おかえり、ウルメス」

「ただいま……」

 ウルメスは、しばらく言葉を探していた。その沈黙だけで、ミラは何かを察したようだった。

「……遠征が、決まった」

 ミラは一瞬、息を止めた。それから、ゆっくりと瞬きをする。

「そっか……」

 声は、驚くほど静かだった。だが、指先にわずかに力が込められるのを、ウルメスは見逃さなかった。

 ミラは唇を噛みしめ、俯く。床に落ちる影が、小さく揺れた。

 そして、ゆっくりとウルメスに歩み寄り、ウルメスの胸に頬をうずめた。

「ごめんね」

「どうしてミラが謝るんだよ」

 ウルメスは、ミラが謝る理由が分からず、少し戸惑った。

「私、待ってるから。ウルメスの事」

「ありがとう。君は……俺が帰る場所だ。絶対に帰ってくる。ここに。ミラのもとに」

 遠征当日の朝は、驚くほど静かだった。

夜明け前の空気は冷え、砂地に残った夜の名残が、足元に薄く広がっている。

 玄関前。ウルメスとミラがいる。

ミラのその目が、ほんのわずかに揺れている。ミラは一歩近づき、ウルメスの前に立った。

しばらく、何も言わない。ウルメスは、言葉を探した。

大丈夫だよ、と。必ず戻る、と。いくらでも言えたはずなのに、喉が動かなかった。

ミラのほうが、先に口を開いた。

「……いってらっしゃい」

「……ああ」

 短く答え、ウルメスは頷いた。ミラは微笑んだ。無理に作った笑顔ではない。

けれど、どこか必死な、耐えるような微笑みだった。

 ウルメスは、そっと手を伸ばした。ミラの手に触れ、軽く握る。

「……待っててくれ」

 それだけが、精一杯だった。ミラは小さく頷いた。

「うん。待ってる」

そして、もう一度。

「いってらっしゃい」

 ウルメスは背を向けた。足を踏み出す。仲間たちの声が、遠くで重なり始める。

ミラは、ウルメスの姿が見えなくなるまで、宿舎の前で立ちすくんでいた。

——帰る。

必ず、ここへ。

そう心の中で繰り返しながら、

ウルメスは遠征隊の列へと合流した。その数約二百名。

その朝、空には雲一つなかった。あまりにも穏やかで、残酷なほどに。

 訓練場の一角に設けられた集結地では、兵たちが無言で装備を整えていた。銃の点検音。剣を鞘に収める乾いた金属音。革紐を締め直す指の動き。

 ウルメスは胸当てを固定し、深く息を吐いた。

——大丈夫だ。

 周囲を見渡す。誰もが口数少なく、だが目は鋭かった。それぞれに守りたいものがあり、失ったものがある。その沈黙が、この場の覚悟を雄弁に語っていた。

 やがて、全員の準備が整う。

 重い足音とともに、リーガンが前へ出た。大柄な体躯が朝の光を遮り、場の空気が一段と引き締まる。

 リーガンは兵たちを見回し、低く、しかしよく通る声で言った。

「今日、俺たちはイェナに牙を突き立てる。イェナは言う。これは秩序だと。正義だと。だが、お前の母の死に正義があったか?お前の子の喉の渇いた夜に秩序があったか?なかったはずだ。だから俺たちは取り返す。水を、尊厳を!我々は自由であるべきだ。支配される日々は終わりにしよう。共に切り拓こう、自由の世界を」

 兵士達は一斉に歓声を上げた。ウルメスは、黙っていた。

 マラー領地の門の外では、巨獣たちが兵士を待っていた。

 体躯はウシ科に近い。幅広い胸、岩のように盛り上がった肩、地面を確かに掴む分厚い蹄。

 全身を覆う毛はやや長く、風に揺れている。

色は深い紺と黒が入り混じり、夜の砂漠を切り取ったような暗色。

 兵士達は獣に乗った。隊列が整う。砂が舞い、低い鳴き声が重なる。

 リーガンが先頭で剣を振りかざした。

「進め!」

 一斉に、獣たちが動き出す。砂漠に、重低音の振動が広がっていく。

 門の近くで、兵士を見送る者達がいた。ウルメスはその群勢を横目で捉える。その中に、ミラがいた。

 ウルメスは拳を顔の高さまで振り上げ、ミラの目を見た。

 (必ず帰ってくる)

 そう合図した。

 時刻は正午過ぎ、日が高く昇る頃、軍勢は砂漠の中に消えていった。

 夜が訪れた。砂漠の夜は、音が異様に澄む。風が砂を撫でる音、獣の息遣い、鎧が擦れる微かな金属音。それらすべてが、闇の中で誇張されて聞こえた。

 ウルメスは獣の背に跨ったまま、前方を見据えていた。

 長城が見えてきた。地区内と地区外を隔てる巨大な壁。石と鋼で組み上げられたその城壁は、月明かりを受けて鈍く光り、まるでこの世界そのものが立ちはだかっているかのようだった。

 夜空の端、はるか向こうで、黒い煙が立ち上っている。

炎は見えない。だが、煙の量が、ただ事ではないことを物語っていた。

「……やったな」

誰かが低く呟いた。

工作員の合図。イェナ軍・武器貯蔵庫爆破――成功。

ウルメスは、その煙から目を離せずにいた。音はここまで届かない。それでも、胸の奥に鈍い衝撃が残る。

(もう始まっている)

リーガンは、煙を一瞥しただけだった。驚きも、安堵もない。ただ、状況を把握し、次の一手を決める。

「三班、行け!」

 短く、迷いのない声。

 三班の十名の兵士たちが、無言で前に出る。軽装。最小限の武装。正面突破ではない、門を内側から開けるための部隊。他の部隊はその場で足を止めた。

 三班は長城に取り付いた。石壁に手をかけ、足を掛け、影のように登っていく。

ウルメスは息を詰めて見守っていた。あの向こう側には、確実に敵がいる。

 城壁の向こうから、短く鋭い音が立つ。刃が肉を裂く音。

抑えた叫び声。すぐに、何も聞こえなくなる。

(……速い)

任務が遂行された。

 重い鉄の軋む音。長城の門が、内側から少しずつ開いていく。隙間から、灯りと血の匂いが漏れ出した。

「開いた!」

 誰かが言った。合図と同時に、リーガンが前に出る。

「全班、進め!」

 その声を皮切りに、マラーの兵たちが一斉に動き出した。獣が駆ける。砂が舞う。鉄が鳴る。

 ウルメスも、獣の腹を蹴った。門の向こう、イェナの領域へ。マラーは、ついに踏み込んだ。

 街路を埋め尽くすように、マラーの軍勢が駆け抜けていく。

 蹄が石畳を打つ音がこだまし、砂埃が宙に舞い上がる。

 子供を抱きかかえて走る母親。必死に家族の手を引く父親。

 そして、ある光景を目にした時、目が離せなくなった。妹を背負い、逃げる兄の姿。

 少年の背中が、フィリアを背負って走っていた“あの日の自分”と重なる。

必死で、ただ前だけを見て。守れると信じて。守れるはずだと、思っていた自分。

(……結果は、どうだった)

呼吸が、一瞬だけ乱れる。

少年は振り返らない。後ろを見れば、恐怖に呑まれると分かっているからだ。ただ、逃げる。妹を守るために。

――同じだ。

 酷い罪悪感に押しつぶされそうになりながら、それでもウルメスは進み続ける。進み続ける事しか出来ない。そうする事によって、気を紛らわす。考えないようにするしかなかった。けれど、耐えられず、不意に気持ちが言葉になって漏れ出す。

「すまない……」

 誰にも聞こえない。誰にも届かない。

 ウルメスは俯きながら、街を抜けて行った。

 マラーは緑地が残るシュトーと呼ばれる中心部まで一気に進軍した。

 イェナ軍の武器貯蔵庫からモクモクと黒い煙が立ち上る。辺りの街も、文字通り、大混乱の渦中だった。武器貯蔵庫と隣接している水脈司令塔の目前の街を抜けようとしたマラーだったが、それ以上進軍することは容易ではなくなった。

 イェナがマラーの進撃を読み、街に軍を配置していたからであった。

 肉弾戦が始まった。

 マラーは散開し、水脈司令塔を目指した。リーガンを含む一班と二班は行動を共にしていた。

 夜の闇を裂くように、赤い火の粉が舞い、街の悲鳴と怒号が混ざり合う。

 マラーの軍勢は、その煙を背に、街路へと雪崩れ込んだ。混乱の只中にあるイェナ兵は、統制を失っていた。

逃げ惑う民衆。指示の飛ばない部隊。そこへ、訓練と覚悟を積み重ねたマラーの兵士たちが、容赦なく切り込む。

「押せ! 今だ!」

鋼と鋼がぶつかり合い、銃声が連なって夜を震わせる。最初の衝突は、明らかにマラーが優勢だった。

ウルメスも、その渦中にいた。

鋼鉄化した拳で敵兵を打ち倒し、剣を振るい、前へ前へと進む。

恐怖はある。だが、それ以上に、止まれないという意思が体を突き動かしていた。

(今は……迷うな)

 水脈司令塔は、もう目前だった。

 しかし、次の瞬間、前線のマラー兵が、まるで風に吹かれた木の葉のように吹き飛ばされた。鈍い衝撃音。骨の砕ける嫌な音。

 現れたのは、二人の兵。

その中心に立つ男は、異様なほど静かだった。

 獣のような眼光。無駄のない動き。短い銀髪が目立つ。そして、周囲のイェナ兵が無意識に道を開ける、その存在感。

「ウルフだ!」

「ちっ!もう主力が……!」

 マラー兵が声を上げる。

 ウルフが低い声で、威嚇するように言う。

「殺されたい奴からかかってこい」

 ウルフの部隊を前にして、身をすくめるマラー兵達。そこでリーガンが前進する。

「小童が……」

 リーガンとウルフ。戦闘が始まろうとしたその瞬間、カイザーがリーガンの前に出た。

「大将、ここは俺に任せて下さい。俺がやらなくちゃならないんです」

 その言葉に含まれた私情を、リーガンは一瞬で理解した。短い沈黙ののち、彼は頷く。

「……分かった。ウルフらの相手は二班に任せる」

 リーガンはそう言い残し、通路を迂回し始めた。二班のメンバーはウルメス、ダリア、ロトロト、カイザーの四人だ。

 背を向けたリーガンにすかさず襲いかかるウルフ。その攻撃を食い止めるカイザー。

「お前の相手はこっちだ、犬っころが」

 ウルフが言う。

「お前から殺してやるよ」

 その時、ウルフの背後から冷静な声が飛んだ。

「ウルフ、油断はするなよ。油断は死に直結する」

 ウルフの部隊の一人だった。

「黙れエヴル。こんなカス共は俺一人でも十分なんだよ」

 吐き捨てるように言う。

 ダリアがウルメスに言う。

「ウルメス、カイザーは一人で良いと言い張ると思う。けど、ウルフは、あいつは別格なんだ。僕とロトロトはカイザーに加勢する。だから、ウルメスはエヴルを頼む。言っておくが、エヴルはウルフの次に強い相手だ。覚悟を決めろ、ウルメス」

「分かった」

 ウルフが言う。

「楽しい時間の始まりだ」

 戦闘が始まった。

 カイザーに加勢するダリアとロトロト。カイザーが言う。

「お前ら、こいつは俺一人で良い!俺一人でやんなくちゃなんねぇんだよ!」

 ダリアが答える。

「馬鹿言うな、カイザー!相手はウルフだぞ!君一人で勝てるわけが無いだろう!」

 ロトロトもそれに付け加える。

「ダリアに同感だ。お前一人だと確実に死ぬぞ、カイザー」

 カイザーが舌打ちをしながら言う。

「クソッ」

 (俺が……俺がウルフを……!)

 エヴルが言う。

「ウルフ、加勢する!」

 ウルメスがエヴルを撃つ。エヴルは最小限の動きで弾丸を避ける。

 エヴルが言う。

「頭を狙うべきだったな」

 ウルメスが言う。

「行かせない」

「君が相手か。悪いがすぐに終わらせてもらう。いくぞ……」

 二人は心臓を燃焼させ、腕を赤熱化させた。二人は同時に踏み込んだ。

 砂が爆ぜ、視界が揺れる。赤熱化した腕が振り抜かれ、空気が焼ける音がした。

 ウルメスは拳を叩き込む――はずだった。だが、エヴルの姿が一瞬、消える。

(速い……!)

 反射的に腕を引き戻した、その判断が命を救った。直後、エヴルの肘が、ウルメスのこめかみを掠める。赤熱した金属が皮膚を焦がし、熱が走った。

 ウルメスは歯を食いしばり、距離を取る。息が荒い。心臓の鼓動が耳鳴りのように響く。

「無駄な動きが無い。やるな」

 エヴルは静かに言った。称賛とも警戒とも取れる声音。

「だが、君は燃やしすぎだ」

 その言葉の意味を、ウルメスは理解していた。赤熱化は、時間との戦いだ。心臓を燃やすほど、命を削る。

「……」

 再び踏み込む。

 今度はフェイント。右拳を見せ、左脚で踏み込み、体重を乗せた蹴りを放つ。

 エヴルはそれを受け流す。だが、その瞬間を、ウルメスは逃さなかった。

 肘打ち、赤熱化した肘を、エヴルの脇腹へ叩き込む。鈍い音。だが、エヴルは高速で脇腹を鋼鉄化して、内臓へのダメージを防いだ。背後の建物にエヴルの体が吹き飛んでいく。壁にぶつかる瞬間、受け身を取り、衝撃を体の外へと流す。

 訓練されたロートヒッツェ人の闘いは一撃が勝敗を決める。

 エヴルが眉をひそめた。

 だが次の瞬間、エヴルは自ら距離を詰めてきた。近すぎる間合い。拳も蹴りも封じられる距離。

 エヴルの鋼鉄化した額が、ウルメスの額にぶつかる。ウルメスはすかさず額を鋼鉄化させる。頭突き。

 視界が弾けた。ウルメスは後退しながら、無理やり体勢を立て直す。

 ただ「勝つための動き」だけをエヴルは選んでいる。

 エヴルは一歩、また一歩と近づく。

 その背後で、倒れた市民が呻いていた。崩れた壁の下敷きになり、動けずにいる。

 ウルメスの視線が、一瞬だけ逸れる。

 ――その瞬間。

 エヴルは攻撃しなかった。代わりに、進路を変え、市民の前に立つ。赤熱を解除し、瓦礫を持ち上げる。

「……!」

 ウルメスは息を呑む。そして、攻撃しなかった。そのわずかな静止が、二人の間に落ちる。

 市民が瓦礫から這い出る。

「さぁ、ここは危ないから、早く中心部に逃げて」

「ありがとう」

 赤熱化を解除して見ていたウルメス。エヴルがウルメスを睨む。

「何故攻撃しなかった?」

 「……」

 ウルメスは黙っていた。肺に残った空気を静かに吐き出すだけだった。

 「何故だ、答えろ。マラーの人間が、何故今襲わなかった」

 短い沈黙。

 その間に、遠くで誰かが倒れる音がした。戦場は、待ってくれない。

 ウルメスは視線を逸らさずに言った。

「……きっと、あなたは善い人だと、思ったからです」

「そうか、甘いな。私と同じで」

「俺は俺の信念を曲げたくないだけです」

 戦場で言うには、あまりにも不器用な言葉。

「思いやりは戦場では足枷になる。お前はマラーの連中とは少し違うらしい。しかし、容赦は出来ない。ここからは全力で行かせてもらう」

「……」

 二人は同時に構え、心臓を燃焼させた。二人は踏み込んだ。

 ダリア、カイザー、ロトロトの三人は、同時に心臓を燃焼させた。重なり合う鼓動。内臓の奥で火が灯り、血液が煮え立つ感覚が全身を駆け巡る。

「行くぞ」

ロトロトが低く言い、踏み込んだ。

 赤熱した拳が、一直線にウルフの顔面を狙う。距離、角度、速度。どれも完璧だった。

 だが、殴った感触がない。

 拳は空を切り、灼けた風だけが残った。

「……は?」

 一瞬の困惑。

 次の瞬間、背後に気配。

 しかし、振り向いた時には、そこにもウルフはいない。カイザーが畳みかける。地を蹴り、回し蹴り。赤熱した脛が唸りを上げる。

 ――当たった。そう確信した。だが、足先は何も捉えていない。

「くそっ!」

 ダリアが間合いを詰める。無駄を削ぎ落とした最短の突き。赤熱化した拳が、心臓を狙う。

 だが、その拳は――

 ウルフの肩口をすり抜けた。

(三人同時だ……!)

 ロトロトとカイザーが左右から攻める。

 赤と赤の拳が、交差するように迫る。熱が爆ぜ、砂が舞う。

 だが、そこに、ウルフはいない。気づいた時には、三人の中心に立っていた。息も切らさず、赤熱化もしていない。

「……素手か」

 ウルフが、少しだけ口角を上げた。

「正解だ。武器より、よほど殺せる」

 その言葉が終わる前に、ウルフが動いた。見えない。

 速い。

 ロトロトの視界が、突然揺れた。

 次の瞬間、顎に衝撃。

 何が起きたか分からないまま、身体が宙を舞う。赤熱した腕が、意味をなさず砂に叩きつけられた。

「ロトロト!」

 カイザーが叫び、突進する。

 だが、拳を振り抜く前に、

 ウルフの掌が腹部に添えられる。ゼロ距離の攻撃。それだけで、内側から衝撃が走る。

 「がっ……!」

 臓腑が軋む。息が、全て吐き出される。窓ガラスを割って、民家の中に吹き飛んでゆく。

 ダリアが立ちすくむ。

 (格が違い過ぎる……前回の反乱の頃よりも、更に腕を上げている……このままじゃ全員やられる……)

 立ちすくむダリアにゆらりと近づくウルフ。

「どうした?もう遊びは終わりか?ビビッてそれどころじゃねぇか?ああ?マラーのゴミ共が……。来いよ……来いよぉ!」

「カイザー!まだ意識あるだろ!ロトロトさんを連れて逃げろ!」

 砕けた壁の向こうで、何かが動く。血に濡れた手が、窓枠を掴んだ。カイザーが、這うように姿を現した。息は荒く、片目は腫れている。

「……馬鹿言ってんじゃねぇよ、ダリア。本番は……ここからだろうが」

 ウルフがニヤニヤと口角を上げて、嘲笑しながら言う。

「そうこなくちゃな、俺を楽しませてくれ、カイザー」

 ダリアが叫ぶ。

「クソ!一度でいいから僕の言う事を聞いてくれよ!」

 答えは返らない。カイザーは、ただ一歩前に出た。

「行くぞ……」

 拳を握る。

「イェナの犬め……!」

 ウルフは鋼鉄化すらしない。心臓を燃焼させるだけで闘う。赤熱もない。金属光沢もない。

ただ、胸の奥で低く鳴る鼓動だけが、異様に重く響いている。

――ドン。

 一歩踏み出しただけで、空気が震えた。

次の瞬間、カイザーの視界が歪む。何が起きたのか理解する前に、頬が潰れ、地面が跳ね上がった。

殴られた。

 頭蓋の内側が揺さぶられ、思考が千切れる。血が口の中に溢れ、吐き出される。

「おいおい」

 ウルフは、心底つまらなそうに言った。

「今の、避けるか耐えるかしろよ」

 カイザーは歯を食いしばり、立ち上がろうとする。

 だが、膝が笑う。自分の体が、自分のものじゃなくなっている。

――速い。

「ほら、来いよ」

ウルフは両手をだらりと下げたまま、顎をしゃくった。

「遊びだ。遠慮すんな」

カイザーは吼え、拳を振るう。

赤熱した拳が、確かにウルフの顔面を捉えた……はずだった。

次の瞬間。手応えが、消えた。

 ウルフの首が、ほんのわずかに傾いただけだった。

拳は、空を殴った。

「遅ぇ」

肋骨に、衝撃。

 鈍い音がして、カイザーの体が横倒しに吹き飛ぶ。内臓が揺れ、息が抜けた。

「がっ……!」

 ダリアがウルフに迫る。

「やめろ!」

 だが、みぞおちに高速の回し蹴りを入れられる。

 ダリアの体が宙を舞う。地面が遠ざかり、背中から壁に叩きつけられた。

「邪魔すんなよ、今いいところなんだ」

ウルフは歩いてくる。

まるで、壊れかけた玩具の様子を確かめるみたいに。

「いい顔だな」

しゃがみ込み、髪を掴まれる。

無理やり顔を上げさせられ、至近距離で覗き込まれる。

「その目。悔しいか?」

 カイザーはゴゥッと心臓を燃焼させ、ウルフのこめかみを拳で狙う。だが、当たらない。

「それでいい。死ぬまでそうやって足掻け」

拳が、腹に叩き込まれる。

 一発。二発。

「なぁ、まだ立てるだろ?」

 ウルフの背後にダリアが回り込む。

 しかし、次の瞬間には、ウルフの拳が、腹部にめり込んでいた。

 鋼鉄化すらしていない拳。

 それなのに、骨が、内側から砕ける感触があった。

「――っ……」

 声は出なかった。体が、折れた。

 地面に膝をつく前に、ウルフはさらに一歩踏み込み、肋骨の下に肘を叩き込む。

確かな、致命の感触。ダリアの体が、前に崩れ落ちた。

口から、血が零れる。

視界が、急速に暗くなる。ウルフは、倒れたダリアを見下ろした。

 冷たく、淡々と、

「勇気があれば勝てる、なんて思うなよ」

ダリアは、もう動けなかった。

それでも、視線だけは、カイザーの方を向いていた。

「逃げろ……そいつには……勝て……ない」

ウルフは興味を失ったように、視線を外す。

「すまんすまん、お友達を相手してお前を蔑ろにしちまった」

そう言って、再びカイザーへと向き直った。

ダリアは、砂の上で、静かに、息をすることしかできなかった。

 もう一度、全力で心臓を燃焼させるカイザー。

 (勝てないなんて事は最初から分かってんだよ。だからなんだ、勝てないからなんだ、それでも、俺はこいつに背を向けちゃいけねぇんだよ。そんな事したら、ルアンに顔向け出来たもんじゃねぇ。たとえこの命が尽きようとも、俺はこいつに挑み続けなきゃならねぇんだ)

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