沈黙
目を覚ますと、青空が広がっていた。深い蒼に吸い込まれそうな感覚を覚える。
「ウルメス!」
ミラがウルメスの顔を覗き込む。目には涙が滲んでいた。
「良かった……!目が覚めて……」
ウルメスは我に返り、起き上がる。
「ミラ!あいつらはどうした!大丈夫か?怪我はないか?!」
「大丈夫、ウルメスが私を抱えて逃げ切ってくれたから。心配なのはウルメスの方だよ、体は大丈夫?」
「ああ、心臓を燃焼させ過ぎたはずだったけど……どうしてだろう、体が軽いんだ」
「そう……それは本当に……よかった」
視線は一瞬、ウルメスから逸れる。話を切り替えるようにしてミラが言う。
「さっきね、通りがかりの人に会ってね、この方角に進むと、マラーっていう組織があって、私たちを受け入れてくれるかも知れないんだよ、行こう?」
「待ってくれ、人に会ったって?こんな所に人が?襲われなかったか?それにその情報が本当に正しいのか分からないよ」
「心配ないよ、行こう」
「で、でも……ああ。分かった、行こう」
ウルメスは躊躇っていた。何故ならマラーはあの日の反乱を起こした組織であるからだった。マラーが反乱を起こさなければ、母とフィリアは死ななかった。けれど今、選択肢はない。もう藁にでも何でも縋るしかないんだ。
二人は、ミラが指し示す方角へと歩き続けた。砂漠はどこまでも同じ景色が続くはずだった。
だが、半日も進む頃には、ウルメスは違和感を覚え始めていた。
砂の表面が、ところどころ硬い。踏みしめるたび、足裏に伝わる感触が違う。幾度も踏み固められた地面、人の往来の跡だ。
さらに進むと、風に埋もれかけた轍が見えた。荷車のものだろう。一本ではない。何本も重なっている。
「……人が、かなり通ってるね」
呟くと、ミラは小さく頷いた。
やがて、地平線の向こうに影が現れる。最初は蜃気楼かと思った。だが、それは消えなかった。
人工的な隆起。積み上げられた岩と土嚢。その上を歩く、人影。ウルメスは無意識に息を呑んだ。
それは、要塞都市だった。巨大な岩盤を土台に、石造りの壁が何重にも巡らされている。壁の上には見張り台が立ち、鉄骨の櫓が空を切り裂くように突き出ていた。
自然に出来た地形ではない。時間と労力、そして多くの犠牲の上に築かれたものだ。
外縁部には深い壕。近づく者を拒むように張り巡らされた鉄条網。その内側に、段階的に並ぶ建物群。
住居、倉庫、工房。そして訓練場。
「これが……マラー」
ウルメスの口から自然と声が漏れた。
門をくぐると、音が溢れ出した。金属を叩く甲高い音。怒鳴り声。足並みを揃える掛け声。
通りには人が溢れている。武器を担ぐ者。包帯を巻いたまま歩く者。水を分配する係が、列を乱すなと怒鳴っている。
露店のように並ぶ屋台もあるが、売られているのは嗜好品ではない。保存食、薬草、弾薬。
ここは市ではなく、戦争を続けるための生活圏だった。ウルメスは理解した。ここにいる全員が、「いずれ戦う」ことを前提に生きている。
門をくぐって少し歩いたところで、前方から一人の男が手を振りながら近づいてきた。
「おーい、そこの二人」
やけに明るい声だった。
砂色の外套を羽織り、肩には銃。装備は本格的だが、表情は拍子抜けするほど気楽そうだ。
黒い肌に人懐っこい笑みが浮かぶ。髪は短髪で瞳は黒い。男は二人の前で立ち止まり、じっと顔を見比べた。
「……うん、見ない顔だな」
そう言って顎に手を当てる。
「マラーに入団したいのか?それともただ迷い込んだだけか?」
ウルメスとミラは顔を見合わせて互いに頷き、答える。
「俺たちは入団するために来ました」
「そうか、ついて来い。大将のリーガンに会わせる」
それだけ言うと、踵を返して歩き出す。ためらいはない。まるで、二人が付いてくることなど最初から分かっていたかのようだった。
「俺はロトロトだ。入団には試験がある。まあ頑張れよ」
奥へ進むほど、建物は大きく、頑丈になっていく。石材を削り出した壁。鉄で補強された扉。
地面には踏み固められた足跡が幾重にも重なっていた。やがて、ひときわ大きな建物の前で、ロトロトは足を止めた。
他と比べて装飾はない。だが、異様な存在感があった。入口の扉は分厚い鉄板。両脇には武装した兵士が二人、微動だにせず立っている。
ロトロトは肩越しに二人を振り返った。
「ここだ」
その声から、さっきまでの軽さが少しだけ消えている。
中は広かった。天井は高く、梁には無数の傷痕。床には古い血の染みが、洗い流されずに残っている。
そして、その奥。
岩壁を背にして、一人だけ異質な影が玉座に座っていた。背が高い、というより、大きい。
肩幅は並の男の二倍はあり、太い腕が垂れ下がっているだけで、鎖のような圧を感じる。
着ている服もまた、簡素だが異様だった。厚手の外套は、ところどころ革と金属で補強され、胸元には無数の縫い痕と焦げ跡。
飾り気は一切ない。戦うためだけに作られた服。
腰には巨大な刃物。だがそれ以上に目を引くのは拳だった。節くれ立ち、指は太く、何人もの骨を砕いてきたことが一目で分かる。
顔は無精髭に覆われていて、威圧感がある。
ウルメスは直感する。
(ああ……こいつが――)
マラーの大将、リーガン。無造作に伸ばされた茶色の髪は、ところどころ癖がある。茶色の瞳、濁りのない、深い色をしている。
ウルメスは、拳を握った。
指の関節が白くなるほど、力を込める。怒りが、喉元までせり上がってきていた。
母さんとフィリアが死んだのはこの男のせいだ。あの反乱のが起きなければ……胸の奥で、その言葉が何度も反響する。
だが、脳裏に浮かんだのは、リーガンの顔ではなかった。泣き腫らした目のミラの姿だった。
ここで感情を解き放てば、ミラは、また居場所を失う。それだけは、させない。ウルメスは、奥歯を噛み締めた。
怒りも、憎しみも、叫びも、すべて胸の底へ沈める。
ミラのために。
彼はゆっくりと拳を解き、何事もなかったかのように顔を上げた。
ロトロトがリーガンに告げる。
「大将、連れて来た。入団希望だ」
「分かった」
ヒリヒリと肌を緊張させる、そんな威圧感のある声だった。
玉座に座っていたリーガンはウルメスとミラの前へとゆっくり歩き始める。
「入団したいと言ったな」
ミラは怯えてウルメスの腕を掴んでいる。その手を握ったまま、ウルメスは一歩前に出て、答える。
「はい、俺たちはマラーに入団するためにここに来ました」
リーガンは、しばらく黙って二人を見つめていた。
まるで値踏みするように。それから、意外な言葉を口にする。
「そうか、歓迎する。ここではみなが家族だ。血が繋がっていなくてもいい。罪も過去も、関係ない」
リーガンは一歩、前に出た。
「ここでは俺が父親だ。命に代えてでも、お前たちを守る」
一拍置き、声が低く落ちる。
「だがな」
踵を返し、背後の扉に視線を向ける。
「守る覚悟のない人間はいらない」
「自分の手を汚す覚悟もなく、誰かを守れると思っている奴」
「正しさを盾にして、誰かにやらせようとする奴」
リーガンの目が、鋭く光る。
「そういう人間が一人混じるだけで、家族は死ぬ」
合図もなく、扉が開いた。
引きずられる音。鎖が床を擦る音。押し殺した呻き声。
床に放り出されたのは、イェナ軍の捕虜だった。
「ここにいられるのは、一種類の人間だけだ」
リーガンは捕虜ではなく、ウルメスたちを見る。
「家族を守るためなら、躊躇なく地獄に堕ちる覚悟のある者だけだ」
合図もなく、扉が開いた。
引きずられる音。鎖が床を擦る音。押し殺した呻き声。床に放り出されたのは、イェナ軍の捕虜だった。
捕虜の顔は殴られて腫れ上がり、片目は塞がっている。それでも、生きている。
捕虜は怯えた様子で震えた声を上げた。
リーガンはゆっくりとミラの目の前まで歩みを進めた。ミラは恐怖で後ずさりたい気持ちを必死に堪えた。
「名はなんと言う」
「ミラです」
するとリーガンは腰に付けていた拳銃をミラに手渡しながら言う。
「ミラ、この捕虜を殺せ」
ミラは戸惑い、たじろぐ。
「ど、どうしてですか……」
リーガンは淡々と冷酷に答える。
「敵だからだ」
ミラは捕虜を見る。震える肩。荒い呼吸。捕虜はミラを見つめ、懇願する。
「殺さないでくれ……!頼む……!」
そもそもこの捕虜は敵なのか。敵とは一体なんなのだ。ミラは分からなかった。だが、一つ分かっている事は、この人は同じ人間で、生きているということ。
「……私は……」
声が、掠れる。
「殺したく、ありません」
正直な答えだった。リーガンは、何も言わずに頷いた。次にリーガンはウルメスに視線をやり、問うた。
「名は?」
「ウルメスです」
「ウルメス」
その名を、リーガンは噛み締めるように呼んだ。
「お前が代わりに殺せ」
もう一つの拳銃をウルメスに手渡す。広間の空気が更に重く沈む。
「……はい」
短い返事だった。それ以上の言葉は、喉を通らなかった。
「えっそんな……」
ミラがウルメスの目を見る。ウルメスはミラの訴えかける目に返事をする。
「ミラ、仕方のない事なんだ」
「ウルメス……」
リーガンが言う。
「ミラ、俺たちのやってることはこういう事だ。目を背けるな。向き合え」
捕虜は暴れ始めた。腫れて小さくなった目でウルメスをみつめる。その目が、ウルメスの脳裏に焼きつく。
「やめてくれ!撃たないでくれ!」
選択肢なんて、最初からなかったのだ。ここに立っている時点で、俺たちはもう戻れない場所まで来てしまっている。
殺さなければならない。そうしなければ、生き残れない。
それは命令でも、理屈でもなく、この世界の答えだ。
母さんを守れなかった。フィリアも、守れなかった。
あの時、俺の手は空っぽだった。何も掴めず、何一つ救えず、ただ失った。
だから、もう失うわけにはいかない。
ミラだけは。
たとえ、この手が血に染まろうと。たとえ、人であることから遠ざかろうと。
ミラが生きられるなら。それでいい。
それしか、残されていなかった。
「やめ……!」
ミラが言葉を言い切る前に、遂に引き金が引かれた。乾いた音が広間に響く。
頬に捕虜の血が飛び散る。ミラは、その場から一歩も動けなかった。
倒れ伏した死体を、ただ見つめている。目は開いたまま、瞬きもしない。
血が床に広がっていく。それを、ぼんやりと眺めながら、涙が、頬を伝った。
最初は、静かに。音もなく、こぼれ落ちるだけだった。
だが次の瞬間、ミラの視界が歪む。
違う。
床に倒れているのは、この男じゃない。脳裏に、別の光景が割り込んでくる。
銃声。
胸を撃ち抜かれ、崩れ落ちる父の姿。
血に染まった服。震える手。何かを言おうとして、声にならなかった口。
「……あ……」
ミラの喉から、掠れた声が漏れる。
視界が揺れる。今と過去が、重なっていく。
倒れている死体が、父親に見えた。床の血が、あの日の血と重なる。
足元が、崩れた。ミラは膝から力を失い、その場に崩れ落ちる。涙が止まらない。
「よくやった、ウルメス。敵を殺す事を躊躇すれば仲間が殺される。お前は守る事の出来る人間だ。我が息子よ」
そう言ってリーガンは出口へと向かって行った。
「ロトロト、ウルメスとミラを案内してやってくれ」
そう言い放つと、リーガンは姿を消した。
「分かりました、大将」
ロトロトは、俯き何も話さない二人のもとへと歩み、声をかける。
「なんつーか……」
言葉を探すように頭を掻きながら、低い声で続けた。
「大丈夫か?お前ら」
ウルメスは、はっとしたように顔を上げる。一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。
「え、ええ」
ミラは返事をしないまま涙を拭い続けている。
「何か食うか?って、そんな気分じゃねぇよな。寝床まで案内する。今日はもう休め。お前たち共同で使ってもらう事になるが、了承してくれよ、空き部屋は少ないんだ」
ウルメスは小さく頷いた。
「……分かりました」
ミラは、まだ顔を上げない。
ロトロトはそれを見て、何も言わずに踵を返した。
「ついてこい」
その背中を追いながら、ウルメスはミラの隣に立つ。だが、声をかける勇気は出なかった。
歩き出したミラの背中は、小さく、脆く見えた。
守ったはずなのに……
その背中が遠く感じられて、ウルメスの胸の奥で、また息が詰まった。
ロトロトは無言の二人を連れて、拠点の奥へと進んでいった。石と金属を組み合わせた通路は、外から見るよりもずっと入り組んでいる。天井には簡素な灯具が等間隔に吊るされ、淡い光が床を照らしていた。
人の気配はある。足音、低い話し声、どこかで金属が擦れる音。
だが、それらはすべて遠く、壁一枚隔てた別世界のようだった。
「ここだ」
ロトロトが立ち止まり、扉を押し開ける。中は、質素な部屋だった。石壁に囲まれ、窓は小さく、外の光が細く差し込んでいる。部屋の中央には簡単な木製の机。壁際には寝台が二つ、間隔を空けて並んでいた。
最低限、生きるためだけの空間。
「悪いな、広くはねぇ」
ロトロトは軽く肩をすくめる。
「これ、着替えな。そんな血だらけの服着てたら病気になるぞ。水は外の共同桶だ。夜は冷えるから、毛布はちゃんとかけろよ」
それだけ言うと、少し迷うように視線を彷徨わせたが、結局、何も付け足さなかった。
「……じゃあな」
扉が閉まる。重い音がして、二人きりになった。
ウルメスは立ったまま、部屋を見回した。何をすればいいのか分からなかった。声をかけるべきか、そっとしておくべきか、判断がつかない。
ミラは寝台の端に腰を下ろし、俯いていた。その肩は小さく、微かに揺れている。だが、嗚咽は漏れない。
沈黙が、部屋に落ちる。時間だけが進んでいった。
差し込んでいた光が、少しずつ傾き、壁の影が伸びる。昼の明るさは失われ、部屋は鈍い色に沈んでいく。
ウルメスは寝台に腰を下ろした。ミラとは、向かい合う形になる。だが、視線を合わせることはできなかった。
何も話さないまま、何もできないまま、日が落ちていく。
やがて灯具に火が入れられ、橙色の光が部屋を満たした。昼と夜の境目は、驚くほど静かだった。
ミラは一度も顔を上げなかった。ウルメスも、声をかけなかった。
同じ部屋にいて、同じ時間を過ごしているのに、二人は、まるで別々の夜を迎えているようだった。
外では、誰かの笑い声がかすかに聞こえた。遠くで、火が爆ぜる音がした。
だが、この部屋だけは、冷えた沈黙に包まれたままだった。
気がつくとウルメスは寝落ちしていた。しかし、ある音で目が覚める。ミラが泣いて、鼻をすする音だった。小さく押し殺した泣き声。
ウルメスはしばらく、その音を聞いていた。
体を起こすことも、声をかけることもできず、ただ耳を澄ませていた。
暗闇の中、呼吸と嗚咽だけが、ゆっくりと時間を刻んでいる。
やがて、ウルメスは静かに立ち上がった。床を軋ませないよう、足を運ぶ。
ミラの寝台のそばに腰を下ろし、横たわる彼女を見下ろす。
震える肩。濡れた睫毛。
手を伸ばす。触れようとして、ためらう。
声をかけようとした、その時だった。
ミラが、勢いよく身を起こした。そして、何も言わずにウルメスに抱きついた。
細い腕が、必死に彼の背に回される。
縋るように、逃がさないように。
「……ごめんなさい……」
声は、ひどく掠れていた。
「本当に……ごめんなさい、ウルメス……」
ミラは顔を押し付け、途切れ途切れに言葉を吐き出す。
「ウルメスは……私のために……してくれたのに……なのに……私……ウルメスのこと、憎んでしまったの……」
肩が大きく揺れる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……お父さんも……いなくなって……私……化け物で……人殺しで……」
息が詰まり、言葉が崩れる。
「どうすればいいの……?ねぇ……ウルメス……私……どうしたら……ウルメス……ウルメス」
何度も名前を呼ぶ。祈るように、確かめるように。
ウルメスは、ミラを抱き留めた。力を入れすぎないよう、だが、離さないように。
眉間に、自然と皺が寄る。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
「……大丈夫」
低く、穏やかな声だった。
「大丈夫だよ」
正しい答えなんて、分からなかった。
「大丈夫……大丈夫……」
ウルメスはその言葉を繰り返す事しかできなかった。
そうして時間が経ち、ミラの呼吸が、ゆっくりと落ち着いていく。
腕の中の重みが、現実として確かに伝わってくる。泣き疲れたのだろう。やがて、ミラは小さく寝息を立て始めた。
ウルメスは、そのまま動けずにいた。
抱きしめる腕を緩めることも、寝台に戻すこともできなかった。
もし、今、手を離したら
そんな考えが、胸をよぎる。根拠はない。だが、妙に現実味を帯びていた。
この腕を離した瞬間、ミラはどこかへ行ってしまう気がした。
母を守れなかった。
妹を守れなかった。
手を伸ばしながら、届かなかった。
そして今、また同じ光景を、腕の中に抱いている。
(……もう、繰り返さない)
声には出さなかった。出せば、何かが壊れてしまいそうだったから。
強くなりたい。
ただ、
(この人だけは)
胸の奥で、静かに言葉を結ぶ。
(この人だけは、俺が守る)
どれだけ血を流すことになるのか、分からない
(それでもいい)
誰かを守れなかった人生の中で、自分の存在に意味を見出せる気がした。
ミラの体温が、確かにそこにある。弱くて、脆くて、それでも確かに生きている。
守れなかった過去は、消えない。失った命は、戻らない。
それでも。この腕の中にいる命だけは、俺が最後まで、離さない。
そう決めた。
夜は、まだ深い。だが、ウルメスの中で、何かが灯っていた。
確かに生きる理由だった。




