破裂
ルシュタルトの祷の日から数日経った時分。
朝靄の残る砂の路を、ウルメスはいつものように荷車を引いた。木の車輪が石畳をこすり、軋む音が静かな街に響く。ザクセンの人々はまだ目を覚ましていない。
普段なら、修道院の鐘が朝の風に響いているはずだった。今日は、それがない。
ウルメスはいつものように荷車を止め、いつものように扉を叩く。だが、返事は返ってこない。
「おーい。バッハルさん、持ってきましたよ」
風が砂を巻き上げ、沈黙が広がる。
少しして、扉の奥から足音が聞こえてきた。だが、一人ではない。
二人、いや……もっといる
靴底が石畳を打つ音が、規則正しく響いた。金属が擦れる音も聞こえる。ウルメスは妙だと思った。
カチャリ。錠が外れる音がした。
扉がゆっくりと軋んだ。木の蝶番が悲鳴を上げるように鳴る。ウルメスは息を呑んだ。
扉が、開いた。
現れたのは、バッハルではなかった。
現れたのは白色の、胴の丈の短いジャケットに首まで伸びている黒のインナー、白色のズボンと、黒の革靴を履いた兵士だった。肩章には、イェナ軍の紋章が縫われている。三人いた。
先頭の兵士が真っ直ぐにウルメスを見た。そして、口を開く。
「ウルメス・ストルトだな?」
ウルメスは動揺していた。
何故ここに兵士が?バッハルさんはどうした?何故俺の名を知って……
「は、はい。そうですが……」
兵士は表情を変えず、ウルメスの背後の荷車を指さした。
「その水はどこから運んだ?」
「え、どうして……」
この瞬間、ウルメスは悟った。家の井戸の事がバレたのだと。同時に、体中を劈くような危機感が走る。背筋に氷の刃を突き立てられたような感覚。頭の奥が真っ白になる。
水源の隠蔽は重罪だった。イェナの貴族階級の者たちは、下層民に水を与える事によって、民を統治していた。水の管理は軍により厳格に統制されており、水の私有は国家への反逆行為とされた。
ウルメスはその事実をゲルシュから教わっていた。捕まったら終わり、処される罰は死刑だった。
事実を知っても、ウルメスやゲルシュ、ミラは水を運ぶ事をやめなかった。水に飢える人々を一人でも救いたかったからであった。
兵士たちが視線を交わす。そして、先頭の男がわずかに口角を上げ、低く言い放った。
「当たりだ。拘束しろ」
一斉に動き出す兵士たち。
ウルメスは思考より、先に体が動いていた。心臓を燃焼させ、荷車を掴み、思い切り兵士たちの目の前に投げつける。水瓶が砕け、破片と共に水が宙に舞う。
家の方向に走り出すウルメス。
きっと家にも兵士が来ているに違いない。早く帰らなければならない。
「撃て!」
叫びと同時に、銃口が火を噴いた。砂埃が爆ぜ、耳鳴りがした。
ウルメスは振り返らなかった。胸の奥の“炎”が全身を駆け抜ける。
二人を守らなければ……失ってたまるか……俺の居場所なんだ
背後で怒号が上がる。
「追え!逃すな!」
ウルメスは砂を蹴り上げて走り続けた。太陽が昇り始め、街の輪郭が朝の光の中に浮かび上がる。
ウルメスの足取りはまるで風だった。一歩蹴り上げるたびに大きく砂塵が舞う。凄まじい速さで走った。
「なんだあの速さは?!」
「これでは追いつけません!」
背後で怒号が響く。
息が切れない。体が軽い。視界が異様に鮮明だ。
燃えろ、もっと、もっとだ!
さらにスピードを上げるウルメス。熱が血管を駆け抜け、背後の兵士たちは次々に遠ざかっていく。
「見えた!」
家が見えた。
その瞬間、脳裏をあの夜が閃光のように走る。
母の悲鳴。弾丸。崩れ落ちる体。
胸の奥が焼けつくように痛んだ。
「くっ……!」
ウルメスは扉を開いた。
三人の兵士がいた。ひとりは入口近く、もうひとりはテーブルの横、そして最後のひとりが奥の壁際に立っていた。その壁際には、ミラとゲルシュが押し込められていた。兵士たちは銃を構え、まるで二人を獲物のように囲い込んでいる。
ゲルシュの肩口には血が滲んでいた。すでに抵抗した後があった。ミラはその肩を支え、震えながらも兵士たちを睨みつけていた。床には倒れた椅子と割れた陶器。
ミラとゲルシュが叫んだ。
「ウルメス君!」
「ウルメスさん……!」
ウルメスは胸が張り裂けそうな思いで叫んだ。
「その二人は無実だ!俺がその二人に命令していただけだ!命令に従わなければ殺すと脅していた!」
「は?」
兵士達はきょとんとしていた。ミラとゲルシュを追い詰めていた兵士が言う。
「お前、まさか逃げてきたのか……?すごいな。まあ、あいつらは使えねぇからな」
「全ての責任は俺にある!だからその二人を解放しろ!」
一寸、沈黙が流れ、三人の兵士たちは大笑いした。そしてウルメスに同情するかのように、笑いながら、
「お前、何も知らされていないんだな」
「なん、だと……」
何も知らされていない?どういう意味だ……
「確かに水源の隠蔽は国家反逆罪の重罪だ。だがな、ロートヒッツェ人ならば命までは取りはしないんだよ、若造。お前たちがいなければ、国の雑用をする者がいなくなるからな。だが、それもロートヒッツェ人だったらの話だ」
「何を言ってるんだ……」
言っている意味が分からない
「俺がこの二人に銃口を向けてるのは、こいつらがイーリオス人の可能性があるからだよ」
「イーリオス人?」
「そうだよな、お前たち下層民は歴史すら知らないよな。簡単に言えば、この世界の悪者だよ」
「悪者……?」
イーリオス人?歴史?一体なんなんだ
「おい、例の物を」
テーブルの横にいた兵士が鞄の中から液体の入った小瓶を取り出し、ミラとゲルシュに銃口を向けている兵士に渡した。
「なんだ、それは」
ウルメスは低く問うた。
銃口をミラとゲルシュに向けていた兵士が、受け取った瓶を掌で転がすように持ち上げた。
「神殿の聖水さ」
「何をするつもりだ!」
一歩踏み出そうとする。だが、隣にいた兵士に、拘束され、床に倒される。腕を後ろに回され、怪力で掴まれている。
「おいウルメス・ストルト。お前はこいつらを庇うのか?水源の隠蔽よりもさらに重罪だぞ?おい女、動くなよ。男もだ。動いたら、その瞬間に殺す」
「くっ……!」
ゲルシュが苦渋を舐めるような顔をした。
兵士はその小瓶をミラに近づけた。すると、瓶の中の液体が小さく泡立ち、金色の光が広がるように揺らめいた。
ミラの肌の上に、薄く光の筋が走る。まるで神経そのものが光っているようだった。
「反応した!こいつら、やっぱりそうだ!」
「殺せ!」
テーブルの横にいた兵士が叫んだ。
「言われなくとも……!」
銃口をミラに向ける兵士。兵士の指が、引き金にかかる。ウルメスが叫ぶと同時に心臓を燃焼させる。拘束を目一杯の力で振り解き、駆ける。
「やめろぉ!」
引き金が引かれる。
弾丸が貫いたのは、ゲルシュだった。引き金が引かれる瞬間、ゲルシュはミラの前に体を投げ出した。胸からは鮮やかな赤が広がっていく。ゆっくりと力が抜けていく。
「お父さん!」
ミラが駆け寄る。ゲルシュの体を支える。だが、体は床に崩れ落ちる。
「ゲルシュさん!」
「すまない……二人とも」
「いや!お父さん!」
「ミ……ラ……」
兵士が叫ぶ。
「その女もやれ!」
銃口がミラに向けられる。ミラは銃口を怯えた表情で睨んだ。
その時、ブォンッ!と轟音が家の中に響き渡る。家全体が大きく揺れる。
「なんだ……?この揺れは!?」
ミラから銃口が外れる。
熱気が兵士たちの服をたなびかせる。熱風の発生源の方を向くと、そこにはウルメスがいた。ウルメスが拳を握りしめ、赤熱化させている。
「お前たち……これ以上は……やめろ……!」
兵士たちはウルメスの力に驚愕していた。何故ならば、赤熱化させる事が出来るのは、鍛え抜かれた兵士でも困難な事であったからだ。そして熱風が吹くほどの燃焼力。
「早くその女を殺せ!」
「分かっている!」
もう一度銃口を向けようとした兵士の手は、次の瞬間には、肘が逆方向に折れていた。
ウルメスが折っていた。ウルメスが元いた場所は床の板が蹴った勢いで破壊されていた。
兵士は苦痛の声を上げる。
「うああああああ!!!!」
ウルメスは低く脅す。
「やめろ……!」
周りにいた二人の兵士が、銃口をウルメスに向ける。すぐに発砲した。
「撃てぇ!」
ウルメスは身をひねり、弾丸を避ける。銃弾が壁や床をえぐり、木片が飛び散る。
二発、三発。金属が空気を裂く音が耳を貫く。
しかし、四発目。
熱が走った。腹部に、焼けつくような痛み。弾丸が貫いた。衝撃で体が後ろにのけぞる。口の中に鉄の味が広がる。
「ウルメスッ!!」
ミラの悲鳴が響く。
血が、腹の下から滴り落ちる。だが、ウルメスは倒れなかった。ゆっくりと顔を上げ、兵士を睨む。
「撃てぇ!」
次の瞬間、ウルメスは全力で心臓を燃焼させた。そして一人の兵士に近づき、拳銃の銃口を力任せに捻じ曲げた。相手の兵士も心臓を燃焼させ、腕を赤熱化させる。拳同士がぶつかり合い合い、火花が散る。
「クソッ!これじゃ撃てねぇ……」
もう一人の兵士も心臓を燃焼させ、ウルメスに襲いかかる。
互いの拳がぶつかるたびに、皮膚が裂け、肉が焦げる。ウルメスの拳が兵士の頬を掠めた。
皮膚が剥がれ、血と汗が飛び散る。兵士の顔がぐらりと揺れ、すぐさま反撃の拳が飛んでくる。
「ぐっ……!」
顎を打たれたウルメスの視界が一瞬、白く弾けた。だが、すぐに腹から炎のような呼吸を吐き出す。
拳が突き出される。空気が歪む。ウルメスは止まらず、一歩踏み込み、一撃を叩き込む。拳が腹を抉る。鈍い音とともに、兵士の体がくの字に折れた。
ウルメスの額から汗が滴り落ちる。
二人目の兵士が背後から回り込み、ウルメスの背中に肘を叩きつける。
「がっ……!」
肋骨が軋み、肺の奥から熱い息が漏れる。
振り返りざま、ウルメスは相手の顔面めがけて拳を振り抜いた。
拳が頬骨を砕き、歯が飛び散る。
「うっ……!」
拳と拳がぶつかる。空気が震え、二人の足元の砂が吹き飛ぶ。皮膚が焼け、指の節が露出していた。
渾身の一撃が兵士の胸をとらえた。骨が砕ける音が聞こえた。兵士が後ろに吹き飛び、壁に叩きつけられた。
ウルメスの呼吸は荒く、血が喉の奥で泡立つ。
もう一人の兵士がよろめきながら立ち上がる。
二人の拳が、再びぶつかる。爆風のような衝撃が走り、部屋中の空気が震える。
兵士の拳がウルメスの頬を打ち抜き、火花が散る。そのままウルメスが逆の拳で兵士の胸を殴り返す。
どちらの拳も止まらない。
拳が交錯するたびに、床が軋み、窓が砕ける。
「ぁああああああああッ!!!」
最後の一撃。二人の拳がぶつかり合い、轟音が鳴り響いた。炎が爆ぜ、兵士の体が吹き飛ぶ。壁に叩きつけられ、動かなくなる。
ウルメスはその場に膝をついた。拳が焼け爛れ、指が震えている。
「……はぁ……はぁ……はぁ……」
焼け焦げた空気の中で、ウルメスの肩が小刻みに震えていた。ウルメスは膝をついた。立っていられなかった。その時、
「終わりだ」
ウルメスは声のする方を振り返った。最初に腕を折った兵士が、銃口をこちらに向けて立っている。
「俺の部下を殺しやがって。死ね!」
「やめて!」
ミラが叫びながら兵士に飛びかかった。銃口が逸れ、弾丸は壁にめり込み、粉塵が舞う。
「どけぇッ!!」
兵士がミラを突き飛ばす。その拍子に腰に付けていた小瓶が落ち、床に聖水が溢れる。
「クソッ!聖水が!ええぃッ!まずはお前からだ!」
ミラに銃口が向けらる。
「待て!」
ウルメスが手を伸ばす。だが力はもう残っておらず、その手は震えている。
その時、ミラは咄嗟に床に溢れていた聖水を舐めた。次の瞬間、ミラの肌の下を光が流れ始めた。それは血流に沿って走り、やがて皮膚の表面に浮かび上がった。
バンッ!
兵士は発砲した。だが弾丸は銃口とミラの間で静止した。
「え……?」
ミラは状況が分からなかった。
「クソがッ!」
何度も発砲する。だが、全て弾丸はミラの目の前で止まる。
光の筋が、花弁のように広がる。肩から腕、鎖骨から頬へと、淡い金色の紋様が描かれていく。
紋様は生きているようにゆっくりと脈動した。心臓の鼓動と同じリズムで明滅を繰り返す。瞳が金色に輝く。
兵士は心臓を燃焼させ、ミラに襲いかかった。
「やめて!」
次の瞬間、兵士の体がパンッと音を立てて破裂した。まるで見えない圧力に内側から押し潰されたように、骨も肉も瞬時に砕け散り、赤い霧が宙を舞った。血と内臓はミラを避けるように弾け飛ぶ。
「どういう事……?私が……やったの……?」
ミラは震える手を見つめた。指先が微かに光を帯びている。
吐き気がこみ上げる。ミラはその場に膝をついた。
ウルメスは膝をついたまま、その光景を見ていた。片目だけが開き、焦点が合わない。
「……ミラ……」
ミラの周囲で光の粒が舞っている。ミラは泣いていた。肩は震え、拳は握りしめられていた。
自分の力が、人を殺した。その事実が心を裂いていた。
だが、すぐに我に返り、ウルメスの元へと駆ける。
「ウルメスさん!」
ウルメスは膝をついたまま動けないでいた。
「どうしよう、どうすれば……」
ミラは困惑していた。
「ミラ……地区外に、逃げ……るんだ」
「え……」
「もうすぐ……追っ手が……来る。だから……早く……」
「そんな、ウルメスさんを置いていけない……!」
「いいんだ……早く……!」
すると、外から、何かが鳴り始めた。最初はかすかな足音。しかしそれは明瞭なものへと変わっていく。追っ手だ。
ミラはウルメスを見た。顔は傷と血で汚れ、呼吸は浅い。弾丸は腹に深く食い込み、傷口はまだ疼いていた。
さらに足音は近づき、目前まで迫る。そして家の中に兵士が入ってきた。
「なんだ……これは……!」
ウルメスを追っていた兵士達だった。
「お前たちがやったんだな!それにその光は……!お前たち、この女を殺せ!」
銃を出して発砲する。だが、銃弾は静止する。
「こいつ、銃が効かない?!」
三人の兵士はミラに襲いかかる。
「やめて……私に近づかないで……!」
相手に手のひらを向け、近づくなと警告するが、意味をなさない。
三人の兵士は破裂した。家の壁や床は、さらにドス黒い赤で染まっていった。
「くっ……!」
ミラは胸が締め付けられる思いがした。ウルメスが声を絞り出す。
「よかっ……た……これでしばらく……は……」
視界が黒く染まりはじめる。
「ウルメスさん!ウルメス――」
自分の名を呼ぶ声が響く、だが、その声も次第に聞こえなくなっていった。




