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祷の日

ウルメスがミラの家に来て五ヶ月が経った時分、ウルメスはバッハルから、ある告知紙を受け取った。

「なんですか?これ」

「ルシュタルトの祷、知らないか?ルシュタルトはイェナ語の古語で、おおいなる恵みを意味するんだ。緑があった頃は収穫を感謝する意味合いだったんだけど、今は緑を守り続ける祈りっていう意味合いになってる。いや、唯一心を寄せ合える日の方が合ってるかな。街では小さいけど催し事もある。行ってみたら?」

「ありがとうございます、行ってみようと思います」

 ウルメスは家の居間で告知紙を見ていた。

「へぇ、そんな果物もあるんだ」

 と呟く。

 そこに畑仕事を終えたゲルシュと買い出しから帰ってきたミラがやってきた。ゲルシュが告知紙の存在に気づく。

「お、もうそんな時期か」

 ミラも反応する。

「ウルメスさん、ルシュタルトの祷、行きますか?」

「はい、行こうと思っています。バッハルさん曰く、何か催し事があるとか。楽しみです」

「ウルメス君、一人で行くの?」

「ええ、まあ。そのつもりでしたけど」

「そんなぁっ!一人じゃ味気ないじゃないか。だからって男二人でっていうのもなぁ。ミラ、ウルメス君と行く気はないか?」

 ミラは少し恥じらい、目線を逸らし言う。

「私?その……ウルメスさんが私でよければいいんですけど……」

 ウルメスは屈託なく答える。

「ミラさん何言ってるんですか、いいに決まってるじゃないですか。むしろ僕なんかでよければ……」

「決まりだな。ウルメス君、ミラ、たまには羽を伸ばしてこい」

「はい」

「うん」

 ルシュタルトの祷までは一ヶ月あった。ウルメスは懸命に働いた。水瓶の運搬だけでなく、畑仕事や家の修繕、家事から料理までなんでもこなした。

 ウルメスにとって、ルシュタルトの祷は待ち遠しいものになっていた。気がそぞろだった。夜寝る前、祷までの日数を指折り数えたものだった。

 ルシュタルトの祷では、街の広場の中央に祷火塔と呼ばれる、巨大な塔が建てられる。高さおよそ八メートルの木組みの塔で、頂には火皿が据えられ、聖なる炎が一晩中燃え続ける。

 この火は、かつて大地を潤した太陽の恵みを象徴するとされている。砂漠に覆われた今となっては、ただの炎にすぎない。だが、人々にとっては「まだ生きている」ことを示す最後の証であり、希望の灯火だった。

 塔は毎年、祷のためだけに組み上げられる。太い木材を縄と鉄具で結わえ、彩布と祈祷札で飾り立てる。

 祷の日の二日前、組み立て途中の塔を一目見ようと、ウルメスとミラは街の広場に向かった。その日は風の強い日だった。

 広場の中央には、まだ半ばしか完成していない祷火塔がそびえていた。幾本もの太い木材が交差し、縄で縛られている。高所では職人たちが掛け声を合わせながら材木を引き上げ、金槌の音が乾いた空気に響き渡っていた。

 地面には色鮮やかな布が積まれている。塔を飾るための布札だろう。祈りの言葉が染め抜かれたそれらは、夕陽を受けて赤や青にきらめいている。

「大きいですね……」

 思わずウルメスは感嘆の声をもらす。

「そうですね」

 ミラも小さく頷き、組み上げられていく塔を見上げた。

「毎年あれを建てるんですか?」

「ええ。頂上を見てください。祷の日には、あそこに火を入れるんです」

「これ、完成したら迫力あるだろうなぁ」

 その時だった。

 広場を切り裂くように突風が吹き抜けた。吊るされた祈祷札がばさばさと乱れ、砂埃が舞い上がる。

 バチンッ!

 乾いた破裂音が広場に響いた。風により塔が傾き、塔を縛っていた縄の一本が弾け飛んだ。塔がぎしりと軋み、ゆっくりと傾く。上で作業していた職人たちが悲鳴を上げ、地上の群衆もざわめいた。

「倒れるぞ!」

 このまま倒れたら、塔の上部で作業している人が落下して怪我を負う。

 ウルメスの体はもう動いていた。群衆が逃げ惑う中を逆走し、傾きかけた塔の支柱へと駆け寄る。

「ウルメス!駄目!」

 ミラの叫びが耳に届いたが、ウルメスは止まらなかった。

 彼らを助けなければ……!

 倒れ込んでくる支柱に身をぶつけ、肩と背で押し返す。衝撃が全身を襲い、肺から息が漏れた。

「……ぐっ……!」

 心臓を極限まで燃焼させ、限界まで筋力を高める。巨木の重みは岩山そのものだった。歯を食いしばり、石畳に足を踏み込む。足がめり込み、石畳がずれていく。

 ウルメスは一人で塔が倒れるのを支えていた。

「早く縄を結び直せ!」

 職人達が駆け寄る。慌てて新しい縄を持ち出し、支柱に回し始めた。

 額から汗が滝のように滴り落ちる。肩は砕けそうに痛み、腕は痺れで感覚が薄れていく。それでもウルメスは必死に支柱を抱き込み、身体で押し返し続けた。

「もう少しだ!持ち堪えろ!」

 やがて縄が固く締め直され、支柱が固定される。広場に、重苦しい沈黙が落ちた。

 そして次の瞬間、安堵と歓声が爆発した。

「助かったぞ!」

「祷火塔が倒れなかった!」

「誰だ、あの若者は……!」

 息を荒げながら肩を押さえるウルメスの姿に、人々の視線が集まった。

「すごいぞ!」

「この若者が塔を支えたんだ!」

 歓声が広場を埋め尽くした。逃げ惑っていた人々が次々に戻り、口々にウルメスを讃える。

 興奮と感謝の声が渦を巻く中、ウルメスはただ荒い息をつき、額の汗を拭った。ウルメスは気恥ずかしそうに俯いた。

 群衆の間をかき分けてミラが近づいてきた。そっと息を整え、まっすぐにウルメスを見上げる。

「……立派でした、ウルメスさん」

 その声音は決して大きくはなかったが、不思議と彼の胸に深く響いた。思わず顔を上げると、ミラは穏やかな笑みを浮かべていた。

 ウルメスは目を瞬かせ、思わず照れくさそうに視線を逸らした。ミラの言葉は柔らかく、しかし芯のある響きを帯びていた。

 その眼差しに見つめられ、ウルメスは不思議と胸が熱くなった。人々の歓声よりも、その一言の方が、何倍も重みを持って心に響いたように感じた。

「たいした事じゃないです、俺はただ……」

「いいえ、あの場で動ける人はそうはいません」

 ミラは真っ直ぐに言った。瞳はどこまでも澄んでいた。

 ふいに胸の奥が締めつけられる。

 母と妹を失って以来、心の中に空いた穴に吹き込む風は冷たいものばかりだった。

 だが、今はほんの少しだけ温かさが宿った気がした。

「……ありがとう」

 気づけば、ウルメスはそう口にしていた。ミラは静かに微笑む。

 広場には再び職人たちの作業音が響き始めていた。傾きかけた塔は再びまっすぐに立ち、空へと伸びている。二人はしばし黙ってそれを見上げていた。

 あの日の騒動は、瞬く間に街中へ広まった。祷火塔は危うく倒れかけたが、無事に持ち直し、再び堂々と広場に立っている。人々は口々に「神の加護があった」「祈りが届いたのだ」と囁き合った。

 そして迎えたルシュタルトの祷の日。

 広場には次々と人々が集まり始めていた。楽器の音色が響き、子どもたちの笑い声が夜空へ弾んでいく。

 それでいて、場を満たす空気にはどこか神聖な張りつめがあり、皆が心のどこかで「今宵は特別な夜なのだ」と感じているのが伝わってきた。

 星空の下、木組みの塔は威厳を放ち、広場を見下ろすようにそびえ立つ。頂きには神聖な炎が燃え盛る。

 人々の手には色とりどりの蝋燭が灯され、それが揺れるたびに、広場全体が柔らかな光に包まれていった。

 やがて、広場に集まった人々が一斉に動き出した。祷火塔の周りへと進み、それぞれが手にした蝋燭を地面へ置いていく。蝋燭には願いを書いた布が結び付けられている。

 白、赤、青、緑、黄、紫――

 蝋燭が次第に輪を描き、塔を囲んで揺らめき始めた。

「色には意味があるんです。赤は命と情熱、青は水と祈り、緑は失われた大地、白は亡き者への弔いです」

 ウルメスは思わず、白色の炎を見つめた。その小さな炎のひとつひとつが、誰かの失った命に結びついているように思えて、胸が締めつけられる。

「白色の蝋燭は名前を呼びながら火をつけると、その想いが届くとされているんです」

「そうなんですね、白色の蝋燭を一つもらえますか?」

「いいですよ」

 手持ちの鞄からミラが蝋燭を取り出してウルメスに手渡す。

 ウルメスは火を灯す前に、しばし目を閉じた。脳裏に浮かぶのは母と、妹のフィリア。

「……母さん、フィリア」

 小さく名を呼び、マッチから、蝋燭の芯に火を移した。小さな炎がふわりと立ち上がり、夜風に揺れる。

 ミラはウルメスを静かに見守っていた。

 祷火塔を囲む輪は、いつしか色とりどりの灯火で埋まり、まるで星空が地上に降りてきたように輝いていた。

「ミラさん、出店も少しあるそうなので、周りませんか?」

「いいですね、行きましょう」

 二人は灯火の揺らめく輪から少し離れ、人の流れに沿って歩き出した。蜂蜜を溶かした甘い飲み物を売る老人、香辛料を振りかけた焼き穀物を並べる女、色鮮やかな布細工を吊るした若者。

「……思ったより、人が集まっているんですね」

 ウルメスが周囲を見渡しながら言うと、ミラは小さく笑みを浮かべた。

「祈りだけじゃなくて、人と人が繋がる日でもあるんです。みんな、楽しみたいんですよ」

 香ばしい匂いに誘われて、二人は一つの店の前で足を止めた。鉄板の上で焼かれているのは、穀物を練った団子に甘い蜜を絡めた素朴な菓子だった。湯気とともに立ち上る甘い香りが、空腹を刺激する。

「……美味しそうですね」

 思わず言葉を漏らしたウルメスに、店主の老人がにやりと笑った。

「美味いぞ?一本どうだい?」

 勧められるままに銅貨を渡すと、串に刺さった団子を二本受け取った。

 熱を持つそれを、ウルメスは頬張る。

「……あつっ……でも美味しい……!」

 ミラも、その甘さに目を細め、微笑みを浮かべた。

「本当ですね……ふふ、懐かしい味です」

 二人は団子を食べ終えると、自然にもう一軒、また一軒と足を運んだ。

 別の店では、砂糖を煮詰めて伸ばし、鳥や花の形に仕上げる飴細工を売っていた。

 器用な職人の手先に見とれていると、ミラは小さな蝶の形を選んで手に取った。

「可愛らしいですね」

 透き通るように光を通す飴を、彼女はどこか大切そうに持っていた。

 さらに進むと、子どもたちが歓声を上げる輪に出くわす。投げ輪を棒に引っかける遊びで、小さな景品が並んでいた。

「やってみませんか?」

 ミラに促され、ウルメスは銅貨を渡し、輪を三つ受け取った。

 一投目は外れ、二投目も惜しくも外れ、三投目でようやく命中した。

 「おおっ!」と子どもたちが拍手を送る中、景品を受け取る。

 景品は鉄製の美しい髪飾りだった。花の装飾が施してある。

「これ、ミラさんにあげます。きっと似合います」

 ウルメスはミラに髪飾りを手渡す。

「……大事にしますね」

 そう言ってミラは髪飾りを付けてみせた。

「とても、似合っています。可憐としているからかな、ミラさんには花が似合う」

「ありがとうございます」

 出店の一角で、子どもたちが火花を散らして遊んでいた。小さな紙の棒の先に灯された炎は、やがて珠となり、ぱちぱちと音を立てて光を散らす。

 その儚さから、人々はそれを「祷火珠」と呼んでいた。

「やってみませんか?」

 店の娘に声をかけられ、ウルメスとミラは一本ずつ受け取った。

 火をつけると、先端から小さな光の粒がこぼれ落ち、夜闇に花弁のように散った。

「……綺麗ですね」

 ミラがウルメスに微笑む。光に照らされたその微笑みはウルメスの空っぽだった何かを埋めくれるような気がした。胸の奥がじんわりと温かくなる。

「ええ、綺麗です」

 ぱち、ぱち、と火花が散る音だけが、二人の間を流れていく。やがて、二人の祷火珠はほぼ同じ瞬間に消えた。

「終わっちゃいましたね」

 ミラが小さく笑う。

「そうですね、でも、とても綺麗でした」

 広場を包んでいた灯火の輪が、少しずつ小さくなっていった。風が吹くたびに蝋燭の火がひとつ、またひとつと消えていく。人々は祈りを終え、穏やかな顔で帰路につき始めていた。

「そろそろ帰りましょうか」

 ミラが振り返りながら言う。

「夜も更けてきましたしね、そうしましょう」

 二人は並んで歩き出した。砂の舞う道を、夜風が静かに撫でていく。遠くで鈴の音が鳴り、街の明かりが次第に背後へと遠ざかっていく。

「今日は良い日でしたね」

 ミラがウルメスに向き直り言った。

「すごく楽しかったです。こんなに穏やかな気持ちになったのは久しぶりです」

「ウルメスさんがあの時塔を支えてくれたから、皆んなの祷は届くと思います」

「そうだと良いですね」

「ありがとうございます、ウルメスさん。私の祈りもきっと届いたと思います」

 少し沈黙が流れた。

「あの……」

 言いかけて口をつぐむ。だが、思い切って伝える。

「また来年、俺と一緒にルシュタルトの祷に行ってくれませんか?」

 ミラは驚いたように目を瞬かせた。そしてゆっくり微笑んだ。

「……はい。約束、ですね」

 その一言に、ウルメスの胸の奥で何かが解ける音が聞こえた。

「ありがとう、ございます」

 頭上では、数え切れない星々が瞬いていた。乾いた空に浮かぶ光は、冷たいはずなのに、どこか優しい。

 その淡い輝きが、並んで立つ二人の肩を、同じように照らしていた。

 約束は、まだ形にならない。来年のことなど、誰にも分からない。それでも、今この瞬間だけは、確かに未来へと続いていた。

 夜は深く、静かに二人を包み込み、星の光だけが、そっとその上に降り注いでいた。

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