新芽
二日が経つ間に、フィリアの埋葬は終わった。早朝、ウルメスはミラの家の横に建てられたフィリアの墓の前に一人立っていた。石造りの粗末な墓だった。
傷だらけの自分の手を見つめる。
「フィリアが手袋作ってくれたのに、持ってこれなかったな……」
ミラは家の窓からウルメスを見ていた。コップに水を入れて、ウルメスに持って行った。
「ウルメスさん、水を持ってきました。何も食べてないですよね、せめて水だけでも」
「ありがとう……ございます」
そう言って無理やり笑みを作って、水を受け取った。
水は、飲まなかった。飲む気になれなかった。生きたいとも、思っていなかったのかもしれない。
「すみません、お邪魔ですよね。フィリアのお墓まで建ててもらって……もう、出て行きますから……」
「そんな事ないです」
真剣な表情でウルメスを見つめるミラ。
「お話、聞かせてもらえませんか?」
「……」
「話したら、楽になることもあるでしょう?」
「すみません、俺は今……自分の感情を抑える事は、多分出来ないと思います。話をしているうちに、ミラさんに迷惑をかけてしまうかも知れない……そんな事出来ません」
「いいんです、迷惑だなんて、思いませんから。話して頂けますか?」
「……」
ウルメスは少し下を向き、もう一度ミラの事を見た。
「ミラさんには、守りたい人はいますか?」
「はい、います。父です」
「俺は母と妹でした。俺たちは貧しくて、父親が流行病で死んでからはさらに貧しくなりました。俺は父の代わりに働きました。朝から晩まで、給料の良い力仕事をしました。毎日本当に疲れました。でも、家に母と妹がいると思えたら、頑張れたんです。いつも俺の作業着はすぐに破けてしまうんです。だから、母や妹はそれを縫って直してくれました。それだけじゃない、このボロボロな手が傷まないようにって手袋まで作ってくれたんです、妹は……。母はいつも自分の食事の量を減らして、俺たち兄妹に多く食べさせてくれました。体の弱い妹の世話をしながら、畑仕事もして、その時間の合間をぬって縫い物までして……二人は俺は支えてくれたんです。だから、だから俺も……」
拳を握りしめ、震える。
「……」
ミラは黙って聞いていた。
「二人は俺の生きる意味でした。俺は二人のために生きていました」
「……」
「分かってるんです。前を向かなきゃいけないことぐらい。そんなこと分かっているのに……今は……それが出来ないんです。全部俺のせいです。俺に力がないから……技術がないから……二人を守れなかった。そうです。いつもいつも俺は二人に守られてばかりだった。母さんの事だって、もっと幸せにしてあげたかった……!フィリアも……!もっと沢山美味しい物を食べさせてあげたかった、もっと一緒に歩きたかった……!元気にしてやりたかった……!」
言葉を言い終える前に、嗚咽がまじる。泣きそうになるのを必死に堪える。
涙を堪えるウルメスにゆっくりと目の前まで近寄り、両手を開き、ウルメスの事を受け止めるようにして、ミラは言った。
「泣いて、良いんですよ」
「え……」
「ウルメスさん、自分を責めないで下さい。一人で抱え込まないで。ウルメスさんは精一杯頑張りました。ウルメスさんのせいじゃないです。きっと二人はウルメスさんと過ごした時間、とても幸せだったと思います。話を聞いて分かりました。だってウルメスさんはこんなにも優しい人なんですもの。私の前ではいくらでも泣いて下さい。ウルメスさんがまた前を向けるまで、私がそばにいますから。泣き止むまで、ここにいますから」
それでもまだウルメスは我慢していた。
「……」
優しい微笑みでミラが言う。
「来て」
その一言でもう耐えられなくなった。ウルメスは泣き出した。持っていたコップも落としてしまった。涙を拭っても、拭っても、溢れてくる。
そんなウルメスをミラは抱きしめた。そして優しく背中をさすった。
「大丈夫、大丈夫」
その声は静かで、夜の闇に灯る焚き火のように温かかった。
ウルメスは無防備に泣いた。張り詰めていた感情が緩まり、涙腺が決壊した。
ミラはウルメスが泣き止むまで、ずっとそうしていた。やがて涙は尽き、荒い息だけが残った。ウルメスは濡れた瞳を拭い、震えた声で言った。
「ありがとう」
その一言にミラは柔らかく返事を返す。
「いいんです」
それだけの言葉だった。けれど、その響きはウルメスの胸の奥深くに沁み込んでいった。
それからウルメスとミラは家に入った。そして、ミラの父ゲルシュが作った朝食を食べた。居間に置いてある長方形のテーブルに囲むように椅子が置いてある。そこに三人は座った。朝食の内容は粗麦パンと豆のスープに、干し肉の薄切りだった。
その朝食のどれもが、どこまでも深く包み込んでくれるような優しい味がした。
三人が食べ終わった頃、ゲルシュがウルメスに訊く。
「それで、ウルメス君。君はこれから行くあてはあるのかい?」
ウルメスは一度俯き、向き直って答えた。
「いいえ、ありません。ですが、長城修繕の仕事の経験はあります。同じ職に就こうと考えています」
「そうか、ウルメス君。君は大変な仕事をしていたんだね……。これは俺からの提案なんだけどね、ウルメス君、うちで働く気はないか?」
「……ゲルシュさんのもとで働く……?」
「俺たちは水を運ぶ仕事をしているんだ。男手が増えると凄く助かるんだよ。君もすぐに職に就ける訳ではないだろうし、住む家もないだろう?どうかな、ウルメス君。給料は長城修繕の仕事程高くはないけれどね」
ウルメスは一瞬狼狽えた。ゲルシュのもとで働くことはここに住む事と同義であったからだ。
「僕がいたらゲルシュさんやミラさんの邪魔になってしまうと思うのですが……」
ウルメスはちらりとミラの方を見る。ミラはその視線に応えるように言った。
「私は構いませんよ」
「本当にいいんですか」
「ええ」
「そういう訳だ、ウルメス君。ここは承諾してもらえるとありがたいのだけど」
ウルメスは躊躇していたが、暫く考えた後、結論を出した。
「僕の境遇を考えて下さり、本当にありがとうございます。分かりました、ここで働きます。少しでもお役に立てるように頑張ります。よろしくお願いします」
ウルメスは席を立ち、二人に深く礼をした。
ゲルシュは口角を上げて言った。
「こちらこそよろしく頼むよ」
ミラも深く頭を下げ、丁寧に言った。
「よろしくお願いします」
ゲルシュはポンと手を叩き、
「それじゃあ早速働いてもらおうかな。着いてきてくれるか、ウルメス君」
「はい」
「ミラ、すまないが後片付けを頼めるか?」
「うん」
ウルメスはゲルシュの寝室に案内された。
「ここだよ」
「寝室、ですか?」
ゲルシュの寝室は、家の奥にひっそりと構えていた。粗末な木の寝台と小机、衣装箱が一つ。飾り気は一切なく、ただ生活に必要な物だけが並んでいる。
ゲルシュが、神妙な面持ちになった。
「ウルメス君、これから先の事は誰にも知られてはいけない事だ。もちろん他言無用。俺たちの秘密を誰にもあかさないと約束してくれるかい?」
ウルメスはただならぬ秘密なのだとすぐに認識した。そして心の底からの誠意を持って答えた。
「はい、約束します」
「ありがとう」
そう言って、ゲルシュは床の板を外し始めた。床板の下にあったのは、地下へと続く階段だった。階段は石造でできていて、苔のような付着物があるのが見えた。
「これは……」
「来てくれ、ウルメス君」
蝋燭の一つの灯りを持って、ゲルシュとウルメスはその階段を降りていった。石段はひんやりと冷たく、外の砂漠の空気とは別世界のようだった。湿った匂いが立ちのぼり、どこか苔の青臭さが鼻を打つ。
階段を降り切った先には、小さな石積みの部屋があった。その中央に、円形の井戸が口を開けている。滑車に吊るされた桶がゆっくりと揺れていた。
ウルメスは思わず呟いた。
「井戸……?」
「そう、これが我が家の秘密だよ」
井戸に近寄り、中を覗き込む。井戸の水面に蝋燭の光が映り、暗闇に揺れる。その光を見つめながら、ウルメスはこの家族が背負う秘密の重さを理解した。
「これは……どうやって……?」
「それが、俺にも分からないんだ。おそらく、太陽の欠片の力だと思う」
「太陽の……欠片?」
「詳しくは分からないんだ。でも、その石があれば、魔法が使えるらしいんだよ」
「そんなものが……では、この家は?」
「ある老人から貰い受けたものなんだよ。俺たちも井戸があるとは思わなくてね、驚いたよ」
「そうなんですか……でもこの井戸、他の人に知られたら……」
「そう、絶対に奪い合いになる」
「この水はどこに売っているんですか?水の供給源を怪しまれないように売らなければなりませんよね」
「ある修道院に売っている。その修道院の院長とは知り合いで、彼がいるから俺たちは商売が出来る」
「そうなんですね、修道院に売れば、沢山の人が助かりますね」
そうか……やはりこの街には修道院があったのか……フィリア……
「という事でウルメス君、早速仕事だ。この瓶に水を汲んでくれないか」
ゲルシュは地下に置いてあった全長一メートル程の水瓶を持ってきた。
ウルメスは六つの水瓶に水を入れ、蓋を閉め、庭にある納屋まで運んだ。納屋は家の庭にあり、木材と土壁で組まれ、小さい。中には縄や網、鎌などが掛けられ、木製でできた荷車があった。その荷車に水瓶を全て載せ、上から布で荷物を覆う。布を被せるのは、荷車の中身を他人に知られないようにするためだ。
「今日は修道院までの道を教える。明日からは一人で行ってもらうからよく覚えておいてね」
そう言って荷車の持ち手の空間に入るゲルシュだったが、隣にミラもいた。
ウルメスは疑問に思った事があった。
「二人で押すのですか?」
「そうだけど」
当たり前の事のようにゲルシュは答えた。ウルメスは問う。
「心臓を燃焼させれば良いのではないですか」
ゲルシュは思い出したかのように、取り繕うかのように言う。
「ああ、そうだったな。でも、俺たち親子は心臓を燃焼させられないんだよ。不器用でね」
そんな人もいるのだな、とウルメスは不思議に思った。
「そうですか、僕に任せて下さい。これくらいの重さなら一人で運べますから」
「そうかい?頼もしいね。じゃあお願いするよ」
代わりにウルメスが持ち手の空間に入る。ウルメスは心臓を燃焼させる。軽々と荷車を引いて行く。
ゲルシュとミラは物珍しさを宿した目でウルメスの事を見ていた。
「凄いな、ウルメス君」
「いえ、これくらいのこと」
「ミラ、ウルメス君一人で行けそうだ。家に居ていいよ」
「はい」
「それじゃあ行こうか、ウルメス君」
「はい」
最寄りの街、ザクセンまでは五キロメートル程ある。今までゲルシュとミラは二人がかりでこの距離を押していたのだと思うと、ウルメスは、ゲルシュが自分を雇った理由がよく分かった。
ザクセンの街並みは、ウルメスのいた街、ラックライトとあまり変わらなかった。土色の家々が肩を寄せ合い、ひび割れた壁には補修の跡が無数に刻まれている。
「ここだよ、目的地の修道院は」
白く塗られた石壁が陽光を反射し、街の中でもひときわ目を引いていた。
ウルメスは裏口まで荷車を引いた。裏口に到着したところである男が裏口から出てきた。
「よお、ゲルシュ」
黒髪は短く、長い灰色の修道服を身にまとい、胸元には小さな木製の太陽の飾りを下げている。足元の革靴は丁寧に磨かれていたが、長年の使用で皺が刻まれていた。
「バッハル、今日の分だ」
その男はバッハルと言った。バッハルがウルメスに一瞥を向け、ゲルシュに聞く。
「この青年は?」
「新しく雇ったんだ。ウルメス君、この修道院の院長で俺の知り合いのバッハルだ」
ウルメスは畏まった。
「ウルメスです、よろしくお願いします」
お辞儀をするウルメスにバッハルは応える。
「ああ、よろしく」
「これからはウルメス君に運んでもらう事にしたんだ」
「そうか、大変だもんな」
「ああ」
バッハルがウルメスに指示を出す。
「それじゃあウルメス、今から私が案内する場所に水を運んでくれ。空の水瓶もそこにあるから持って行ってくれ」
ウルメスは一つ一つ水瓶を修道院の中へと運びこみ、水瓶を指定の倉庫に置いていった。使い終わった水瓶を荷車に運び込む。
ウルメスが作業をしている時、ゲルシュとバッハルは荷車から少し離れた所で会話をしていた。
「なあ、ゲルシュ、あの子は大丈夫なのか?本当に信じられるのか?」
「俺はあの子は信じるに足る人間だと思っている」
「そんな曖昧な確信だと、お前が危険な状況に陥るかもしれないんだぞ。どうやってあの子と知り合ったんだ?」
「一昨日、妹を背負って俺の家に来た。反乱から逃げてきたんだ。身体中血だらけだったから驚いたよ。あの夜、ラックライトからここまで一晩で走ってきたと彼は言った。二百キロはある道のりを妹を抱えて一晩でだ。家族のためにそんな事が出来る男だから、俺は信じているんだよ」
「ゲルシュ、お前は本当に……いや。お前らしいな」
「それに俺が拾わなかったら、あの子はきっと餓死してただろうしな」
「全く、ミラは反対しなかったのか?」
「反対しなかった、ミラの事だからな」
少し笑いながらバッハルは言った。
「そうだな、お前たちはそういう奴ら、だったな」
「バッハル、お前も人の事は言えないだろう?修道院長なんかしているんだから」
「ああ」
ウルメスが作業を終えたので、報告をしにきた。
「バッハルさん、ゲルシュさん、運び終わりました」
ゲルシュが言う。
「ウルメス君、ありがとう、それじゃあ今日の取引分のお金を受け取ってもらえるかな」
バッハルが小さな布袋をウルメスに手渡す。
「今後も頼むよ」
ウルメスは丁寧に受け取り、応える。
「はい」
「帰ろうか、ウルメス君。ちょっと買い出しにも付き合って欲しいんだが」
「分かりました」
その後、ウルメスはゲルシュについて、ザクセンの街を周った。ウルメスはどこにどんな店があるのか、ある程度把握した。買い出しを終えた二人は、街を後にした。
家に帰る途中、ゲルシュはウルメスと会話をしていた。
「難しいかも知れないが、これからは俺たちの家を自分の家だと思ってくれていい。最初は緊張する事もあると思うけど、あまり気を張らずに、ゆっくり慣れてくれればいい。分からない事とか、不安な事があったら何でも聞いてくれ。相談にのる」
「分かりました。ありがとうございます」
二人は家に戻ると、ミラが用意していた夕食を食べた。もともと空き部屋で、倉庫として使っていた部屋をウルメスの部屋に割り当てた。まだベッドは無く、敷布団を引いた上にウルメスは寝た。ゲルシュは、「悪いねぇ、ベッドが無くて」と言っていた。
その夜ウルメスは寝付けなかった。母と妹を同時に亡くしたショックは、ウルメスの心に深い爪痕を残していた。何度も寝返りをうちながら、ウルメスは母と妹の事を考えた。
「俺がもっと上手くしていれば、二人は助かったんじゃないか。もっと早く家に着いておけば……」
そして脳裏にチラつくのは、ウルメスが殺した兵士の事だった。思い出すだけで、ウルメスは手が震えた。
「俺は人を……」
精神にかかる負荷がウルメスの許容範囲を超えていた。それに加えて全く新しい環境であるから尚更だった。
そうしてウルメスは何度か涙を流し、朝を迎えた。一睡もしていなかった。
ミラとゲルシュが起きて行動を始めていた。その音がウルメスの部屋にも聞こえてくる。
ウルメスも部屋を出て、居間に移動する。ゲルシュが一番に声をかける。
「おはよう、ウルメス君」
「おはようございます」
ミラもウルメスに挨拶をした。
「おはようございます」
ウルメスはミラに対し、少し緊張して挨拶をした。
「おはようございます」
ミラとの接し方が分からなかった。ミラに優しくされて胸の中で泣いてしまった事が、今となっては気まずい。
ゲルシュとミラが共同で朝食を用意していた。ウルメスも加わる。
「何か手伝います」
ミラがウルメスに向き直り応える。
「では納屋から干し肉を一つ取ってきてくれますか」
「分かりました」
三人はテーブルを囲んで座った。雑穀粥と干し肉だった。
ウルメスは粥を見た時、フィリアの事を思い出した。
よく熱を出したら俺が食べさせていたな……ああ、フィリア……
「さあ、食べようか」
「はい」
一口、また一口と粥を口に運ぶたびにフィリアとの記憶が蘇ってくる。フィリアの声が、聞こえてくる気がした。
「お兄ちゃん、行ってらっしゃい」
「手袋作ったよ」
「ごめんなさい、こんな事しか出来なくて……」
「お兄ちゃん、疲れたでしょ?お水汲んだよ」
「花畑、一緒に見たいね」
「また迷惑かけちゃったよね……」
「お兄ちゃんみたいに強くなりたい」
「今度一緒に街を歩こうね」
「お兄ちゃん、大好き」
「うれ……しい……」
ゲルシュがウルメスに声をかけた。
「大丈夫か?ウルメス君」
気づいたら勝手に涙が出ていた。ウルメスははっとして我にかえる。
「あれ……?勝手に……」
涙を拭う。ミラが心配そうに声をかけ、手巾を手渡す。
「ウルメスさん、これを」
「ありがとうございます、すみません、せっかくの朝食の時間を」
「構いませんよ」
「ウルメス君、気にしないでいいよ」
「すみません、もう大丈夫です」
その日も修道院まで水を運んだ。その後は家の修繕や家事、料理も担った。そうして一日が終わった。前日、一睡もしていなかったので、この日はすぐに眠る事が出来た。
だが、翌日また眠れなかった。胸がザワザワして落ち着かない。何故自分だけ生き残ったのか。殺した兵士にも家族がいたのではないか。母の最後の手。妹、フィリアの言葉。逃げ惑う人々の悲鳴、兵士の怒号。それらが頭を反芻する。恐怖と不安、混乱が脳を支配する。頭の中がぐちゃぐちゃになり、おかしくなりそうだった。
ウルメスは頭を交錯する思考から逃げるように布団から這い出た。居間に向かう。
夜の一時過ぎだった。灯は全て消えていて、月明かりが窓から差し込み、静寂が辺りを包んでいた。
ウルメスはガラスのコップを台所の食器棚から取り出し、ポットに入っていた冷えた水を注いだ。
一気に飲み干す。
「はぁっ」
両手を台所の台につき、下を向き、目を閉じる。どうにかしてこの感情を処理しなければならない。だが、襲いくる不安と恐怖は、どんなに自分に大丈夫だと言い聞かせても止まなかった。
ウルメスは片手で頭を抱えて呟いた。
「どうすりゃいんだよ……」
「ウルメスさん、大丈夫ですか?」
ウルメスは驚いて、声のする方を睨んだ。ミラだった。瞬間的に睨んでしまった事を申し訳ないと、ウルメスは思った。
「ミラさん、ごめんなさい、起こしてしまいましたか?」
「ウルメスさん、寝れないんですか」
「いや、俺は大丈夫です。ちょっと水を飲もうと思っただけです」
ミラは黙ってウルメスを見ていた。
「……」
「そろそろ行きますね」
足早にその場を立ち去ろうとするウルメス。その背中を見つめ、真剣な表情でミラが言う。
「……ウルメスさん、怖い顔してました。何か抱えているんですね。隠さなくて良いんですよ」
ウルメスは立ち止まった。
「不安なんですね……」
ウルメスは思う。どうしてこの人はこんなにも俺の心を見透かせるのだろうと。苦しい事、隠そうと思った。けれどこの人に隠し事をする事は返って失礼な事なのだと、そう思えた。もう全てを打ち明けようと思う。
「すみません、隠すつもりはなかったんです。ただ……」
ウルメスは口ごもった。その後にミラが続ける。
「迷惑だなんて思いません。この際だから言っておきます、私はウルメスさんの事を何があっても迷惑だなんて思いません。だから、話して頂けますか?」
そう言い終わると、ミラは灯を一つだけ灯した。
「敵わないな、ミラさんには。そうですね……反乱の夜の事が頭から離れないんです。不安と恐怖がずっと頭を駆け巡るんです。もう自分でもどうしたら良いか、分からないんです」
俯きながら、ウルメスは言った。
俯くウルメスの前に来て、ミラはそっと、優しくウルメスの両手をとった。
「私にはこんな事しか出来ません。ウルメスさんの手を取って、そばにいる事ぐらいしか……でも私、ウルメスさんの力になりたいです。一人で苦しまないで欲しいんです。一人で乗り越えられない夜があるなら、二人で乗り越えればいいと思うんです。だから、苦しい時、辛い時、そばに居て良いですか?ウルメスさん」
ああ、この人はなんて優しい人なんだろう。ミラの優しさに感動する。苦しかった心が救われる気がした。この人のために生きたいと、そう思った瞬間でもあった。
「ありがとうございます、ミラさん。本当にお優しいですね、ミラさんのような優しい人に出会えて、俺は幸せです」
すると、涙が出てきた。ミラの優しさに触れた途端、家族の事を鮮明に思い出してしまった。ミラの優しさが家族の優しさに似ていたから。
何度この人の前で泣けば、俺は気が済むのだろう。でも、この人の前では、自分を偽りたくないと思った。
頬から涙が滴り落ちていく。ミラはそんなウルメスを優しく抱きしめた。
「泣きたい時は泣いて良いです、私が側にいます。一緒に乗り越えましょう」
「ありがとう……ございます」
二人を包むように、リビングの灯りが静かに揺れていた。粗末な卓の上に置かれた小さな灯火が、壁に淡い影を落とし、その影は寄り添う二人の輪郭を、柔らかく溶かしていく。
外では風が砂を転がす音がしていた。乾いた世界の気配は確かにそこにある。それでも、この部屋の中だけは、時間がゆっくりと流れているようだった。
ウルメスの肩の震えは、次第に小さくなっていく。ミラの腕は変わらず、何も言わず、ただそこにあった。
誰も責めず、誰も急かさない。失われたものは戻らない。それでも今、ここには、確かな温もりがあった。
灯火は静かに燃え続け、夜は、そっと窓の外へと更けていった。
眠れない夜が、何度もあった。目を閉じるたび、失ったものが暗闇の中から手を伸ばしてくる。
胸の奥が締めつけられ、息の仕方さえ忘れそうになる夜だった。
そんな時、ミラは何も言わずに、ただ俺のそばにいた。冷えた俺の手を、何度も、何度も、確かめるように握ってくれた。離さないと誓うように。ここにいると伝えるように。
その温もりだけが、現実だった。過去でも、後悔でも、罪でもない。今、この瞬間に生きている証だった。
気づけば、夜が明けていることが増えた。呼吸が、少しだけ楽になっていた。前を向こう、なんて立派な決意じゃない。ただ立ち止まらずにいられた。
そうしていつの間にか、ウルメスは理解してしまった。自分が生き延びている理由。息を続けている理由。それは使命でも、償いでもない。ただ一人、自分の手を離さなかった人がいたからだ。
ミラが、そこにいたからだ。




