カイザー
動かない体、限界の体に鞭打ち、もう一度、カイザーは全力で心臓を燃焼させた。
胸の奥で、鈍く、嫌な音がした。骨にまで響くような鼓動。
――ああ。
この感覚だ。
昔から、何度も味わってきた。焼けるように痛くて、息が詰まって、それでも立っていなきゃいけなかった、あの時と。
視界が、ふっと揺らぐ。
ウルフの拳が振り下ろされる、その直前。カイザーの視界から、戦場の色が抜け落ちた。土埃の匂いが消え、代わりに、湿った石と、安酒の臭いが鼻を刺す。
狭い。暗い。天井の低い、あの部屋。床に散らばった空瓶。擦り切れた布団。
最初に覚えたのは、殴られた痛みじゃない。音だった。硬い床に、何かが叩きつけられる鈍い音。
怒鳴り声。酒瓶が転がる音。
それが聞こえたら、もう逃げ場はなかった。部屋は狭い。昼でも薄暗く、夜はなおさらだった。
空気はいつも淀んでいて、酒と汗と、鉄の匂いが混じっていた。
「邪魔なんだよ……!」
父親の声が落ちてくる。その声だけで、体が固まった。
カイザーは、歯を食いしばった。殴られる前から、もう痛みを想像していたからだ。
後ろで、小さく息を呑む音がした。ルアンだ。
「兄ちゃん……」
震えた声が、背中に刺さる。そのたびに、胸の奥が苛立ちでざわついた。
――泣くな。
――黙ってろ。
そう言えたら、どれだけ楽だっただろう。
だが、言葉は出なかった。代わりに、肩に衝撃が走る。視界が揺れ、床に倒れる。口の中に、血の味が広がった。
「ガキが……生きてるだけで金がかかるんだよ」
父親の声は、怒鳴り声よりも冷たかった。そこには、ただ苛立ちだけがあった。
蹴りが飛ぶ。腹に、背中に。
カイザーは、声を殺した。声を出せば、ルアンに向かうと分かっていたからだ。
だから、耐えた。耐えるしか、なかった。
けれど、その辛抱もあっけなく、標的はルアンに移る。
その夜の暴力は終わった。
嵐が過ぎ去った後の部屋は、異様なほど静かだった。
カイザーは、壁にもたれかかるように座り込んでいた。
体中が痛んだが、それよりも胸の奥が焼けつくように苦しかった。
背後で、衣擦れの音がした。
「……兄ちゃん」
ルアンが、そっと近づいてくる。顔は青白く、目は赤く腫れていた。
(見るな。そんな目で、俺を見るな)
「来るな」
低く吐き捨てるように言った。だが、ルアンは止まらなかった。
「兄ちゃん、大丈夫……?」
その言葉が、決定的だった。
次の瞬間、カイザーは立ち上がり、ルアンの胸ぐらを掴んでいた。
「大丈夫なわけねぇだろ!」
声が、裏返る。
ルアンの体が、小さく揺れる。
「ごめん……」
その言葉を、最後まで聞くことが出来なかった。カイザーは、ルアンを突き飛ばした。
床に倒れる音。小さなうめき声。
「やめろ……やめろよ……」
自分の声が、震えているのが分かった。言葉にならなかった。
何に怒っているのか、何が許せないのか、自分でも分からなかった。
ただ一つ確かなのは、
ルアンの存在が、痛かったということ。
無条件に信じてくるその目が、自分の無力さを、容赦なく映し出してくる。
謝るのは、俺の方なのに。だが、喉は動かなかった。代わりに、拳を握りしめる。
「……向こう行け」
吐き出すように言った。
ルアンは何も言わず、ゆっくりと立ち上がり、部屋の隅へと下がっていった。
その背中を見ながら、カイザーは思ってしまった。
(こいつがいなければ、もっと楽なのに)
次の日、扉が叩かれた。
規則正しく、逃げ場を塞ぐような音だった。カイザーは、直感的に悟った。
終わった、と。
「開けろ。イェナ軍だ」
低く、感情のない声。母親が、息を呑む音がした。父親は一瞬だけ辺りを見回し、それから舌打ちをした。
「……クソが」
父親と母親は俺たち子供を置いて逃げようとしていた。
扉が開く。土埃と、金属の匂いが一気に流れ込んでくる。
数人の兵士が踏み込んできて、手早く両親を押さえつけた。
「違法取引の容疑だ。抵抗するな」
母親が何か叫んでいたが、カイザーの耳には入らなかった。
頭の中が、妙に静かだった。
(ああ、やっぱりな)
そう思っただけだった。
連れていかれる両親の背中を、カイザーは無表情で見ていた。
その時、隣で小さな手が、袖を掴んだ。
「……兄ちゃん」
カイザーはその手を振り払った。
兵士の一人が、二人を見下ろした。
「お前たちは保護対象だ。修道院へ送る」
修道院。
その言葉を聞いた瞬間、ルアンの目が、わずかに明るくなった。
「……助けてくれる場所、だよね」
その呟きが、カイザーの胸を、ちくりと刺した。
修道院は、白い石壁に囲まれていた。
高く、清潔で、まるでこの世界の汚れから切り離された場所のようだった。
鐘の音が鳴り、修道服を着た大人たちが、穏やかな顔で迎え入れる。
「よく来ました。ここでは安心して暮らせますよ」
そう言われて、ルアンは小さく頷いた。
カイザーは、周囲を見回していた。整えられた庭。規則正しい生活。整列する子供たち。
ここは、檻だ。
理由もなく、そう思った。
「兄ちゃん、ここなら……」
ルアンが何か言いかける。カイザーは、それを遮った。「期待すんな」
低い声だった。
「こんな場所、どうせすぐ嫌になる」
言い捨てて、カイザーはルアンを置いてどこかに行ってしまった。
修道院での生活は、規則正しかった。朝は鐘の音で起き、祈り、食事を取り、読み書きを学び、夕方にはまた祈る。
誰も怒鳴らない。殴られることもない。食事は毎日用意され、寝床もある。
それが、カイザーには気持ち悪かった。他の子供たちは、どこか安堵した顔をしていた。「守られている」という表情を浮かべている。
ルアンも、その一人だった。
「兄ちゃん、今日はパンが多かったよ」
そう言って笑う。
カイザーは、答えない。
夜、消灯の時間になっても、眠れなかった。静かすぎた。怒号も、物音も、悲鳴もない。
――いつか壊れる。
理由は分からない。
だが、確信だけがあった。
だからカイザーは、誰とも距離を取った。話しかけられても、無視するか、突き放す。子供たちの輪に、決して入らなかった。ルアンだけが、毎日そばにいた。
「無理しなくていいよ」
「ここ、悪くないよ」
その言葉が、
カイザーの胸を、苛立たせた。
(何も分かってねぇ)
きっかけは、小さなことだった。他の子供が、ルアンをからかった。
「お前の兄ちゃん、怖いよな」
「なんか、獣みたい」
ルアンは首を振った。
「違うよ。兄ちゃんは……」
そこまでだった。
次の瞬間、カイザーは、その子供を殴っていた。
一発では終わらなかった。
止めに入った子供も、止めようとした大人も、全員を振り払った。
拳が痛むまで、相手が泣き叫ぶまで。
カイザーはそんな暴力事件を幾つも起こした。カイザーは止まらなかった。止まれなかった。
修道院の責任者が、カイザーを呼び出した。
静かな声だった。
「君は……ここにいるべきではない」
追い出される。
それが、決定だった。
荷物は、ほとんどなかった。最初から、何も持っていなかったのだから。
ルアンが、泣きそうな顔で立っていた。
「兄ちゃん……」
胸がひりつく。だが、そんなルアンを無視して門を出る。
背後から、慌ただしい足音が迫る。
「兄ちゃんが行くなら、俺も行くよ!だから待ってよ!今支度してくるから」
カイザーは足を止め、荒く振り返った。
「馬鹿言ってんじゃねぇよ!」
吐き捨てるように叫ぶ。
「お前はお前の居場所を見つけたんだよ!そこに居ろ!ルアン!俺に関わるな!」
言葉は、刃物みたいに尖っていた。
「俺はお前の事が大嫌いなんだよ!」
ルアンの目から、涙が零れ落ちる。
「一緒になんて来させねぇ、来るっていうなら……殴るからな」
沈黙。
風が、修道院の門を鳴らした。
カイザーは、それ以上何も言わず、背を向けて歩き出した。
後ろで、ルアンが嗚咽を噛み殺しているのが分かる。
それでも、止まらなかった。
その背中に向けられた弟の視線を、カイザーは、最後まで振り返らずに切り捨てた。
修道院の門を出たあと、カイザーはしばらく、ちゃんと生きていた。
朝はまだ暗いうちに起き、防壁へ向かった。荷を担ぎ、汗を流す。腕は痛み、背中は軋んだが、それでも構わなかった。
生きている。それだけで、十分だった。
日銭を受け取り、安いパンと水を買う。腹を満たし、宿へ戻る。
寝台は硬く、布は薄かったが、屋根があるだけで贅沢だった。
夜が来るまでは。
横になり、目を閉じると、必ず同じ光景が浮かんだ。
修道院の門。夕暮れの色。そして、そこに立っていたルアン。
「兄ちゃん……」
声が、耳の奥で生々しく響く。振り払うように寝返りを打つ。だが、逃げ場はなかった。
――俺は、あいつを置いてきた。
それを考えるたび、胸の奥が歪んだ。まるで、内側から削られているみたいだった。
眠れない夜が増えた。仕事に支障は出さなかった。いや、出さないように必死だった。
ちゃんと生きている。そう思わなければ、壊れてしまいそうだったから。
ある夜、同じ宿の男が声をかけてきた。
「眠れねぇ顔だな」
差し出された酒の瓶。安物で、強い匂いがした。
「いらねぇ」
最初はそう言った。本当に、そう思っていた。
だが、その夜は、特別に長かった。ルアンの顔が、何度も浮かんだ。泣きそうな目。それでも必死に笑おうとする口元。
一杯だけ。それで終わりにする。そう言い訳して、瓶を受け取った。
喉を焼く感覚。胃に落ちる熱。
嫌な味だった。だが、その直後、胸の奥のざらつきが、ほんの少しだけ薄れた。
それが、救いに思えてしまった。
それから、酒は「眠るための道具」になった。
最初は一杯。次は二杯。
眠れるようになった代わりに、酒がない夜が、耐えられなくなった。
仕事帰り、自然と裏路地へ足が向くようになった。薄暗い酒場。顔も名も知らない連中。
そこで、カイザーは「楽な稼ぎ」を知る。
「運ぶだけだ。中身は知らなくていい」
断った。最初は、確かに断った。
だが、酒代は増えていた。安宿の代も、じわじわと重くなっていく。
次第に、正直に働く理由より、引き受ける理由の方が多くなっていた。
一度だけだ。そう思って、荷を運んだ。何も起きなかった。誰も傷つかなかった。
その「何も起きなかった」が、決定的だった。次は、もう少し大きな仕事。その次は、さらに。
気づけば、手はいつも微かに震えていた。酒を飲まなければ、指先が言うことをきかなかった。
薬に手を出したのは、酒だけでは眠れなくなった夜だった。
「欲しくなったらまた言え」
そう言われて渡された粉末。最初は怖かった。本当に、怖かった。
だが、ルアンの顔が浮かんだ瞬間、その恐怖より、痛みの方が勝った。
一瞬、世界が遠のいた。何も考えなくて済んだ。何も感じなくて済んだ。
それが、救いだった。代償は、すぐに現れた。
朝起きると、吐き気がした。頭が割れるように痛んだ。
鏡に映る自分の顔は、目の奥が死んでいた。
ある日、カイザーはまともに歩けなくなっていた。前に進みたいのに、道がぐにゃぐにゃと曲がる。視界が歪み、建物が波打つ。
「クソ……」
足に力が入らない。
一歩踏み出すたび、地面が逃げるような感覚がした。次の瞬間、膝が折れた。前につんのめり、そのまま道路に突っ伏す。頬に冷たい石の感触。口の中に、鉄の味が広がった。
立て。
そう思っても、身体が言うことを聞かない。
指先が震えている。呼吸が浅く、早い。胸の奥が、きりきりと焼けるように痛んだ。
視界の端で、人の足が止まった。誰かが見下ろしている。
「おい、大丈夫か?」
その声が、ひどく遠く感じた。
助けてほしいのか。放っておいてほしいのか。自分でも、分からない。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。
――このままじゃ、死ぬ。
それも、誰にも知られず、誰にも惜しまれず、路地の染みになるだけの死だ。
ふと、脳裏に浮かんだ顔があった。
ルアン。
泣きそうな顔で、それでも必死に、自分を追いかけてきた、あの弟。
――俺は……何をしてる。
喉の奥が、ひくりと鳴った。怒りでも、悲しみでもない。ただ、どうしようもない空虚。
震える腕で、地面を押す。
だが、身体はびくりとも動かなかった。
その時だった。
「……兄さん?」
聞き間違いだと思った。
幻聴だ。薬の切れかけが見せる、都合のいい夢だ。だが、もう一度、はっきりと聞こえた。
「兄さん……だよね?」
足音。慌てたような、駆け寄る音。
誰かが、しゃがみ込む気配。
「……兄さん、大丈夫かい……」
その声は、幻なんかじゃなかった。意識が遠のく。
目を開けた時、天井があった。見慣れない木目。清潔な匂い。
「起きたかい」
声がして、顔を向ける。そこにいたのは、ルアンだった。
一瞬、誰だか分からなかった。背は伸び、顔つきは大人になっている。服装も、身なりも、あの頃の少年とはまるで違う。
「……ルアン?」
「そうだよ。久しぶりだね、兄さん」
喉が詰まる。
何か言わなきゃいけない気がしたのに、言葉が出てこない。
――なんで、ここに。
――なんで、助けた。
聞きたいことは山ほどあった。でも、一番先に浮かんだのは、別の言葉だった。
「……なんで、来た」
声が、ひどく汚れて聞こえた。ルアンは、少しだけ困ったように笑った。
「通りで倒れてる人がいてさ。見たら、兄さんだった」
それだけ。
責めるでも、呆れるでもない。カイザーは視線を逸らした。
「……見捨てりゃよかっただろ」
「嫌だよ」
即答だった。
「兄さん、俺にこう言ったよね。『ここに居ろ』って」
「……」
「だから俺、居場所を作ったんだ。ちゃんと」
静かな声だった。誇示するようでもなく、哀れむようでもなく。
ただ、事実を述べているだけ。胸の奥が、ずきりと痛んだ。
「……俺は、お前に酷いことした」
「知ってる」
「傷つけて、突き放した……」
「知ってるよ」
ルアンは、怒らなかった。だからこそ、カイザーの喉が締まった。
「……それでもか?」
「それでもだよ」
ルアンは、まっすぐに言った。
「兄さんが生きてるなら、それでいい」
カイザーは、笑おうとした。でも、顔が歪んだだけだった。
(どうしようもなく、こいつは優しい)
涙が頬をつたって溢れていく。
「……立派になったんだな……」
(ルアンに比べて俺はどうだ……)
しばらく沈黙が落ちる。カイザーは、天井を見つめたまま、呟いた。
「……更生、なんて出来ると思うか?」
「出来るよ」
「俺はもう取り返しがつかない程落ちちまった。汚れちまった」
「大丈夫さ」
「でも、人の性根は変わらない。俺のこのみっともねぇ、ちっぽけな性根は最初から変わらねぇんだ」
「そんなことないよ」
「俺には……何も残ってねぇ」
「残ってる」
ルアンは一歩、近づいた。
「兄さんは、まだ、生きてる。過去は変わらない。でも、未来は作れる。人は変われる。これから一緒に、未来をつくろうよ、兄さん。僕が手伝うからさ」
その言葉が、胸の奥の何かを、ゆっくり溶かした。
それから、カイザーは変わった。
酒を断ち、薬を捨てた。手は震え、夜は眠れず、何度も吐いた。
それでも、逃げなかった。ルアンが、ただそばにいた。
仕事を探し、失敗して、またやり直す。一日一日が、ひどく重い。
だが、確かに前に進んでいた。
夜だった。
家の中で、カイザーは椅子に座っていた。突然、玄関の扉が開いた。
家の中に流れ込んでくる夜風が、急に冷たくなる。次の瞬間、靴底が床を踏みしめる音がした。ためらいのない、まっすぐな足音。
ウルフだった。
背は高く、がっしりとした体躯。
軍服は着崩されていない。皺一つないその姿は、この場に「私情」が存在しないことを雄弁に語っていた。
視線が、ゆっくりと室内をなぞる。
カイザーで止まった。
「……いたか」
それだけだった。
カイザーの喉が鳴る。足が、無意識に一歩引いた。
「何の用だ……」
声は掠れていた。
ウルフは答えず、腰の銃に手を掛ける。金属が擦れる、短い音。
それだけで、ルアンの体が強張った。
「待ってください!」
ルアンが前に出る。
「俺たちは抵抗していない!何故銃に手をかけるのですか」
ウルフの視線が、初めてルアンを捉えた。
値踏みするような、感情のない目。
「お前は?」
「弟です」
「そうか」
興味なさげに、ウルフは視線を戻す。
「どけ」
「法が許さない」
はっきりと言った。声は震えていたが、足は動かなかった。
ウルフが銃を抜いた。音が、やけに大きく響いた。
「取り締まりの命令が下されている」
静かな声だった。
「前科がある。違法取引、密輸。十分だろう?」
「刑務所に入る理由にはなる。だけど、銃を抜く理由にはならない」
「関係ない」
即答だった。
「一度やった奴は、またやる。そして、人を傷つけ、取り返しのつかない事をする」
銃口が、カイザーに向けられる。
「今はやってなくても、いずれやる。こいつらはそういう人間だ」
カイザーの胸が軋む。
「だから摘む」
ルアンが叫ぶ。
「あなたは私情で行動しているんじゃないですか?俺が訴えたら、あなたが負けますよ」
「どうにでもなる」
ウルフの指が、引き金にかかる。
「軍は、未来の被害を止める組織だ」
血が、床に落ちた。
赤黒い雫が一つ、二つ。
カイザーはよろめき、壁に手をついた。肩を撃ち抜かれた衝撃が、遅れて痛みとして襲ってくる。カイザーの肩を弾丸が貫通した。
「ぐっ!」
ルアンは、半歩、前に出た。
(まずい、こいつ、本当に兄さんを殺すつもりだ……!どうにかしないと……!)
「兄さん、逃げろ!俺が足止めするから!」
「やめろ、ルアン……!」
カイザーが叫ぶ。だが、声は弱々しく、掠れていた。
ルアンは振り返らない。
代わりに、調理用油の瓶に目をやった。
――これしかない。
分かっていた。逃げ切れる可能性なんて、ほとんどない。
ウルフが言った言葉が、頭に残っている。一度やった奴は、またやる。だから摘む。
(違う……)
ルアンは、拳を握りしめる。
(兄さんは、変わろうとしてた。
何度も、何度も、間違えて……それでも、立ち上がろうとしてた。人は変われるんだ……!)
ウルフが、淡々と銃口を上げ直す。
「邪魔をするなら、お前も同罪だ」
「……いいさ」
ルアンは、油の瓶を掴んだ。
振り返る。
「生きろ、兄さん」
次の瞬間。
ルアンは、瓶を床に叩きつけた。油が弾け、床と空気を濡らす。
「ルアン!!」
カイザーの叫びと同時に、ルアンは灯の火を油の中に放った。
炎が、一気に広がる。
燃え上がる熱の中で、ルアンは振り返り、叫んだ。
「逃げろ!」
「でも……!」
ルアンの瞳が、大きく見開かれる。
「逃げろぉ!」
喉が千切れるほどの叫び。カイザーがルアンを見たのは、それが最後だった。
カイザーは涙を流し、弟に背を向けて逃げた。
瞬く間にその場は煙に包まれた。焼け焦げる木材の音が、空気を塗りつぶしていく。
ウルフの視界が遮られる。舌打ち一つ。それでも、ウルフは逃げるカイザーを追おうとした。
煙の向こう、崩れかけた家屋の隙間に、血を引きずる足跡が見える。確実に仕留められる距離だった。
一歩、踏み出した、その瞬間。
前に、影が飛び出した。
「……行かせるか」
ルアンだった。
煤にまみれ、咳き込みながら、それでも両腕を広げて立ち塞がる。
ウルフは一瞬だけ、意外そうに眉を動かした。
「……兄さんは、行った。もう、追わせない」
ウルフは興味を失ったように、無造作に腕を振る。苛立ちが見える。
「お前のせいで逃しちまっただろうが」
次の瞬間、衝撃が来た。鋼鉄化すらしていない一撃。
ルアンの身体は、紙切れのように吹き飛び、そのまま、燃え盛る家屋の中へと叩き込まれた。
「……っ!」
声にならない声。炎が、視界を覆う。倒れたルアンの身体に、火が移る。逃げようと腕を動かすが、熱で言うことをきかない。
心臓の燃焼に慣れていない者は炎で体が茹で上がって死んでしまう。
天井が、崩れ落ちる。ウルフは一歩、距離を取った。
火勢が強すぎる。これ以上踏み込めば、自分も巻き込まれる。
「無駄死にだな」
そう呟いて、背を向けた。
炎の向こうで、ルアンは、最後にただ一度だけ、顔を上げた。
視線の先には、もう誰もいない。
だが、その目は、どこか安堵していた。
(……よかった。ちゃんと、逃げた)
次の瞬間、炎と崩落が、すべてを覆い尽くした。
どれくらい走ったのか、分からない。
息はとっくに切れているのに、足だけが前に出続けた。血で濡れた肩が焼けるように痛む。それでも止まれなかった。
気づいた時には、地区の境界を越えていた。瓦礫も、人の気配もない、ただの荒れ地。
そこでようやく、膝が崩れた。倒れ込んだ地面は冷たく、硬かった。空を見上げると、星がやけに澄んでいる。
——生きている。
その事実が、何よりも重くのしかかった。
(……俺は)
喉が動いたが、声は出ない。胸の奥が、空洞になったみたいだった。
逃げた。弟を置いて。
(正しかったのか)
分からない。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。
——背を向けた。
その事実が、なにより許せなかった。
拳を握る。爪が掌に食い込み、血が滲む。
(もう、逃げない)
(二度と、背中を向けない)
それが、弟に対してできる、唯一の弔いだと思った。夜が明けるまで、カイザーはその場を動かなかった。
数日後。
衰弱しきった身体で彷徨っていたところを、一人の男に見つけられた。
リーガンだった。その声は、不思議と穏やかだった。
「……名前は?」
「……カイザー」
それだけ答えるのが、精一杯だった。リーガンは少し黙り、それから言った。
「そうか。よく、生きていたな」
責めるでも、問い詰めるでもない。ただ、事実を認めるような声音。
カイザーは、その言葉に、ひどく戸惑った。
「俺はリーガンだ。マラーの人間だ」
リーガンは、カイザーの傷ついた身体を一瞥し、続ける。
「これから、お前は何をしたい?」
カイザーは、少し考えた。
そして、静かに答えた。
「……逃げない」
それだけだった。リーガンは、ほんのわずかに目を細めた。
「いい答えだ」
そう言って、手を差し出す。
「マラーに来い。背を向けずに立つ場所を、用意してやる」
カイザーは、その手を見つめたあと、ゆっくりと、握り返した。その手は、思っていたよりも、温かかった。
だから俺は、あの日から一度も、背を向けることを許されていない。
目の前に、弟の仇がいる。
カイザーは砕けた拳をもう一度握りしめた。
拳と拳が、正面からぶつかった。赤熱した衝撃が空気を震わせ、火花が散る。ウルフの身体が、ほんの僅か、後ろに流れた。
カイザーは歯を食いしばり、踏み込む。限界まで燃焼させた心臓が、轟音を立てる。
「おおおおおっ!!」
拳を叩き込み、肘を打ち込み、体当たりで距離を詰める。
ウルフの腕が弾かれ、瓦礫が砕け散った。ウルフの口元が、僅かに歪む。
蹴り。受け。返す。肘打ち。拳が交錯し、互いの身体を削っていく。
呼吸が荒くなる。視界が揺れる。
——今なら。
——今だけなら、届く。
カイザーは、全身の力を一撃に込めた。
だが、次の瞬間、世界が反転する。拳が、見えなかった。ウルフの一撃が、腹を抉った。内臓が裏返る感覚。空気が肺から吐き出される。
「……終わりだ」
地面に叩きつけられ、転がる。骨が軋み、視界が暗転しかける。
視界の端に、ダリアがいるのが見えた。
ロトロトが、必死にダリアを支えている。それを見て、カイザーは決心した。
近づいてきたウルフの足を両手で掴む。
「ロトロト!ダリアを頼む!!」
「カイザー、やめろ!!」
背を向けない。逃げない。
それだけはあの日から決めていた。
燃やせ。
限界の、その先まで。
心臓が、狂ったように暴れ始める。脈打つたびに、視界が白く跳ねる。胸の奥で、何かが壊れていく音がした。
「離せ!」
ウルフはカイザーの顔を何度も踏み潰す。歯が折れ、視界が白む。顎が跳ね上がり、体が浮く。
それでも両手は離さない。
(ルアン……お前の仇、今取ってやるからな……)
「おおおおお!!!!」
世界が、白に塗り潰された。轟音。灼熱。赤熱化した鋼鉄細胞が、臨界を越えて爆発する。
空気が燃え、地面が抉れ、すべてを溶かす衝撃が解き放たれた。
周囲の建物が悉く吹き飛んでいき、巨大な爆煙が上がった。




