岩と鬼
あんまり大きな太陽だから、とトンボが弧を描いて着いた岩が硬く軋んだ、慌てて直線になって飛び去った。岩はひびの音に目が覚めた。
水流が長の年月摩し続け、段々に岩は欠け、圧力に負けて遂にはひびが入ったのではあったが、直接の引き金は先の大雨で水かさが増していたことであろう、川は、へ、へ、と苦笑して通り過ぎて行った。まさか割れるとは思わなかったが、別にそれでどうと言うわけも無い。小さくなるのは残念だが、子が出来るとか自分の分身が出来るのだと思えばまずまず悪いことでもあるまい、さても不思議なのは眠っている間に小さくなった身体である。自分では大岩だと思い込んでいたのに、もう牛が二三丸まったら埋まってしまうような大きさなのである。一体どれだけ寝ていたのか、と後悔した。
と、誰かが来て、お、割れそうだな、と言った。岩は、うむ、それそれ、と答えた。
「どうも俺が知らないうちに水かさがまして、どんどん削られてしまったみたいだな」
「ふうむ」
仕様がないのはどちらにもわかっていたが、何とはなしに青っぽい眼の色になってしまった。それをからりと晴れさせて
「まあ、よかろう」
と言う。
「うん。あんまり気にはしてないんだ。ま、そういうものさ」
「万事そうだね」
「こうやって生きてみると一つ気付くことがあるんだが、ものとものがぶつかると言うことは『平らか』になると言うことじゃあないかと思うんだ。角がとれたり、でこぼこがなくなったり、動きが沈んで行ったり、感情が均一になって行ったり、記憶が曖昧になって行ったり、知識に順序がつかなくなったり。なにごともどんどん平らかになって行くような気がするんだな。俺の身体も多分そう言う過程のうちにあるんじゃあないかと思うんだが」
「たしかに水によって丸くはなっているが、そう悲観することも無いよ」
「悲観しているんじゃないんだ。ただそう気付いたと言うだけのことで、よしんば悲観していたとしても俺はその悲しい事自体が世界の感情の全体だと思うだけで、いっそ世界中の全てと感情を共有できるような楽しみを思うね、どうかな、気取っていると思うかい?」
「いや、結構なことだと思うよ。しかし、感情と言うのは絶対の形を持っていないからあんまりはっきりとは言えないな。君がそう思う分には……ああ、もう割れるかなあ、どうもなんだか、そんな……まだしばらく持つかな?」
「どうかね」
「しかしさ、もし割れちゃったら、どっちが本体なんだい? 割れて川に流れて行く方が本体? それとも残ってる方が本体かな?」
「どちらも同じようなものだけど、あいにく脳みたいな適宜なものが無いのが無生物だからねぇ、脳味噌のある方が本体だとは言えないのは厄介さ。小さい塊になったり、すなほどの大きさになって運ばれて行く粒子も自分じゃないとは言えないが、はっきりあれを自分だと言うには意志がきちんと繋がっていないし、なんともはや、曖昧だよ」
「じゃあ、君が欠けたところに新しくもとの形通りに鉄でも鋳着けたらどうかな、それは君のような感じがするかな?」
「そりゃそうだろうよ。一つの身体になるんだもの」
「でも、身体って何のことだい? 別のものがくっついて、それで身体なのかな? どうもそう言う感じがしないなあ、じゃあ隣にくっついているその石とか、ずっと着っぱなしの服とかも身体なのだろうか。そう言う感じはしないね。唯一身体と言えるのはそのものが自発的に作り上げた物質だけだよ」
「それを言うなら、こちとらは圧力で固まっただけだから自発性はなんにも無いやね。勝手に理屈を作ってしまわないでもらいたいな。俺に取っては、くっついていさえすれば身体だし、そうそう、思い返せば、『元の形』なんてものもありはしないね。こりゃ、一種の迷妄よ、『元の形』、どうだね、なのことか俺にはわからんね」
「そうかもしれんな。君にとってはそうかも知れん」
「それにしても、あんたはこんなところでなにをしているんです?」
「こんなところ、ね。こんなところだからやらなきゃならないこともあるんですよ」
「というと」
「密猟だの過剰に狩猟をするやつらをひっとらえてるんですよ。毛の薄い皮は鞣すと綺麗になるんで、どうしても狩りが横行するんです。もう個体数がレッドゾーンでしてね、自然に増やすことが困難なんですよ。どうにか捕えて繁殖させないといけなくて」
「ふぅん、大変だな」
「狩りは必要だけど、滅殺は言語道断ですよ。生物は多様化して色々な可能性を残して行ったのに、その可能性を無かったことにしてしまうなんてね、無思慮もいいところです。元は数が多かったんですよ、この地方に一杯居た、溢れるくらいにね。だからちょっと狩りをしたところで無くなりはしないなんてやりはじめたらあっという間に絶滅しそうになってしまった」
「で、状況は?」
「ええ、もうあらかた保護しましたよ。あとは繁殖ばかりですが、繁殖期が一定でないので些か困難ですよ。それに保護から逃れた個体がまた狩られないようにしないと。必死にやってるんですけどねぇ、人間の皮は高価で取引されてるから狙う者も多いんですよ」
「確かに他の動物に比べりゃ変わった皮だものな」
「もう少し安定したら牧場を作って、繁殖させようかと思ってるんですよ。いい商売になると思うんですけどねぇ、中々自然保護団体の圧力とかあって」
「まあ努力するんですな。でもいずれそれも潰れて平らになってしまいますよ」
「そうでしょうけど、それでもなんとかやっていくつもりですよ」
「そうだね」
岩が大きく鳴って裂けた。
その石の上にいた何とも言いえない誰かはひょっと何かを退かした。何かが何かに触れると岩に、やれやれ、そちらにも都合がありそうだから、そろそろ行くとしますよ。と言った。
岩は黙然としていた。
生き物が平らかになって、その次は宇宙が平らかになるんだろう、と思った。
何と言う調和だろう。
岩はそれを口にしたが、もう返答は無かった。
随分と前に誰かは何かを伸ばし、何処かへ帰って行っていた。




