6.モフモフは正義
上履きを脱ぎながらスニーカーを取り出すと、不意に隣から訝し気な声がかかる。
思考の海に沈んでいた意識を引き戻し、そちらに顔を向けると、そこには長い黒髪を高い位置できゅっと結わえ、黒眼鏡をかけた少女が背後から覗き込んでいた。
「あぁ、香織か。別に何でもない」
少女──柳香織は、ふいと顔を逸らして靴を履き替える尊に「ふぅん」と気のない返事を漏らすと、手に提げていたスクールバッグを肩にかけながら言葉を続けた。
「もしかして、今日珍しく遅刻してきたことと関係ある?」
「隣のクラスなのになんで知って……いや、朝のバスにいなかったからか」
「そういうことー」
「あと遅刻はしてないからな」
「なーんだ、無遅刻記録終了かと思ったのに」
「『なんだ』ってなんだよ」
上履きを靴箱に仕舞う背後で、からかうように声を弾ませる香織。
そんな彼女の方を緩く振り向いた尊は、拗ねたように冷たい眼差しを向けた。
香織は小学生の時に出会った幼馴染みで、彼女の住んでいる場所は尊の家にも近く──と言っても山を下りてすぐの住宅街──、使うバス停も同じであるため、ほとんど毎朝の登校を共にしている。
「いやいや、心配してたんだよ? メッセージ送っても既読つかないし、電話にも出ないし」
「わ、悪かったよ。心配かけて」
「わかればよろしい」
横に並んで歩きながら、眉を下げて顔を覗き込む香織に、尊は言葉を詰まらせ肩を落とした。
だが簡単に謝罪が受け入れられてほっと胸を撫で下ろすと、校舎から出た途端照り付ける強い日差しに目を細める。
朝よりも強さを増し、初夏を思わせる灼熱の太陽の光は、ただ立っているだけでもじんわりと汗を滲ませる。
暑さが苦手な尊は、今まさに到来しようとしている夏の存在に深いため息をついて、恨めしいほど晴れ渡る空を見上げた。
けれど眩しくてすぐに視線を下に向けると、同時に隣から届いた声に頬をかいた。
「それで、何だったの? ギリギリに来た理由。もしかして、また真咲さんに無茶言われたとか?」
「いや、違うけど……さすがに親父も、学業に支障が出るレベルの無茶は言わないからな」
幼馴染みの口から飛び出た父親への不信感に、複雑な想いが脳裏を駆け巡る。
息子の友人からも『無茶を押し付ける奴』ってイメージされてるんじゃねーか、と。
確かに真咲は、まだ陰陽帳──陰陽師にとっての運転免許証のようなもの──も持っていない半人前の尊に、己の仕事を任せる程度にはとんでもない男である。無免許の人間に車を運転させることと同じだからだ。
しかし今言った通り、真咲は尊の学業に影響するほどの指示はしないし、陰陽帳を持っていないにも関わらず仕事を任されることにも理由がある。
だがそれを踏まえても、遅刻しかけた原因として真っ先に疑われるくらいには、周囲から見ても彼は自分の息子を酷使していた。
「待てよ……もしかして俺、もっと文句を言ってもいいのでは?」
「うん、私もそう思う。むしろ、お給料アップしてもらってもいいと思う」
はた、とこれまで考えもしなかった事実に気が付き、じっとりとした目で虚無を見つめる尊に、香織は拳を握ってさらに焚きつける。
それに「名案だ」と親指を立てる尊の目は、死んだ魚のように据わっていた。
「帰ったらすぐに交渉しよう……応じないようなら、この前来客用の茶菓子をつまみ食いしてたこと母さんにチクろう……」
「その意気だよ!」
わなわなと唇を震わせながら、低い声で計画を練る。
そしてその勢いのまま、校門を通り抜けようとしたその時──不意に、校門の上に真っ白な毛玉が鎮座しているのを見つけて、立ち止まった。
人間の拳大ほどもあるその毛玉は、一見すると動物の尻尾のようにも見えるし、「見つけると幸せになれる」という伝説を持つケセランパサランのようにも見える。
けれどふさふさの毛から黒い二つの瞳が覗いている辺り、ケセランパサランというより妖怪と言った方がしっくりきそうだ。
それもそのはず……しっくりくるもなにも、これは正真正銘『妖怪』なのだから。
「どうしたの? 何かいた?」
それまで普通に歩いていたところ急に立ち止まった尊に、香織は慣れた様子で声をかける。
それに対して尊も慌てる様子などはなく、毛玉を見つめたままいつも通りの声音で返した。
「あぁ、いや。校門の上にムムがいる」
「え、まじ? ……うーん、今日は見えないなぁ」
目を細めて真剣に校門の上辺りを望む香織だったが、その瞳には何も映らなかったようである。
一方で、尊の声に気づいた真っ白な毛玉はもぞもぞと動き出すと、毬のように宙を飛び跳ねながら二人に近づき、やがて大きく跳躍して尊の頭の上に飛び乗った。
「お、頭の上来た」
「えぇ~いいなぁ……私もモフモフしたい……」
極力他人には聞こえない程度の小さな声で話しながら、二人は再び歩み始める。
揺れる尊の頭上で大人しくしていた毛玉は、まるで香織に挨拶するように「ムッ!」と短い鳴き声を上げるが、それが彼女に届くことはなく、代わりに尊が「たぶん今、よっ!って言ったな」と通訳した。
この毛玉は名を『ムム』といい、尊が七歳の時に初めて契約した妖怪である。
「ムムって、たま~に見えても触れないから悔しいのよね……せっかくのモフモフチャンスが……」
「モフモフチャンスってお前……こいつ一応妖怪なんだけど」
「そんなの関係ないわよ、モフモフは正義なんだから」
「はいはい、今度ヒスイをモフらせてやるから我慢しろ」
「やった!」
力強くそう断言する香織に、尊は呆れに染まった生ぬるい視線を送った。
そして本人の知らぬところで巻き込まれたヒスイだが、香織がモフモフ欲しさに危険な妖怪に手を出しても困るので、生贄になってくれと内心で合掌する。
──香織は、尊が陰陽師の末裔であることを知っている、数少ない友人だ。
なぜなら、彼女自身も怪異をその目に映すことができる、今どき珍しい人間だからである。
とはいえほとんどはぼんやりとしか見えなかったり、気配を感じ取るだけのことが多い。はっきりその姿を認識できるのは、一部の波長が合う怪異だけだ。
またはムムのように、その日の天候や体調などに見えるかどうかが左右される、といった場合もある。
「そもそも、尊の数珠が見えていない時点で、今日は見えない日確定だったわ」
「……数珠つけてねぇ」
「はっ?」
尊の左手首を真剣に見つめてから、やれやれと肩をすくめて笑う香織だったが、ふとした尊の言葉に呆気にとられた。
視認封や霊符のほかにも、尊は陰陽師としての仕事の際に使用する霊具を複数所持しており、その一つが数珠である。
視認封に描かれているものと似た文字を彫り込んでいるため、この数珠も見える者しか認識できない。
これは彼にとって重要な仕事道具であり、己の体質に惹かれる怪異から身を守るための、重要なキーアイテムでもある。毎日欠かさず持ち歩いていて、今まで忘れたことなど一度もなかったのだ。
しかし今日それがない理由に心当たりがあり、尊は低い唸り声をあげて頭を抱えた。