9.教会の仕事
はじめに馬車が到着したのは郊外にある教会だった。
馬車が停車すると、白面の使用人からしばらくお待ちくださいと声がかかる。どれだけ情けない顔をしていたのか、エルザを見てロロットは呆れが大量にこもった、ため息をついた。
「なに不安そうにしてるのよ、弱っちいわね。いつものことだから大人しく待ってなさい」
彼女の言う通り、しばらくたつと教会のなかに案内された。
先導するのはやはり白面の使用人で、ここの教会の人は誰も姿を見せなかった。
「人払いしてるから誰もいないわよ」
きょろきょろと周囲を見渡しながら進むエルザの様子を見かねたのか、またロロットが呆れたように言う。
「これから何をするんですか?」
「見れば分かるわ」
「この教会の神父様にご挨拶しなくていいんでしょうか」
「定期巡回って言ったでしょ。いつもこうよ」
質素だが清潔な教会内を進み礼拝室に入る。
教会の構造はどこもだいたい似たようなものだ。ここの礼拝室も、中に入ると通路を挟んで長椅子が並び、最奥に祭壇があった。
祭壇のまんなかには、真鍮製のゴブレットがぽつんとひとつ置かれている。
「これは?」
一般的に使われる祭具だが、どこか不自然な置かれ方だった。
「便利な道具」
「普通のものと何かちがうんですか?」
「だから、見てれば分かるわ」
そう言うとロロットはつかつかと祭壇に近づいていった。
祭壇の手前で立ち止まると、ロロットがゴブレットに手をかざす。瞬間、空気がうねる感覚があった。
ぽうっと薄明るくゴブレットの内部が光る。
「う、わ」
とぷんとゴブレットのなかに何かが満ちる。だがのぞいてみてもゴブレットのなかは空のままだった。
「え?」
しかし視覚とはちがうどこかの感覚で、この杯のなかに何かが満ちているのが分かる。
「もうちょっと待ってなさい」
ゴブレットに意識を向けたままロロットは言うと、集中するためか目を閉じた。
するとゴブレットに満ちた何かが、杯から溢れていく。
水道の蛇口をひねって流れた水がホースを伝うように、それは教会全体に循環していった。
流れて、伝って、空間全体に行き渡った瞬間。
ゴーン、ゴーン、ゴーン、と鐘が三回鳴る音がした。
「はい、おしまい」
ロロットは一仕事終えた様子で息をついた。そんな彼女の足元にいつの間にか猫がすり寄っていた。
青みがかった灰色の毛並みをした綺麗な猫だ。
尻尾をロロットの足首に絡ませている。エルザの視線に気づくと、猫は琥珀色の目でこちらをじっと見返してきた。
「ありがと、シャル」
足元から抱えあげると猫に頬擦りしながらロロットが言った。
「その子は?」
「私の猫。私の相棒。ユリスにとってのライルと同じよ」
「魔法使いは、みんな相棒が一匹いるんですか?」
もしそうなら、嬉しい。
この世界では誰とも特別な繋がりを持てなかったエルザにとって、それはあまりにも得難い存在だ。
「私が知ってる魔法使いは全員相棒がいるけど、あんたにもいるかはしらない」
「い、意地悪言わないでくださいよ……」
「意地悪じゃないわよ。だってあんた規格外なんだもの」
「子どもの頃に一度も魔法を発現させなかったから、ですか?」
「そう。すごく弱いのか、それとも無意識下でのコントロールが異常に上手いのか。もしくは何かイレギュラーな能力を持っているのか。可能性はいくつか思いつくけれど、それでもあんたの年齢になるまでたったの一度も魔法が発現しなかったやつに、私は会ったことがない」
エルザが最近まで魔法を発現させることがなかったのは、子どもだけど子どもじゃなかったからだ。
子どもだけど、精神は大学生の天宮夕子だったからだ。
だがそんな、前世だなんて妄想か異常者と思われてしまいそうなことをロロットに言うわけにもいかない。
「そう、ですか……」
「まあでも絶対いるとも言えないけど、絶対いないとも言えないんだから、少しくらい期待したっていいんじゃないの」
つんけんしながらも肩を落としたエルザを慮ってくれる言い様に気持ちがやわらいだ。
「ありがとうございます。そうならいいです、本当に。……そうだったら、嬉しい」
そうならいい。そうなら、きっと、この世界がやっとうすっぺらじゃなくなる。
「…………あんた」
目を瞬かせたロロットが、エルザに向かって一歩踏み出す。
「御使い様。お祈りをありがとうございます」
だが近寄ろうとしていた何かは礼拝室に響いた声によって霧散した。
「お疲れでなければ次の教会へお連れいたしますが、いかがでしょうか」
白面の使用人は礼拝室のなかには足を踏み入れず、跪いて頭を垂れている。
「人使いが荒いわね、どいつもこいつも」
「休憩なさいますか?」
鼻白んだ様子のロロットにひるむことなく、平坦な声音で白面の使用人は言う。
「行くわよ。とっとと終わらせないといつまでたっても帰れないじゃない」
不快そうな様子を隠しもせずつかつかと進んで行ったロロットを、エルザは反射で追いかけた。
「どれくらい教会を回るんですか」
「町はずれの境にある教会を順繰りに、あと五か所。教会に立ち寄ってる時間よりも移動時間の方が長いから覚悟しておきなさいよ」
「魔法で、ぴゅーっと飛んだりはできないんですか?」
正直なところもう馬車に長時間乗りたくない。背中も腰もお尻も痛いのだ。大量のクッションが切実に欲しい。
「私はできなくもないけど、あいつらがそれを許すと思う?」
後ろをついてくる使用人にロロットはちらりと視線を向ける。
言われてみれば、そうだ。今のこの時代に空を飛べるのは鳥くらいだ。
魔法使いに自由はない。手の届かないところに行くことは許されない。
この世界の魔法使いは、箒で飛べないのか。
「ロロットは、指輪してないんですね」
ユリスが呪いの指輪だと例えた、魔法使いを縛る戒め。だが彼女の指に、あの美しい青い輝きはなかった。
「あいつは特別」
教会の外に出たロロットは、太陽に向かって何にも縛られていない自分の手をかざす。
「私とマルク、グレイブに、ヴィエイもかな。全員の力を合わせたってあいつには及ばない」
「そんなに……、すごいんですか? ユリスって」
エルザの問いに、ふっとロロットは笑った。微笑んだようにも自嘲のようにも見える曖昧な笑みだった。
「すぐに分かるわ」
やわらかく波うつ髪が彼女を隠す。太陽に照らされた淡いベージュ色は光に溶けてしまいそうで、彼女たちを御使い様と呼びたくなる気持ちが、少しだけわかったような気がした。
白面の者。って書くと急激にうしおととらだ…になってしまうので、うっかり書いては修正するということを何度もしています。