6.知らなければ
天宮夕子は家族を愛していた。
愛して、愛されていた。
エルザになった今、思う。それがどれだけ得難く、幸福なことだったのか。
父は無口だけれど穏やかな人で、いつも静かに家族のことを見守ってくれていた。
母はお喋りで明るい人で、嫌なことがあった日も母と話していると気が楽になった。
姉とは年が近かったからか友達のように仲がよく、なんでも相談したし一緒に出かけることも多かった。
『夕子』
家族が、自分を呼ぶ声が好きだった。
甘ったれたことを言っても許されることが嬉しかった。
仕方ないなあって呆れたように言われるそれが、多分愛なのだと思った。
太陽をいっぱい吸い込んだタオルケットのようにあたたかくて、安心できる。
家族という居場所。
あたたかい。あたたかくて……、そう、こんな風にあたたかくて、ふさふさの。
ふさふさの?
「げほっ……、な、なに……?」
何かに口と鼻をふさがれたせいで咳き込みながら身体を起こすと、鷲のような生き物がエルザのベッドで優雅に毛づくろいをしていた。
「え? な? え? どこから?」
目を丸くするエルザに答えるように、淡い金色の鳥はくちばしを窓に向ける。
開いた窓から吹き込んだ風で、カーテンがあおられなびく。
この鳥が器用に開けたのだろうか。与えられた部屋に来る頃にはもう疲れ果てていたから鍵を閉めた記憶もない。
「勝手に入ってきちゃ駄目だよ」
人に慣れているようで、そっと撫でてみても嫌がられなかった。
やわらかいけれどさらさらもしていて、不思議な触り心地だ。
しばらくエルザに好きにさせていてくれた鳥は、おもむろに翼を広げると窓辺にすいっと羽ばたいていく。
開いた窓の桟にとまると、猛禽類の目がエルザをとらえた。その鋭さにどきりとする。
『おはようエルザ。よく眠れた?』
だが開かれたくちばしから聞こえてきた声で呆気にとられてしまった。
「…………ユリス?」
きょろきょろまわりを見渡してみるが、当然姿は見当たらない。
六畳くらいの、最低限の家具だけがあるまだ殺風景な部屋だ。隠れられる場所などない。
窓の向こうにも視線をむけてみるが、外にユリスがいるはずもなかった。
エルザの部屋は塔の中ほどにある。もしも塔の下にユリスがいたとしても会話できる距離ではない。
『お腹が減っただろう。食堂まで案内するから下に降りておいで』
ふたたび目の前の鷲からユリスの声が聞こえる。
「ユリス、なんですか?」
『ふふっ、安心して視覚までは共有してないから。さすがの僕も淑女の寝起きを勝手に見たりしないよ』
「視覚の共有……」
そういったこともできるのか、魔法というものは。
『この子は僕の相棒。ライルって言うんだ、よろしくね』
「よろしくお願いします……」
目を丸くしたまま言うと、グワッグワッとおもちゃみたいな茶目っけのある声でライルが返事をくれた。
よろしくね、ということなのだろうか。
鋭い爪や目はまだ怖いが仲良くできるような気がしてくる。
じゃあね、とでも言うようにもう一度グワッと鳴くとライルは窓から飛び立っていった。
身支度を整え部屋から出ると塔の真ん中を貫くエレベーターに乗り込んで一階まで下がる。
そう、驚くことにこの塔にはエレベーターがあったのだ。
蛇のように螺旋階段にとぐろを巻かれているエレベーターは魔力で動いている。
蛇腹式の扉を開けなかに入り、ボタンのかわりについているハンドルを左に傾けると懐かしい浮遊感とともにエレベーターが動き出した。
網目からちらちらと見える各階の風景を眺めていると、昨日のことがぼんやりと思い起こされていく。
灰色の男がやって来たことによって中断された会話はそのままうやむやになり、エルザはあの後、灰色の男に詰め寄られているユリスを横目に用意されていた部屋に案内された。
どうやらユリスが塔から外に出かけたことは、エルザが思っていたよりもよっぽどの大事だったらしい。
案内役をしてくれたノアは終止考え込む様子で、去り際には「ユリスの説明を自分が遮ったせいで結果としてだましたようになってしまいすまない」とエルザに謝罪をした。
だが彼らにだます気などなかったことをエルザももうわかっていた。
本当にだます気があったなら、きっともっとうまくやっただろう。
危険な生き物だからと檻に入れられたような気持ちになったが、実際のところエルザとしてもここで知らなければいけないことはあるのだ。
目を閉じれば、男を焼いた炎が脳裏によみがえる。
暴力的な赤だった。
もしもまた何かの拍子で誰かを燃やしてしまったら? 想像するとぞっとする。
自分のためにも、エルザは魔法のことも魔法使いのことも知らなければならない。
「おはよう、エルザ」
「おはようございます」
食堂に入るとすでに席に着いているユリスに出迎えられた。
「あの……、おはよう、ございます」
そして食堂には、彼だけではなくもう一人。
ユリスの後ろに、何故か昨日の灰色の男が腕を後ろに組んで立ちすくんでいた。
「グレイブ」
エルザには決して向けないぴしりとした声音でユリスが灰色の男の名前を呼んだ。
「………………おはよう」
不服なのがありありと伝わってくる挨拶だった。彼の三白眼がぎろりとこちらを見る。
「昨日はすまなかったな、グレイブだ。これからよろしく」
清々しいほどの棒読みだった。
きっと事前にユリスに言い含められたのだろう。命じたであろうユリスは仕方なさそうに肩をすくめている。
「よろしくお願いします。グレイブ、さん」
「敬称は不要だ」
そう言われても親しみやすさのない彼の名前を気軽に呼ぶのは難しい。
「ユリス様が呼び捨てだというのに俺に敬称をつけさせられるわけがないだろう」
「はい……、あの、グレイブ、座らないんですか?」
食事をもう終えているのだとしても立たれていると居心地が悪い。
「ユリス様と食卓をともにできるわけがないだろう」
「ともにしてくれていいんだけどねえ」
「お望みとあらば席につきます」
「そういうことじゃないんだよグレイブ」
慣れているのかユリスは平然としていたが、彼らの明確な力関係に驚いていた。
「お前は座るといい。ユリス様がそう望まれている」
「失礼します……」
ユリスの正面の席に座ると、今日もまた親愛のこめられた眼差しでやわらかに微笑まれる。
「こいつのことは気にしなくていいよ。畏まるのが趣味なんだ」
「……趣味」
「趣味ではない。当然の対応をしているだけだ」
「グレイブ」
「趣味です」
臣下のような従順さだった。
「あの、グレイブも魔法使いなんですよね?」
昨日ノアからそう聞いていた。だから余計にグレイブの態度に戸惑ったのだ。
「そうさ。彼も魔法使いの一人だよ」
「えっと、ユリスは魔法使いたちのなかでも偉い……上司というか、長のような立場なんですか」
「まあそんなものかな」
白面の者たちにかしずかれている、神の御使いだと思われている彼らは、どう生きているのだろう。
どんな日々を過ごしているのだろう。魔法が使えるだけで普通の人たちなのだろうか。
エルザがそうであるように。
「食事を終えたら紹介するよ」
エルザの疑問を分かっているのか、白面の使用人が運んできた朝食を食べるように促しながらユリスはそう言った。