10.お救いください
その後、教会を複数めぐりロロットは先程と同じ手順で定期巡回をこなしていった。
どこの教会も神父様に挨拶をすることはなく、誰も顔を出さない教会でただ淡々とロロットはどこか荘厳さもある行為を繰り返していく。
子どもの頃から塔で暮らした彼女は、魔法の扱いが安定すると定期巡回を担当するようになったそうだ。グレイブとロロットが交代でいつもやっているらしい。
見てれば分かるとしか言わない彼女だったが、何度も聞けばどうやら今しているのは結界の補修のようなものだということも教えてくれた。
エルザから見れば新鮮なそれらは、彼女にとっては三か月に一度は繰り返している慣れた日常で、全てはよどみなく進んでいった。
だが最後の教会に立ち寄った時だ。
何よりも馬車の移動に疲労を感じていて、やっとこの身体の痛みから解放されると安堵していた時。
ロロットがゴブレットを満たし鐘が三度鳴った時。
その男はやって来た。
「天使様」
三十半ば頃に見える男は、くたびれた身なりをしていた。
目元には深い隈がきざまれていて、全身から疲労がただよっている。
「天使様でいらっしゃいますよね」
「違うわ」
切り捨てるようにロロットが言った。
「いいえ、知っているのです。あなた様は天使様です」
しかし取り付く島もないロロットを意に介さず、男は奇妙な純粋さを宿した目を輝かせた。
「お救いください。妻が病気なのです」
男は跪き、祈りを捧げるように言葉を続ける。
「薬も効かず、医者は匙を投げました。お救いください。もう天使様におすがりするしか他に手立てがないのです」
この弱りきった身体の一体どこからこんな力が出てくるのだろう。そんな場違いな考えが頭をよぎるほどに男は必死に訴えていた。
「妻だけではありません。妻の腹には子もいるのです。子どもに恵まれなかった私たちのもとにやっとやって来てくれた子なのです。お願いします、天使様。憐れと思ってくださるのなら、どうか、慈悲を」
男の訴えを聞き、憐れに思ったり同情するよりも、その切実さにまずエルザはぞっとしてしまった。
その願いの重みに息が詰まる。男の眼差しに気圧される。
「どうか慈悲を」
助けを、求められるということは、想像するよりもずっと恐ろしいことなのかもしれない。
「話を聞かない男ね。私たちは天使なんかじゃない、だからあんたもあんたの妻も産まれるかもしれない子どもも助けられない」
「いいえ、いいえ、知っているのです。私は知っているのです。あなた様たちは不思議の力を持っていらっしゃる」
「不思議の力、ね」
「神父様は私に教えてくださいました」
男の言葉を聞いたロロットは、少し目を見開いたあと、嘲るように笑った。
「へえ、そう。それで神父様は何を教えてくれたの?」
「私の話を聞いてくださった神父様は、自分もまた祈ることしかできないと謝罪なされた。しかし教えてくださったのです。自分は無力だが、あなた方は違う。あなた方は特別な存在。人の枠を超えた力を神より与えられた特別な存在。もしかしたらと、教えてくださった。もしかしたら、あなた方なら救えるかもしれないと。消えるはずの命すら助けられるかもしれない。神より使わされたあなた方なら」
深く深く男はロロットたちに平伏した。
「お救いください、天使様。私の全てを捧げます。これより先の生涯、朝と晩、毎日あなた方に祈りを捧げます。清貧に努め、隣人を愛します。ですからどうか妻を、子を、お救いくださ、」
その瞬間、光が視界を焼いた。
どん。と、地が弾ける音。追随して、ばりばりと何かが裂けた音がする。
強すぎる音で耳鳴りまでした。衝撃による振動がしばし足からつたわる。
視線を窓に向けると、教会横にあった木が一本ごうごうと燃えていた。
雷が落ちたのだ。
先程まで晴れていたはずなのに一体何が起きているのだろう。
呆然と燃え盛る木を見つめていると、それはまた地に落ちた。光が空を走った瞬間にはもう轟音が地を揺らす。
空を見上げると、広がっていたはずの青空は失われ厚い雲が空をおおっていた。
「これは神の怒り」
綺麗な笑みを浮かべて、ロロットが男に言った。
「そう思わない?」
雷の光でロロットの横顔が照らされる。鳴りやまない雷に気づいたのか、人の気配を感じなかったはずの教会からざわざわと声が聞こえてきた。
建物に火がうつらないように、木の火を消せという叫び声も外から聞こえる。
「どうしてですか」
異様な雰囲気のなか、男は、ただ一心にこちらに視線を向けていた。
「何も悪いことはしていません。ただ懸命に生きていただけです。妻も、私も。なのに何故。病は妻をむしばむのですか。ただ、ただ! 生きたい。生きていてほしい。そう望むことすら許されないのですか」
「善人が報われる世界に神様がいると思う?」
「……なに、を、言って」
「善人が報われて、悪人は報いを受ける。そんな正しい正しい世界なら、人は神様を求めもしない。そうでしょう?」
「神を、神たらしめるために、死ねと、そうおっしゃるのですか?」
「いいえ、そんなことで死ねなんて思わない。だって私、神様なんてどうでもいいもの」
楽しそうにロロットは笑った。そして雷が、再び地を揺らす。外から悲鳴が聞こえる。
「私たちは天使じゃない。最初にそう言ったじゃない」
「なら……、この雷は何なのですか。あなたたちは何者なのですか」
「さあね。でも人間よ。あんたたちとそう変わらない、人を救えもしない人間」
ロロットの言葉を聞いた男の目から、それまで宿っていた熱が消えた。
力なく肩を落とすその姿は、一気に十年も老けこんだようにも見える。
「……………………妻は、死ぬほか、ないのでしょうか」
ロロットは、男の言葉に答えなかった。
そうしているうちに、礼拝室に白面の使用人が二人やって来た。
「お手をわずらわせてしまい申し訳ございません、御使い様」
彼らは、自分で立ち上がる力も失ってしまった男の腕をとって引きずるようにして連れていく。
「しばらくその男のこと外に出さないで。教会の外に出た瞬間、雷が落ちるかもしれないから」
「え?」
どういうことかロロットに問おうとすると、外から、ぴぃぃぃぃぃっと甲高い鳴き声が聞こえた。
窓から外をのぞくと焼け落ちた木のてっぺんに鷲がとまっている。
「ライル?」
「あの子はユリスの目だからね」
空を見上げると、嘘みたいに雲が消え晴れ渡っていた。落ちかけた日がゆるゆると空の色を暖色に変えている。
「……あの、ロロット、さっきの雷って、偶然じゃないんですか?」
呆然とするエルザを見て彼女はおかしそうに笑い声をあげた。
「あんなタイミングよく落ちた雷が偶然なわけないでしょ。あんた本当にのんきね」
「だ……って、そんな。雷、ですよ」
「だから言ったでしょう。ユリスは特別だって」
それでも、それだって、限度があるだろう。
だってこんなの、まるで。
「だからあいつは塔から出られない。分かるでしょう?」
ユリスにだけはめられた指輪。ユリスを特別に敬うグレイブ。いつかユリスに殺されるのではないかと畏れながら、ユリスに傅く白面の使用人たち。
彼は本当に人間なんだろうか。そんな考えすら頭を過る。
「今日みたいなの、珍しくないから」
問うように視線を向けると、察しの悪いエルザに呆れたようにロロットは肩をすくめた。
「さっきの男」
「さっき、の」
「どれだけ秘匿しようと、やって来るのよね。ああいうの。だからいちいち気にしたりするんじゃないわよ」
「助け……られないんですか……?」
「はあ?」
彼女の眉間に深く皺が寄る。
「一人救って、そのあとは?」
冷え冷えとした声音だった。
「いくらでもわいてくるわよ。お救いくださいお救いください私たちをお救いください。それでいて救ってもらえないと知ったら呪いの言葉を吐くの。どうして救ってくださらないのですかって。まるでこっちが悪いかのように罵ってくる」
ロロットは笑っていた。彼女が笑うのは、こういう時ばかりだ。
彼女はいつも、世界を拒絶するように笑っている。
「逆上して私たちを殺そうとしなかっただけ、さっきの男はまあまだましな部類ね」
エルザはもう何を言っていいのかわからなくなってしまい、代わりのように、焼け焦げた木のてっぺんにとまったライルが、ロロットを肯定するように高く高く鳴き声をあげた。
なんかこの話すごい書くのにエネルギーもってかれました。お菓子たべたい。