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1.男運がない

 どうやら恋は人間を狂わせるらしい。

 それをエルザが思い知ったのは、天宮夕子が死ぬ瞬間だった。

 天宮夕子は、普通の女子大生だった。

 一般家庭で育ち、ほどほどの成績で、平均的な友人関係を築き、高校と大学で一回ずつ彼氏がいたこともあった。

 平凡な喜びと、平凡な悩みを持ち、本当に普通の毎日を送っていた。

 なのに、殺された。

 相手はバイト先のカフェによく来る同世代くらいの男だった。

「好きだったのに」

 刺されて倒れ伏した頭上から、男の声がぽつりとこぼされる。

 硬質な音がアスファルトを鳴らす。目線だけをどうにか動かすと地面に大ぶりのナイフが落ちていた。

(ああ、これで刺されたんだ)

 男が走っていく足音が聞こえる。引き留めようとしたが、声が出なかった。

 どうしてこんなことになったのだろう。

 先週、夕子は男に告白をされた。だが男とは接客以外では会話を交わしたこともない。それにこれから就活で忙しくなるはずだった。恋愛をする余裕はなかった。

 断ると、男は夕子をぎっと睨みつけ無言で立ち去っていった。

 気持ち悪かったが、それ以来バイト先の店に姿を見せることもなかったので夕子はもう終わったことだと思っていたのだ。

 それがまさか刺されるだなんて。自分が事件の被害者になるだなんて。想像したこともなかった。

 嘘みたい。夢じゃないのか。もう目も開けていられない。視界が暗くなってきた。

 悪夢だったならいいのに。でもそうじゃないことは刺された胸の熱さが証明していた。

 最後の瞬間に自分が何を考えていたのかはもう思い出せない。


 次に夕子が目を覚ましたとき、彼女は翠色の瞳をした五才だった。

 エルザ・ダンテス子爵令嬢。

 新たな人生を歩みはじめていたようだったが、その目覚めはそれこそ夢の中で夢だと気づくように唐突なものだった。

 ダンテス子爵家はお世辞にも家族円満だとはいえない家であった。

 夫婦仲は冷え切り、五才になったばかりのエルザの世話は乳母や侍女にまかせっきり。

 どうやら父も母も外の恋人との逢瀬に忙しいようだった。

 だから、両親に放っておかれた子どもを憐れみ涙ぐむ侍女をなぐさめるためにエルザは言ったのだ。

「まあ、そういうこともありますよね」と。

 侍女の顔がひきつるのが見えた。

 相当気味が悪かっただろう。それまでは少しぼんやりした子とはいえ年相応だったはずの子どもが、急に大人びた発言をしたのだ。

 口にしたエルザ自身も、あれ? と違和感を覚えた。

 その場は嘘泣きでごまかしたのだが、泣いているうちに知恵熱をだした。

 熱に数日うなされながら、エルザは日本で女子大生をしていた自分を思い出していった。どうして死んだのかも、はっきりと。

 そうしてすっきり身体も軽くなり熱が下がった日、エルザは今世での目標を決めたのだ。

 よし、恋愛せずに結婚しよう。

 政略結婚万歳。これほどに貴族でよかったと思ったことはない。

 貴族令嬢である限り結婚は避けられない。だが貴族の結婚では恋や愛は二の次だ。

 せっかく第二の人生がはじまったのだ。恋で殺される経験なんて一度だけでいい。恋愛などせずとも人生の楽しみとは大いにあるだろう。

 どう生きよう。まだ子どもなのだから、なんだって今からはじめられる。学問を極めてみようか。音楽や絵をはじめてもいい。せっかく令嬢にうまれたのだ。ゆくゆくは芸術家のパトロンになるのも楽しいかもしれない。

 想像すれば心は浮き立った。

 人生から恋を捨てて、エルザは幸せになるのだ。


 一人目の婚約者は三つ年上の伯爵家の男の子だった。

 彼は叔父が起こした罪で一族の爵位剥奪及び国外追放にされ、婚約が白紙になった。

 二人目の婚約者は数代前に商人から成り上がった男爵家の男の子だった。

 彼は実家の事業の失敗により、気づけば一家で夜逃げしていた。勿論、婚約は白紙になった。

 そして、十六才になったエルザの三人目の婚約者は。

「うあああおおあああああ」

「おいまじかよ、情けねえな」

「…………はは」

 三人目の婚約者は、叫び声をあげながら、今まさにエルザを見捨てて逃げていった。

「ま、逃げちまったものは仕方ないわな」

「自分の男の不出来の尻拭いをするのも女の役目だよな」

 ぎらぎらした目で男たちがエルザを見る。自分はこいつらの獲物なのだというのがそれだけで理解できた。

 目の前にいる粗野な二人組の男たちは本来であれば絶対にエルザが関わらない人種だった。

 どうしてこんな目にあっているかというと、概ね婚約者のせいである。

 今日は、半年前に決まった新しい婚約者であるローランとの何度目かの面会日だった。

 いつもであればどちらかの屋敷でお茶会をする程度だったのだが、今日に限ってはローランが街に行こうと言い出した。

 正直乗り気ではなかったが、最近流行りのパティスリーに寄れるかもしれないと思い直し、のこのこと着いてきてしまったのだ。

 ローランの下男やエルザの侍女も一緒なので問題ないと思ってしまったのが、間違いだった。

 下男も侍女も今ここにはいない。

 自由に歩き回りたかったというしょうもない理由でローランが使用人たちをまいてしまったのだ。

 見るからに貴族の子息と令嬢が使用人も護衛も連れずに無防備に歩いていたらどうなるかなんて、考えるまでもないだろう。

 二人になって早々にエルザたちは身なりの悪い男たちに声をかけられた。

 男たちはへりくだりながら言葉巧みにローランを誘った。穴場の店があるのだと路地裏に向かいだす。

 エルザは咄嗟にローランを止めようとしたが、彼は普段できない行動に気分が高揚しているのか危機感がまるでなかった。

 制止するエルザの不安を笑い飛ばすと男たちに着いていってしまう。

 案の定、男たちは人の目がなくなる暗がりまで来ると態度をがらっと変えた。

 財布とカフスボタンを男たちにとられ、その際に抵抗したせいでローランは顔を殴られた。

 容赦のない暴力は一瞬で心を折る。

 恐ろしさでエルザはうずくまったローランに近寄ることもできなかった。

 身体が思うように動かない。

 エルザがいま生きているのは日本よりもずっと治安の悪い世界だということはわかっていた。

 科学だって中世レベルまでしか発達していないし、法だって抜け穴だらけだ。

 もっと気をつけなければならなかった。けれど、貴族令嬢として育ってきてしまったばかりに安全な環境しか知らなかった。

 この世界で危機から逃げる方法をエルザは知らない。

 喉元までせりあがってきた恐怖が悲鳴となって口からあふれる。だがエルザよりも先に大声をあげた者がいた。ローランだ。

 錯乱という表現が相応しい叫びだった。上着のボタンをむしりとっては男たちに投げつけている。

 投げつけるものがなくなると、彼は叫び声をあげ路地裏から走って逃げていった。

 彼の奇行に男たちは面食らっていた。逃げるなら今しかない。しかし走り出そうとしたエルザを見て我に返ったのか、大通りに繋がる道に立ちふさがられる。

「ま、逃げちまったものは仕方ないわな」

「自分の男の不出来の尻拭いをするのも女の役目だよな」

 ローランの財布だけでは足りなかったようだ。それとも金銭だけではなく貴族を貶めるのも目的だったのだろうか。

 彼らの目には欲望の奥に粘つく憎悪が宿っていた。

「可哀想だけどよ男を見る目がなかったってことで」

「勉強代ってことで」

「金と身体、どっちで落とし前をつけたいかだけ選ばせてやるよ。お嬢様」

 くそ野郎。

 貴族令嬢から出てはならない罵りが頭に浮かぶ。

 どうしよう。どうすればいい。もしも本当にこちらを貶めるのが目的なら、最悪の結果がエルザを待っている。

 前世でも男に殺されて、今世でも男に尊厳を踏みにじられるのか。

 嫌だ。

 恐怖で歯の根があわない。ぎゅっと握った手の震えも止まらない。

 怯えるエルザを見て男たちが愉しそうに笑っている。

 少しでも距離をとりたくて後ろにさがるとすぐに壁に背中がぶつかった。逃げ場は、ない。

 獲物を追い詰めるように男たちが近づいてくる。怖い。

 手首を掴まれた。ざらりとした荒れた手の感触と生々しい体温が気持ち悪い。

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 男の手が、するりと袖のなかに忍び込んだ。

 首筋が粟立つ。そしてぱちんと何かが弾ける感覚が。

「………………え」

「ひっ、あ、うあ、あああああああああああああ」

「なん、なんなんだよこれ、なんなんだよ!」

 これまで嗅いだことのない嫌な臭いが鼻についた。足の力が抜けて地面にへたりこむ。

 目の前で起きている出来事が理解できない。わけがわからない。

 頬にちりちりと熱を感じる。


 エルザの手を掴んだ男が、燃えていた。

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