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少女とひとときのパッション  作者: みかげ石
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上 出会い

「何だか過ごしやすくなったな」


 雨がちだったこの数日のことが嘘のような今朝の空を見上げて、少年はそう呟いた。


 まだ至るところに見切れていた()んだ夏の気配を、時間をかけて洗い流すような雨がこうして過ぎてしまうと、空は泣き()らした痕もなく、からりと笑う少女のように、高く澄んでいた。


 今は吹く当てもないというようにどこかまどろんだ風の気配を感じながら、少年は広場へと続く緩やかな坂道を下っていき、やがて思い出したように脇へと()れた。

 昨日までは律儀に広場まで出ていたが、舗装のされていないこの小径を使うと、比較的古い住宅街の裏通りへとすぐに抜けることができる。


 その裏通りを下りきった先にある小さな療養所へと向かうのが、このところの少年の日課なのだった。容態の安定した友人を見舞うためで、きっと彼女は今も、そこで健やかな寝息を立てているだろう。



 まだ少しぬかるんだ茂みを過ぎ、木組みや煉瓦造りの素朴な家々がうねったように並ぶ裏通りへ差し掛かろうとしたところで、少年は見上げるように立ち止まった。

 彼の背丈ほどもあるバラの木が、近頃ようやく(ほころ)ばせていたつぼみを、この雨の間にすっかり開かせていたからだった。

 

 今はまだ、絞り模様の(あで)やかなものだけが咲いていたが、やがて思い思いの純色が家屋を彩り、それらの濃密な香りで通りが満たされるのだと思うと、少年はそれだけでうっとりとした気持ちになった。



 そんな少年の胸の内に、不意に飛び込んでくるものがあった。

 それは比喩ではなく、即物的なものとして、柔らかな弾力を持ちながら、脇見をしていた彼の体を小さく打ちつけた。まるでティーカップが机の上でことりと、転んでしまったくらいの。


「あん、ごめんなさぁい!」


 バラとは別の、何かの花の香りがした。それもきっと、来る日も陽だまりに愛された、明るい色をした花だ。


「だ、大丈夫?」


 抱き留めた肩に添えてある指が、もうそれだけで傷をつけてしまいそうな、柔らかく壊れやすい感触に驚きながら、少年は慌てふためいた少女に頭から声を注いだ。


 少女は声のする方に顔を上げながらも、夢から覚めたばかりのようなおぼつかない瞳をただただ揺らしている。さっきまで自分が何をしていたのか、まるで忘れてしまったみたいに。 


「ど、どうしたの?」


「いえ、何でも……あっ!」


 少女は少年の制服を認めると、何か思い出したようにその背後へと(きびす)をめぐらせ、華奢(きゃしゃ)な肩を擦るように彼へと預けた。


「た、助けてください。あの人たちに追われてるんです!」


 陶器を思わせるような(つや)のある指先からは、血相を変えた大柄な男たちが四人ばかり駆け寄り、既にふたりの前に立ちはだかろうとしている。

 少年はそれに動じるでもなく、まずは彼女の不安を慰めるように顔を振り返らせて言った。


「知ってる人?」


 少女は擦り付けた額を小刻みに揺らして答える。控えめに袖を掴むその指からも、彼らを拒む明確な震え(シグナル)が発せられているのが分かる。


「おとなしくその娘を渡すんだ。痛い目に遭いたくはないだろう?」


 黒服を着た一人が取りつく島もないように口を開いた。

 一見紳士然としながらも、一様に少年を見下ろすその出で立ちはひどく没個性的で、ジャケットで無理に押さえ込んだような厚みのある体躯(たいく)からは、繕う素振りのない敵意が見透けていた。


「嫌がってるようですけど、彼女に何か御用ですか?」


「お前が知る必要はない」


「そうですか。ではお断りします」


 一人の嘆息を合図に、黒服たちは一斉に少年へと襲いかかる。

 優しく少女を引き離した少年はわずかに身を屈め、瞬時にその懐へと踏み込んでいった。


 打ち下ろしをかわしたところで一人目の関節を取り、空へと拳を振り上げた二人目の鳩尾(みぞおち)に掌底をひとつ。その間背後に回り込んだ相手の顎に頭を突き上げると、蹴り上げたもう一人の足を払うとともに、倒れ込んだその喉元へと素早く足をかけた。


 その流れるような自然な動きに少年は、自分でも呆れるように感心してしまう。指導という名の下に、自分はこれだけの仕打ちを半年に渡って教官(あの人)から浴びてきたのだった。人は本当に、自分の受けた仕打ちだけは忘れないということだ。


「この界隈はこのとおり、閑静なところでね、あまり騒ぎを大きくしたくないんだ。あなたたちもそうでしょう?」


 少女が後ろから(のぞ)き込む格好で、少年は右手に光が()ぜたような魔力を(たた)えて言った。ここが分水嶺なのだと告げる、冷たい眼差しとともに。


「……いいだろう」


 それぞれに痛めた体をかばうようにして立ち上がると、男たちはそれ以上何も言わずに立ち去っていった。

 素性はどうあれ、彼らには魔術を用いてまで見境なく狼藉(ろうぜき)を働く意思はなかったのだし、今はそれだけでいいというのが少年の考えだった。


「ありがとうございます。あの、強いんですね!」


 ほわぁ、と口に手を当てたまま、少女は少年のことを見つめ込む。解けた緊張の奥からあどけない笑顔をようやく覗かせながら。


「いや、そんなことないよ」


 照れくさいというよりも、少年は居たたまれないように顔を歪めて笑う。

 教えられたことがそのとおりにできたからといって、武官としての道を歩むのであれば、彼にはまだその道のりの遠さを思わずにはいられなかったのだ。たとえそれが、意に沿わぬ成り行きから始まったことだとしても。 


「あの、お名前は?」


 そんな少年の逸れた視線に映り込むようにして、ひらりと首を傾げた少女がまたひとつ微笑む。


「あぁ、フィンだよ。フィン・マッカーズランド」


「マッカーズランド? ふうん」


「ん? フィンでいいよ、長いし。えっと、君は」


「アメリアです。私も長いから、アメリアで」


 そう言って名乗り終えた少女は、最初からそこにいたかのようにフィンの腕を抱くと、鼻歌交じりに頭を肩へと(なす)りつけてしまう。


 少年はというと、その鼻先にある、光をそのまま編み込んだような髪が揺れる度に、えも言われぬ香りに胸の奥をくすぐられるばかりで、ほとんど硬直したように立ち尽くしていた。

 それはきっと、彼の窮屈な二の腕が、そこに遺憾なくあてがわれたものの温もりと量感を、これ以上ないくらいに受け取ってしまっていたことも、大いに関係していたのだろうが。


「いや、あの……」


 これが局所的な快に著しく(さいな)まれた少年の理性が絞り出したやっとの言葉だ。

 それを知ってか知らずか、彼の腕を絡め取ったままのアメリアが口元に手を添えながら空目で呟いてみせる。


「フィンくん、今日ヒマですか?」


「え、まぁ、空いてなくはないというか、その……」


「じゃあ、ボ……じゃなかった。私と、デェト、しませんか?」


「え、あー、ど、どうかなぁ……」


 フィンにだって分かっている。これだけの少女の誘いを袖にしてよい理由など自分の人生にあるはずもないと。

 それに彼の二の腕には、あの悩ましいふたつの手付けがもう既に打たれてもいる。


 それでも、フィンにはすぐに答えることができなかった。自尊感情に恵まれなかった男心というのは、こうなると背日(はいじつ)性の植物と同じで、急に光を向けたところで素直に喜ぶことなどできないのだ。


「あうぅ……イヤ、ですか?」


「うううん、嫌じゃないよ。たださ……」


「やったぁ!」


 少女はそんな男の逡巡(しゅんじゅん)さえ、罪もなく吹き飛ばす術を感覚的に心得ているのだろう。

 香りや手触りばかりではない、その屈託のない笑顔とかげりのない声に五感の大半を射抜かれたフィンは上気した頬のまま、もう抗うことをやめたのだった。

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