長かった過去の終わり
「はぁ……は……。まだ着かないのか?」
登り始めてからおよそ四〇分。道なき道を行く険しい行程に、辰巳はかなり体力を消耗していた。
「キツそうですね。はい、これどうぞ」
ユノウは市販のスポーツドリンクを辰巳に手渡した。
「サンキュー。……ぷはぁっ、生き返る」
辰巳は五〇〇ミリリットルのペットボトルを一気に飲み干した。
「頑張ってください。佐平さんに聞いたら、あともう少しで着くみたいです」
「もう少しって、どれくらい?」
「え? ……一〇分くらいじゃないですか」
ユノウの勘であったが、実際一〇分ほどで目的地に到着した。
「着いたぞ」
佐平は一本の梅の木の前で足を止めた。
「ここが……」
夏はゆっくりと周囲を見回した。
佐平は梅の木に手を当てると、穏やかな口調で夏に語りかけた。
「墓標代わりというわけではないが、せめてもの弔いのつもりで、ここに梅の苗木を植えたんだ。……安直だったかもしれないがな」
夏の産みの母は、“梅”という名前だった。
「ここに、私のお母さんが眠ってるんですね」
夏は梅の木のそばへ行くと、目をつぶって両手を合わせた。
そして御霊への弔いを終えると、後ろへ振り返って辰巳たちにお礼を言った。
「みなさん、ありがとうございます。私のわがままに付き合ってもらって」
「何言ってるの、こんなのわがままでもなんでもないよ。それより、ちゃんと天国のお母さんに『幸せに暮らしてるよ』って報告した?」
「うん」
夏は奈々に向かって笑顔でうなずいた。
そんなやり取りを見て、佐平はポツリとつぶやいた。
「……無事、務めを果たせたみたいだな」
一五年前、佐平は亀の命を受けて、この場所で梅を殺した。
それまでにも、主の命を受けて何人もの人を殺めており、殺すこと自体にはなんの抵抗もなかった。
基本的に命じるのは氏元のみで、亀から命じられたのはこの件が最初で最後である。
いらぬ感情を抱かぬよう、殺す理由について聞くことはないのだが、亀は命じた時、聞いてもいないのに殺す理由を佐平に語った。
「私が愛しているのは殿おひとりです。殿が真に愛しておられるのも、私ひとりだと信じております。私は心の弱い人間ゆえ、たとえ“偽りの愛”であったとてしても、私以外に愛されている女性がいることには耐えられません。まして子供などとは……」
そばで仕えていたので、亀の気持ちは十分に理解できたが、一方で赤ん坊に対しても同情を禁じ得ず、僅かではあるが迷いが生じていた。
佐平は必死に迷いを消そうとしたが、それは消えることなく残り続け、結果的にその迷いによって、夏は救われたのである。
佐平は信頼の置ける妹夫婦に夏のことを託すと、自らは職を辞して、小田原城下にかまぼこ屋を開いた。
けじめをつける意味合いもあったが、梅の代わりに、亀から夏のことを守ろうという意味合いの方が大きい。
ゆえに佐平は、常に亀の動向に注意を払い、万が一夏のことが露見するようなことがあれば、自らを犠牲にしてでも夏を守る覚悟でいたのだ。
ただ、亀の死によって少し安心した部分があったのか、我當たちの動きには気がついていなかった。
「江戸の動きを探っているだけと思い、油断してしまったな……」
ここへ来る道すがら、吉右衛門から仔細を聞いた佐平は、自らの気の緩みを恥じていた。
「……名実ともに、ただのかまぼこ屋のおやじになっちまったか」
佐平は自虐気味につぶやいたが、その表情はどこか晴れやかだった。




