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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ドスケベ田中パイセン

作者: 平野十一郎

閲覧ありがとうございます!

 (かすみ)は、自分の部屋の鏡を見ながら、制服のワイシャツの首元にリボンを付けた。

 鏡の中の霞の、左目の目尻には、泣き黒子(ぼくろ)が二つ並んでいる。

 高校生になった割には、霞は比較的、童顔だ。

 肩で切りそろえた髪。

 前髪には、新しい鈴蘭(すずらん)の形の髪留(かみど)めを付ける。


 よし、完璧!


 今日から冬休みも明け、高校一年生の三学期。

 スカートはちょっと短めに履く。

 冬の寒さは我慢して。

 霞は、紺色のブレザーに(そで)を通し、キャメルのコートを羽織り、白いマフラーを巻いた。


 鞄を肩にかけ、二階の自室のドアを開け、我が家の木の階段を下りる。

 霞の家は、建ってからそこそこの年数のため、階段を踏むたびに(きし)む音が鳴る。


 リビングを通ると、父と母が、テーブルを挟んで座っていた。

 テーブルの上には、霞のお弁当。

 霞はお弁当を引っ掴み、鞄の中に突っ込んだ。


「いってきます!」


 霞は父と母に手を振り、靴を履く。

 玄関を飛び越え、家の前のコンクリートの道に踏み込む。


 すると、隣の家からドアを開け閉めする音が聞こえた。


(げっ)


 隣の家の玄関前からは、幼馴染と言う名の腐れ縁である、連太(れんた)がこちらを見ていた。

 間違いなく待ち伏せしていたな、と霞はうんざりする。


 霞は、連太の事が苦手だ。

 連太は、顔はそこそこ良い方で、そこそこ背も高く、そこそこ女子にもモテる。

 だけど、苦手なのだ。

 そこはかとなく、胡散臭(うさんくさ)い気がするのだ。


 そして、連太はこちらにやって来る。

 さも、偶然のような顔をして。


「お、霞。今出るとこ?

 一緒に行こうよ」

「え~、うん……

 あ、私、足遅いから、先に行っててよ」

「大丈夫。僕も足遅いから」


 離間(りかん)(けい)、失敗。

 不本意だが、連太と一緒に登校することになってしまった。

 不本意だが。


「霞。実は懸賞で、映画のペアチケットが当たったんだ。

 一緒に行かない?」


 行きたくない。

 だが、ストレートに伝えると、非常に面倒くさい。

 この男は、クラスの女子にそこそこ人気があるのだ。

 その誘いを無下に断ると、すぐに周りの女子たちの噂になって、嫉妬やら好奇心やらで、しばらくは暇つぶしの話題にされる。

 女子の世界って、なんでこんなに面倒なのだろうか。


「何のジャンル?」

「ホラー」


 うわ。魂胆が見え見えだ。

 きっとシチュエーションにものを言わせ、抱き着かせるか、自分が抱き着く気だ。


「ごめん、私ホラー見ないの。

 他の子と行ってあげれば?」

「そうなんだ。残念」


 霞は、よし、と心の中でガッツポーズをした。

 連太と映画なんて、ごめんである。


 一月上旬の冷たい空気で、顔の肌が切れそう。

 二月になると、もっと寒くなるのだ。

 スカートの下にジャージを履きたい欲望に負けそうになる。

 でもそこは華の女子高生。

 かわいい恰好をしたいではないか。


 そうこうしている内に、霞たちが通っている高校が見えてきた。

 実は、霞たちが通う高校は、すぐ近所なのだ。

 むしろ、すぐ近所だからこそ、入学を希望したのだ。

 おかげで、通学は非常に楽であった。

 割と高い偏差値の我が校に入るため、霞はかなり勉強をがんばったのだ。


 ただ、連太まで付いてくるとは思わなかったが。

 連太はたしか、元々別の高校を志望していたはず。

 直前になって、我が校に切り替えたのだ。

 何を考えているのか分からなかったが、連太の思考なぞに興味はない。


 話題を探す義理も無いので、霞と連太は無言で歩く。


 そこに、自転車の音が後ろから聞こえてきた。

 振り向くと、ママチャリに乗った男子生徒、二年生の田中(たなか)先輩だ。

 通称、田中パイセン。


 田中先輩は、あまり高くない上背に、オールバックの髪型に、眼鏡。

 まさしく真面目ですよと言わんばかりの凛々(りり)しい表情。


 だが、霞は知っていた。

 この先輩は、決して真面目なんかではない。

 本性は不真面目な上、ドスケベなのだ。

 ドスケベ田中パイセン。


 たまたま入った美化委員で知り合った田中先輩。

 いつもいやらしい事ばかりを考えている田中先輩。

 しかし、霞はこの先輩の事を、なぜか嫌いではない。

 むしろ、結構好感度は高い。

 この田中先輩は、いつだって何もかもがまっすぐなのだ。


 田中先輩がママチャリに乗ったまま、霞に声をかける。


「明けましておめでとう!霞さん!」

「あけおめ!田中パイセン!」


 田中先輩に、ピースサインをする霞。

 田中先輩は、スピードを落とし、徒歩の霞と並走する。

 そして、短めのスカートを履いている、霞の生足を食い入るように見ていた。


「パイセン、見過ぎ。変態」

「うん。相変わらず、きれいな脚だね。

 素晴らしい」


 田中先輩は、いつだってまっすぐだ。

 彼曰く、エロスこそ人生で一番大切なものらしい。

 賛同はできないが、そんな田中先輩はやはり嫌いではない。


「霞さん、その脚、何か特別なケアでもしてるの?」

「お風呂上りに、化粧水つけてますよ。結構いいやつ。

 あと、寝る前には絶対ストレッチ」

「なるほど。その美脚は、努力の賜物(たまもの)か。

 ぜひ維持してくれると、俺はうれしい」


 くすりと笑いが込み上げてくる霞。

 やはり、この先輩は嫌いではない。

 ストレートに褒めてくれるのは嬉しかった。

 だが、隣の連太は不服そうな顔をしている。

 連太は言う。


「先輩。セクハラですよ。

 霞だって嫌がってます」


 霞は全く嫌がっていないのだが、連太がかばうように前に出る。

 そのときに、さりげなく連太に身体を触られたのだが、そっちの方が嫌だった。


「おお、これはすまん。

 つい本音が。

 霞さん。その髪留め、すごくきれい。似合ってるよ。

 それじゃ、また」


 ママチャリで颯爽(さっそう)と去って行く田中先輩。

 新しい鈴蘭の髪留めを褒められたことが、少し嬉しい。

 連太は、髪留めのことに触れもしなかったのだ。

 霞は、こころなしか足取りが軽くなった。


 連太は、しばらく先輩の後ろ姿を睨みつけていた。







 霞たちが教室に着くと、連太がクラスの女子に挨拶をした。

 やはり、連太は女子にそこそこ人気がある。

 霞に関わらずに、勝手に適当な女子と仲良くしてくれていれば、それでいいのにと思う。

 霞も、周囲の女子と、新年の挨拶を交わす。


 今日から三学期。三学期は短い。

 きっと、すぐに春休みがきて、そして二年生になるだろう。


(私も、先輩になるのかぁ)


 霞は、机に突っ伏して、考える。


 先輩、かぁ。


 先輩と言えば、田中先輩。


 田中先輩も、もうすぐ三年生に上がる。

 三年生になると、受験で忙しくなるため、委員会の仕事は免除されるのだ。

 そうしたら、田中先輩ともお別れだ。


(田中パイセン、なんだかんだで、楽しい人だったなぁ)


 初対面で左目を見つめられ、二つ並んだ泣き黒子(ぼくろ)を、色っぽくて美しいと褒められた。

 あの時は、ただの変人だと思っていた。

 いや、今でも変人だとは思っている。

 エロスこそ至高であると公言する田中先輩。

 しかし、あのストレート過ぎる物言いは、結局は周囲のみんなからも愛されている。


 あの先輩は、他人の良い部分を、とにかく褒めるのだ。

 まっすぐに。男女関係なく。

 割合は、女子を褒める方が多かったが。

 そこは、あのドスケベ田中パイセンなのだ。仕方ない。


 霞が田中先輩の事に思いを馳せていると、机に誰かの影が差す。

 目だけで横を見ると、連太が立っていた。


「霞、今日の放課後、みんなでカラオケ行くけど、霞も行かない?」

「ごめん、今日は委員会に顔出すからパス」


 霞は、連太の方を向こうともせず、無下に断る。

 放課後まで連太と一緒には居たくない。

 それに、美化委員のみんなとは、仲がいいのだ。

 委員会に顔を出したいのは、本当だった。


「委員会なんて、サボっちゃえばいいじゃん」

「だーめ。私、これでもマジメなんだから」


 そう、あの真面目な振りをして不真面目な田中先輩とは違うのだ。

 霞は、田中先輩の事を、ふと思い出す。

 真面目な表情で、教科書で隠しながらエロ本を読んでいたのが見つかり、教師に怒られていた田中先輩を見かけた時の事を。

 怒られている間も、キリッとした凛々しい表情であった。

 自然と笑いが込み上げてくる。

 美化委員の癖に、先輩の癖に、何てダメな人だ、と。


 それを見ていた連太は、不服そうであった。


「委員会、そんなに楽しいの?

 あんな変人が居るのに」


 その変人が楽しいのだが、霞は別に、連太に分かって欲しいとは思っていなかった。


 連太が憮然とした表情をしていると、担任の教師がやってきた。

 ホームルームが始まるため、連太も自席に戻る。

 ほっとしたのと同時に、美化委員のみんなの事が脳裏をよぎる。


 委員会のみんなが仲がいいのは、もしかしたら田中先輩の存在が大きいのではないかと。


 まっすぐに、他人の良い所を褒めまくる田中先輩。

 あのまっすぐさは、みんな大好きだった。








「霞ちゃん、明けましておめでとう」

「あけおめ~!」


 放課後、空き教室に美化委員のみんなが集まる中、別クラスの美化委員の女子と挨拶を交わし、抱き合う霞。

 田中先輩は、凛々しい表情でこちらを見ていた。

 あれはきっと、やましいことを考えている時の表情だ。

 田中先輩とは、出会って一年未満の間柄(あいだがら)ではあったが、あの分かりやすい性格の先輩のことは、今はもう、手に取るように思考回路が読めていた。

 そして、委員長の二年生の男子の先輩も入って来る。

 三年生は委員会を免除されるため、どの委員も、委員長は大体二年生であった。

 田中先輩が、委員長に声をかける。


「委員長、少し髪型変えたな。

 かっこいいぞ。似合ってると思う」


 田中先輩は、委員長とは同級生だが、別のクラスらしい。

 委員長は、髪型を褒められ、照れている。


 霞は、田中先輩の横に座った。

 田中先輩は、霞の顔をじっと見つめる。


「パイセン、何ですか?」

「やっぱり、その新しい鈴蘭の髪留め、すごくいいな。

 泣き黒子と合ってて、きれいだと思う」


 霞は、少しだけ顔が熱くなるのを感じた。


 それを誤魔化(ごまか)すように、田中先輩に問う。


「パイセン、例の、なんとか(けん)、まだ続けてるんです?」


 霞は、適当に宙にパンチのモーションをする。

 田中先輩は子供の頃から、霞が聞いた事も無い拳法をやっているらしい。


「うん。続けてるよ。

 あれが唯一の取柄(とりえ)みたいなもんだから」

「そんなの、使う事あるんですか?」

「いや、武術っていうのは、一生使う機会が無いなら、それが一番いいんだよ。

 でも、大切な人や自分を守るために、もし使わなきゃいけない時が来たら、ちゃんと使えるようにしておかないとね」


 田中先輩は中空を眺め、普段の真面目な表情を、ふと崩す。

 不真面目な顔の時は、真面目な事を考えている時だ。


 滅多に見られない顔を見て、霞の心臓が一瞬だけ跳ねた。


 しかし次の瞬間、田中先輩は、また凛々(りり)しい表情に戻ってしまった。

 この表情の時は、いやらしい事を考えている時だ。

 田中先輩は、何かをじっと見ている。

 その目線を辿(たど)っていくと、霞の胸に。


 霞は両手で胸を隠す。


「パイセン、胸見過ぎです」

「いや、ラインが美しいなって思ったんだ」

「やらしい」


 霞は、照れて笑う。

 だが、やっぱりそんなに嫌ではない。

 霞は、もしこれが他の男子だったらどうだろうと、ふと思う。

 きっと、抵抗があるだろう。もちろん、人に寄るだろうけれども。

 連太なんか、特に嫌だ。


 でも、田中先輩だったら、全く嫌ではない。

 このオールバックに眼鏡で。

 あまり背の高くない、ドスケベな先輩。


 すぐ真横にいる田中先輩の事を考えると、顔がまた熱くなった。


(う~ん。これは、マズい。

 パイセンの事、嫌いじゃないかも)


 決して「好き」とは、心の中でも断言しなかった。

 断言してしまえば、田中先輩の沼に(はま)りそうだったのだ。

 すでに嵌っているのかも、とは考えずに。







 数日後の金曜日。


 学校から帰宅した(かすみ)は、シャワーを浴びてパジャマに着替えた後、二階にある自室へ戻っていた。

 鈴蘭の髪留めは、机の上に置いてある。

 顔と身体に、化粧水とボディクリームをたっぷり付けて。

 左目には、二つ並んだ、泣き黒子。


 土日は何をして過ごそうかと思案する。


 すると、カーテンが閉まった窓から、叩く音が聞こえた。

 二階の霞の部屋の窓のすぐ隣は、連太の部屋の窓だ。

 霞の部屋の窓を叩くことができるのは、連太だけなのだ。


 霞は、無視しようと思っていた。

 だが、しつこく音が鳴らされる。

 しかたなく、(こた)えることにした。

 パジャマ姿を連太に見られたくないので、コートを羽織って。


 カーテンを開けると、当然のように連太がいた。

 窓をほんの少しだけ開けて、仕方なく応答する。


「なに?」

「いや、少し話したいなって思って」


 大した用事もないのに、しつこく呼び出したのか、この男は。


「用事無いなら閉めて」

「いいだろ、幼馴染なんだし」


 連太は、幼馴染、という言葉を引き合いに出した。

 幼馴染なんて、所詮は古い知り合い程度なのに、何を勘違いしているのだろうか。

 連太は続ける。


「なあ、霞。

 今、好きな奴とかいる?」

「いない」


 霞は即答する。

 だけれど、その即答の瞬間には、あの田中先輩が頭の中にいた。


 凛々しい顔で、いやらしい事を考えている先輩。

 不真面目な顔の時には、真面目な事を考えている先輩。

 二つ並んだ泣き黒子を、きれいと言ってくれた先輩。


 霞の顔が熱くなる。

 まずい。顔に出てしまう。


「霞、顔が赤いぞ。

 やっぱり、お前、好きな奴が……」

「お風呂上がりだから。

 あんまり見ないで。

 それじゃ」


 霞は強制的に会話を打ち切り、窓を閉め、カーテンも閉める。


 霞は、閉めたカーテンを(つか)んだまま、しゃがんで(うつむ)いていた。


 胸の鼓動は、大きくなっている。


(あ~、マズい、マズいぞ)


 あえて自覚しようとはしていなかった霞の気持ち。

 なんとか抑え込んでいた霞の気持ち。

 連太の言葉により、無理矢理に引っ張り出され、自覚させられてしまった。


(やっぱり私、パイセン好きかも)


 よりにもよって、あの変人が相手とは。

 一生の不覚。

 でも、大きくなった鼓動はおさまらない。

 田中先輩の、まっすぐな誉め言葉が、頭の中に繰り返される。


『きれいだね』

『かわいい』

『素敵』

『似合ってるよ』


 今まで言われてきた、星屑(ほしくず)のように(きら)めく、数々の言葉。

 霞はもう、その言葉を自分だけに言って欲しいと願ってしまっていた。

 田中先輩の凛々しい表情の目線は、自分だけにと。


 霞は自分のベッドにダイブし、寝転がった。

 考えてはいけないと思うほど、勝手に田中先輩の顔が、(まぶた)の裏に浮かび上がってくる。

 霞は、掛け布団に頭まで潜った。

 しかし、起きている時に見た夢は、眠った後も消えることは無かった。







 土日を挟んで、次の月曜日。


 連太による朝の待ち伏せを、何とか回避したい霞は、いつもより早起きをして家を出た。

 久しぶりの、邪魔者が居ない、一人の登校。

 いつもよりもずっと早い時間の空気は、なんだか少し違う味。


 校門の前に来ると、見覚えのあるオールバックの生徒の後ろ姿が見えた。

 あの、あまり背の高くないオールバック。


 それを見て、霞の心臓が暴れる。


 あの人は、きっと田中先輩。


 足が勝手に走り出していた。


 抑えたくても抑えられない。


 身体が止まらない。


 そして霞は、そのオールバックの男の後ろ姿に抱き着いた。


「パイセン!おはようございます!」


 するとオールバックの男は、驚いた顔で振り向いた。

 やはり、田中先輩だ。

 一瞬、人違いだったらどうしようと思っていた。


 霞は、すぐに抱擁(ほうよう)を解く。

 はしたないと思われたかな。


「霞さん?どうしたの、こんな早くに」

「なんだか、早起きしちゃって。

 パイセンこそ、どうしたんです?

 いつものママチャリは?」

「ああ、タイヤがパンクしちゃってね。

 今日は歩き。

 それで早めに出たんだけど、ちょっと早すぎたみたい」


 霞は、早めに家を出て、本当に良かったと思った。

 連太に会わずに済み。

 田中先輩にも会えた。

 この土日は、二日間、田中先輩のことばかりを考えていた。

 そして霞はもう、自分の気持ちを誤魔化すのをやめると決めた。


 霞は、田中先輩に向かって、両手を広げる。


「パイセン!おはようのハグ!」

「うん?ああ、いいよ。ハグね」


 田中先輩は、いつものようにまっすぐで、霞の要求にも応え、霞を抱きしめた。

 霞は田中先輩の腕に包まれ、田中先輩の胸に埋もれていた。

 霞も田中先輩を抱きしめる。


(パイセンの匂い、おちつく)


 田中先輩の空気に幸せを感じてしまった霞。

 完全に田中先輩に(はま)ってしまっていた。


 霞は、ふと田中先輩の顔を見上げると、凛々しい顔をしていた。


「パイセン、今、いやらしいこと考えてるでしょ」

「うん。柔らかいなって思って」

「やらしい」


 霞は、それでも離れなかった。

 こんな幸せなハグを一回してしまえば、もう元には戻れなかった。

 きっと後は、田中先輩に(おぼ)れるばかりだろう。

 むしろ霞は、溺れたいとすら思っていた。


 その時、霞の背後から、大声がかけられた。


「おい!あんた、何してんだ!」


 連太の声。

 せっかくのいい気分が台無しだ。


 連太は走ってきて、霞のコートの(えり)を、後ろからマフラー越しに掴み、霞を田中先輩から引き剥がす。

 襟を後ろから引っ張られたものだから、マフラーとコートで首が閉まって苦しかった。

 霞の襟を掴んだまま、霞の連太は叫ぶ。


「あんた!これセクハラだぞ!

 ただで済むと思うなよ!」


 戸惑う田中先輩。

 それはそうだ。

 田中先輩は、霞が求めるままに、ただまっすぐに気持ちに応えただけだ。


 霞は、後ろの襟を掴んだままの連太の腕を、思いっきり払い除けた。


「連太!なにすんの!」

「な、何って、お前。

 こいつに抱き着かれてたじゃないか!」

「ただの挨拶のハグしてただけ。

 あんたは、もう関わらないで」

「あ、挨拶のハグって、お前……

 僕にもしたことないのに……」


 当たり前だろう。

 誰が嫌いな男子にハグしたがるものか。

 霞はもう連太のことは、苦手ではなく、完全に嫌いになっていた。


 霞は、田中先輩の腕に絡みついた。


「パイセン、行きましょ。

 途中まで一緒に」

「うん。いいよ」


 凛々しい顔で頷く先輩。

 きっと今は、腕に当たる霞の胸の感触を楽しんでいることだろう。

 霞は、それでも構わなかった。

 むしろ、田中先輩を自分に溺れさせたかった。


 嫌われたらどうしよう、とも思ったが、田中先輩は心がそのまま態度に出る。

 少なくとも今のところは、ある程度は好かれているのは間違いなさそうだ。

 このまっすぐな先輩は、どこまでもまっすぐで。

 そのまっすぐな目線の先には、自分が居て欲しいと霞は願う。


 ふたりは、下駄箱までくっついて歩いて行った。

 唖然(あぜん)とする連太を置き去りにして。







 その日の放課後。

 霞は、ホームルームの後、当番である自分の教室の掃除が終わると、美化委員会が行われる空き教室へ向かった。


 美化委員の教室までの間には、他にも幾つかの、使っていない空き教室がある。

 美化委員会へと向かう途中の、空き教室のドアの前を通り過ぎようとしたとき。

 その誰も使っていないはずの空き教室から、突然手が出てきて、霞を室内に引きずり込んだ。


「きゃっ!」


 一体何事かと思い、霞を掴んだ手の主を見れば、連太であった。

 赤い頬をして、霞の手を掴んでいる。

 掴まれた手が痛かった。

 霞は、その手を振り払おうとする。


「離して!」


 だが、連太はその手を離さない。

 連太は、霞の手を掴んだまま、霞の目をじっと見つめた。

 連太は赤い頬で、言う。


「霞、好きな奴いるだろ?

 それ、もしかして、僕?」


 ほんのひと欠片(かけら)ほども想定していなかった詰問。

 まさか、こんな気色悪いことを考えていたとは。


「違う。気持ち悪いから触らないで」


 そこでようやく、霞の手を握る連太の力が弱まる。

 その隙に霞は、連太の手を振り解いた。


「霞、僕は、霞が好きだ」


 連太は、力ずくで霞に抱き着く。

 力が強すぎて痛かった。

 気持ちが悪い。


「離して!」

「嫌だ。霞、僕の彼女になってよ」

「無理!」


 連太の、おぞましい抱擁から何とか抜け出そうと、暴れる霞。

 暴れた拍子に、鈴蘭の髪留めが、外れて足元に落ちる。

 連太は、それに気づかず、髪留めを踏みつけた。

 変な風に力がかかってしまったのか、鈴蘭の髪留めは、真っ二つに割れていた。


 霞は暴れて、何とか抱擁から逃れることができた。


 だが連太は、霞の両腕を掴んで、その両腕ごと霞を壁に押さえ付ける。


「霞。僕、本気なんだ」


 連太と霞の目が合う。


 そして連太は、霞を壁に押さえつけたまま。


 自分の唇を、霞の唇に近づけてくる。


 霞の背中に、鳥肌が立った。


(えっ、ちょっとまって。

 こいつ、キスしようとしてる!?

 やだ!絶対やだ!)


 霞は、先ほどよりもさらに暴れた。

 こんな奴に(くちびる)(けが)されてなるものかと。

 だが、両腕を壁に押さえつけられた霞は、振りほどけない。


(助けて、だれか……)


 だれか。


 先輩。


 田中先輩の顔が浮かぶ。


 あの凛々しい顔を。


 あの愛しい変人の顔を。


 霞は叫ぶ。





「嫌!助けて!


 田中先輩!」







 すると、教室の入り口の方から、足音がひとつ。


 熱のこもった足音が。


 ふと仰ぎ見ると、霞を押さえつけていた連太が、入り口を注視していた。


 霞も、入り口を見る。


 そこには、田中先輩が立っていた。

 きっと、委員会へ行く途中に、霞の叫びを聞いたのだろうか。


 いつもの凛々しい表情ではなく。

 不真面目な表情でもなく。

 燃える眼差(まなざ)しの、怒りの表情で。


 田中先輩は、歩き出す。


 連太と霞の元へ。


 連太は、霞を押さえつけていた両手を離した。


 霞は、急いで連太のそばから離脱する。


 連太は、田中先輩と向き合っていた。


 連太は言う。


「出たな、セクハラ野郎」


 セクハラ野郎はお前だ、と霞は思う。


 連太と田中先輩の距離は、どんどん狭まる。


 背の高くない田中先輩。

 そこそこ背の高い、連太。

 もし喧嘩(けんか)になれば、田中先輩の方が分が悪い。


 田中先輩が負ければ、今度こそ、無理矢理に唇を奪われてしまうだろう。

 今のうちに逃げて、もっと助けを呼べないものか。

 だが、二つある教室の出入り口は、片方は完全に締め切られていて開かず、もう片方の付近は連太がいる。

 ここは三階で、窓からも出られない。


 逃げるのは、難しい。


 霞は、他の教室にいるであろう、生徒か教師に聞こえてくれと、窓を開けて叫ぶ。


「だれか!だれか、助けて!」


 どこかの誰かに声が届いただろうか。

 でも、すぐには誰もやってくる気配が無い。

 誰かが助けに来ても、連太に唇を奪われてしまった後では、遅いのだ。


 霞は、田中先輩へと向き直る。

 彼こそが霞の、一縷(いちる)の望み。


 霞ができるのは、ただ祈るばかり。


(田中先輩、お願い)


 連太は、よくわからないファイティングポーズのようなものを取っている。


 田中先輩は腰を落とし、左を前にした半身(はんみ)の姿勢を取る。

 拳を軽く握り、胸のあたりで構えた。


 両者は見合う。


 連太が、先に動いた。

 大ぶりの右ストレート。

 狙いは、田中先輩の顔面。


 だが田中先輩は、それをスウェーバックで(かわ)す。


 連太は、伸びた右腕を、再び縮める。

 その右腕を縮める動作に吸い付くように、田中先輩は、ぬるりと粘りつき連太に接近した。

 低く腰を落とし、そのまま至近距離まで連太に接近した田中先輩は、身体の前後を反転させ、連太に背中を向ける。


 そして、右足を、床に叩きつけるように踏み込む。


 それは、途轍(とてつ)もなく強烈な力で。


 衝撃が、教室全体を揺らすかの(ごと)く。


 田中先輩の、その『震脚(しんきゃく)』が、爆発的なエネルギーを生む。


 脚から来たエネルギーの爆発が、田中先輩の身体を、巨大な弾丸へと変える。


 田中先輩は、その背中を連太の胴体に衝突させ、凄まじいほどの力で、連太を壁まで吹き飛ばした。




 これぞ、八極拳(はっきょくけん)




 数多くある中国武術の中でも、最強の攻撃力を持つと言われる八極拳。


 田中先輩が、今、連太に食らわせたのは、背中や肩を使った、高威力の打撃。

 日本での通称は『鉄山靠(てつざんこう)』。

 正式な名称は『粘山靠(ティエシャンカオ)』。


 その一撃必殺の技をまともに食らい、轟音と共に壁に叩きつけられた連太は、そのまま気絶し、崩れ落ちる。


 茫然(ぼうぜん)と田中先輩を見つめる霞。


 田中先輩は、気絶した連太を見て、それでもなお油断せず、集中を切らさなかった。


 初めて見る、田中先輩の戦いの表情。

 いつもの凛々しい表情ともまた違う。

 霞は、こんな状況にも関わらず、田中先輩に見とれていた。


 やがて、先ほどの轟音を聞きつけたのか、他の教室から駆けつけてきた生徒たち。

 美化委員のみんなも混ざっていた。

 霞は、美化委員のみんなに手を振る。


 田中先輩は、未だ戦いの眼差しで、気絶した連太を見つめていた。







 霞は、事の顛末を吹聴(ふいちょう)して回った。

 連太に襲われ、無理矢理キスを迫られた事。

 それを、間一髪で田中先輩に助けてもらった事。


 教師陣にも、被害者である霞の熱意が伝わったのか、田中先輩は無罪となった。


 連太の方が、しばらく停学となったようだ。

 嫌がっている相手に、無理矢理キスしようとするなんて、強制わいせつ未遂だ。

 当然の結果だろう。


 きっとこんな事件を起こした連太は、停学が解けても、クラスに居場所が無いのではないかと思う。

 でもそれは、自業自得。

 霞の心配することではなかった。







 数日後の放課後。


 二月となり、より一層、寒さが増した。

 生足を出すのは、厳しい冷気に(さら)されて非常につらいが、ここは我慢。

 自分を可愛く見せるためなのだ。

 田中先輩を誘惑するのだ。


 霞の中では、田中先輩の存在が大きくなり過ぎていた。

 霞はもう、田中先輩に(おぼ)れ切っていた。

 もうすぐ春休みとなり、その後、三年生に上がる田中先輩は、美化委員からも抜けて、会えなくなってしまう。


 その前に、霞は告白するつもりだった。

 今日、この放課後で。

 霞は、田中先輩を、空き教室へ呼び出していた。


 きっと、嫌われてはないと思う。

 たぶん。おそらく。

 でも、振られるかもしれないと思うと、怖かった。

 しかし霞は、何とか思考をポジティブに持っていく。

 落ち込むのは、実際に振られた後で、思う存分すればいい。

 今はただ、田中先輩に伝えるだけ。

 そう思うと、心が軽くなった。


 霞は、田中先輩の事を想い、弾む足取りで、空き教室へ向かう。

 告白を前にして、心臓の音が全身に鳴り響く。

 受け入れてくれるかな。

 受け入れてくれると嬉しい。


 あの鈴蘭の髪留めは、連太に踏まれ割れて、どこかに行ってしまった。

 その残骸を見つけようとしたが、どこにも見当たらなかった。

 でも、そんなのはまた買えばいいと思う。

 今は、田中先輩への告白の事で頭がいっぱいだった。


 空き教室に着くと、既に田中先輩は待っていた。

 しまった。私の方が先に着くはずだったのに。

 失礼ではなかったか。

 一抹の不安が、頭をよぎる。


 だが、その不安を振り払い、霞は歩いて行く。

 田中先輩の元へ。


 心臓の音がうるさい。


 真冬なのに身体が熱い。


 うまく言葉にできるだろうか。


 田中先輩の目の前に来ると、霞は口を開く。




「田中パイセン。私……」







「霞さん。俺、霞さんが好きだ」







 被さるように放たれた、田中先輩の声。

 霞は、何が起きたか分からなかった。

 きょとんとした顔の霞。

 田中先輩は、なおも続ける。


「霞さん。俺と付き合ってほしい。

 美化委員を抜けて会えなくなる前に、言っておきたかったんだ。

 もし俺の事が好みじゃなければ、断ってくれて構わない」


 この先輩は、こんなときでもまっすぐで。

 言いたかった言葉を、先に言われてしまった。


 その表情は、いつもの凛々しい表情でも、不真面目なものでも、怒りのものでもない。

 全く見たことの無かった、恋の顔。

 この先輩は、こんな顔もできたのか。

 きっと、この顔は私しか見たこと無いのかもしれないと思うと、それだけで霞は嬉しくなる。


 そして、田中先輩の胸に飛び込み、抱き着く霞。


「パイセン。これからもよろしくおねがいします!」


 田中先輩は、珍しく動揺している。


「霞さん、これ、その、そういうことだよね?」

「はい!こういうことです!」


 霞は、力いっぱい抱きしめた。

 田中先輩も、霞を抱きしめる。


 もう、言葉なんていらない。

 ふたりはただ抱き合うだけだった。


 ちらりと田中先輩の顔をみると、凛々しい表情をしていた。

 きっと今も、いやらしい事を考えているのだろう。


 私の愛しい、ドスケベ田中パイセン。


 思う存分に、自分の身体を堪能して欲しいと、霞は思う。


 ふと、田中先輩は気付く。


「あ、そういえば、俺、霞さんに呼び出されたんだっけ。

 霞さん、何か用事でもあったの?」


 それは、本当ならば霞の愛の告白のはずだった。

 でも、その用事は必要なくなってしまったのだ。


「それは、もういいんです」


 頭に疑問符を浮かべる田中先輩。

 しかし、まあいいかと向き直る。

 この先輩は、いつだってまっすぐだ。


 しばらく抱き合っていた二人。

 突如、田中先輩が、何かを思い出したよう。

 田中先輩はズボンのポケットをまさぐり、そこから、きらりと光るものを取り出した。

 それは、連太に踏みつけられて、折れてしまったはずの鈴蘭の髪留め。

 接着剤で修復されている。


「一応、くっつけてはみたんだけど。

 やっぱり、折れた跡は残っちゃって……」


 霞は、自分の顔を差し出す。


「パイセン。それつけてください。前髪に」

「わかった」


 田中先輩は、霞の前髪に、鈴蘭の髪留めを付けた。




 そして、そのまま、




 田中先輩は、霞の唇にキスをする。




 驚きに目が開く霞。

 でも、もちろん嫌ではない。

 むしろ、嬉しくてたまらなかった。


 キスをしたまま、霞は田中先輩をもう一度抱きしめる。


 きっと今は、いつもの凛々しい顔をしていることだろう。

 いやらしい事を考えている、あの顔を。


 田中先輩は、霞の唇から、自分の唇を離すと、心配そうに言った。


「あ、これ、強制わいせつになるかな」

「それは、嫌がってる相手に無理矢理した場合ですよ」


 今度は、霞の方から田中先輩へ、一瞬だけのキスをした。


 キリッとした、凛々しい顔の田中先輩。

 その視線は、霞の唇へと向かっていた。


「霞さん。唇、エロいな」

「パイセンにだけですよ。

 その顔も、もう他の女の子にしちゃ嫌ですからね」


 田中先輩は、その顔、と言われてもピンと来なかったようだ。

 この先輩は、いやらしい事を考えている時、自分がどのような顔をしているのか、全く気づいていなかったのだ。


 くすりと笑う霞。

 それをまた、不思議そうな顔で見つめる田中先輩。

 霞の左目には、ふたつ並んだ泣き黒子。

 前髪に付けられた、折れた跡のある鈴蘭の髪留めが光る。


「パイセン。浮気は絶対禁止ね。

 私だけを見てて」

「わかった」


 このドスケベでまっすぐな先輩は、ただひたすらに、まっすぐに霞を求めてくれるのだろうか。

 これから先のふたりを想像してしまい、赤くなる霞の顔。


 でも、それでいいのだ。

 霞も、それを望んでいた。

 霞も、自分自身の隠された面に気づく。


「パイセン。実は私も、結構エロいのかも」

「それは、大歓迎だ」


 いつも以上に、凛々しい表情。

 なんてわかりやすいのだ。


 そしてまた、ふたりはキスをする。

 なんて幸せなのだろう。

 霞は存分に、田中先輩に(おぼ)れる。

 霞の左目の、二つ並んだ泣き黒子に、涙が一粒、(にじ)んでいた。







 私の大好きな、ドスケベでまっすぐな、田中パイセン。

 いつまでも一緒にいてね。









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― 新着の感想 ―
[良い点] めちゃくちゃ読みやすい1話完結なのもいいですなぁ。 普通に後日談が欲しいくらい面白かったです!! [一言] 神!!
[良い点] このサイトには似合わないちゃんとした青春ラブコメ
[一言] 隣の一家、息子のヤラかしで近所付き合いは地獄まっしぐらだなぁ… 逆恨みしようにも連太に仲間集められる程の人間性は無さそうだし、パイセンのスペックを持ってすれば単なる杞憂で終わるかも 霞とパ…
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