その2
「だって、もう四年前だし、駅前に行ったらあって当然だと思ってたから、ちゃんとチェックしてなくて」
「あー、じゃ、仕方ないですね。きっと、いまもどこかで元気にやってますよ」
本当は潰れて、もう営業していないだろうな、と俺は思った。飲食店業界は甘くない。まあ、これは言うことじゃないだろう。黙っている俺を見て、つづけて皐月さんが口を開いた。
「それで私、とりあえず、どこかで修行して、お金も貯めて、いつかラーメン屋をやろうと思ったんです。で、ここが近所で、ラーメン屋じゃなくて中華料理屋だけど、何かの修行になるかと思って、使ってもらって」
「え、ちょっと待ってよ」
ここで、三度目の弥生さんの声が入った。
「さっきから聞いてると、なんだかおかしいんだけど。ラーメンでしょ? だったら中華料理じゃないの。それなのに、お姉ちゃんも伸一くんも、まるで別物みたいな言い方して」
「――あのさ弥生」
皐月さんがあきれたような顔になった。
「確かにラーメンは、もとは中華料理だったんだけど、いまはそうじゃないの。中華料理屋でだすラーメンって、日本のラーメン専門店でだすラーメンとは、まるで別物だし」
「あの、皐月さん、いいですか?」
今度は俺が口を挟んだ。
「いまのは俺に説明させて欲しいんですけど。――ラーメンっていうのは、弥生さんの言うとおり、最初は中国のものだったんだよ。それも料理じゃなくて、麺の種類の名前だったんだ。本場で食べた人が言うには、太い素麺みたいな感じだったって。それが日本にきて、創作麺料理の総称になったんだ。つくり方も独自のアレンジが加わって、全く違うものになってきてるし。そもそもの、タレと出汁を合わせるって技法が中国じゃなくて、日本の蕎麦汁のつくり方だって聞いてるから」
一度言葉を区切り、何か具体例があったかな、と俺は思い返した。
「あ、そうそう。これは、ある元中華料理屋さんの話なんだけど。やっぱり思うところがあって、ラーメン屋に転向しようとしたんだって。で、どういうラーメンをつくるかって話になって。その元中華料理屋さん、永福町大勝軒系――って言ったってわからないと思うけど、そこの味が好きで」
「知ってるわよ大勝軒くらい」
俺の説明を弥生さんがさえぎった。
「つけ麺で有名なお店でしょ? カップ麺で見たことあるし、それくらいは知ってるわよ」
「あー、やっぱり誤解してるよ」
今度は俺が弥生さんの言葉をさえぎった。弥生さんが、ちょっと意外そうな顔をする。
「いま弥生さんが言ったのは、東池袋大勝軒だよ。俺が言ったのは永福町大勝軒。大勝軒っていう名前は偶然に一致してるんだけど、完全に別系統のお店なんだ。永福町大勝軒は煮干しの味が特徴なんだよ」
「あ、そう」
「それで話を戻すけど、その元中華料理屋さん、永福町大勝軒系の味が好きだったんだって。で、それを再現しようとしたんだよ。過去に中華で仕事をしてきたから、腕もあったし自信もあったし、できるだろうと思ったんだけど、これができなかったんだそうだ。中華の技術じゃお手あげだったらしくて。で、仕方がないから永福町大勝軒系のお店に弟子入りしたんだよ。そうしたら、最初にこう言われたってさ。いままでの技術は、すべて忘れてくれ」
ここで話を区切り、俺は弥生さんを見つめた。
「この話でわかったと思うけど、日本のラーメンって、中華料理屋のラーメンとは別物なんだよ。そこまで違う路線を歩いてきちゃってるんだ」
「ふうん、そうなんだ」
感心したような顔で弥生さんがうなずいた。
「それで、その元中華料理屋さん、どうなったの?」
「もちろん真面目に修行して、腕をあげて、丸一日、厨房を任せられるくらいまでレベルアップして、それで独立して、千葉県で店を開いたけど。いま二代目が跡を継いでるはずだ」
「は?」
普通に説明したら、弥生さんが目を丸くした。
「え、何、いまの話、本当だったの!?」
「え? ああ、何かのたとえ話だと思ってたのか。本当本当。リアルにあった話。だから、そういう世界なんだよ、日本のラーメンって」
「――ふうん」
少しして弥生さんがうなずいた。
「あの、認める。ドラクエで言ったら、確かに私、レベルゼロだった」
どうやら、本当にわかってくれたようだった。