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秘密の学級日誌

作者: ウォーカー

 これは、中学校に入学したばかりの、ある女子中学生の話。


 春、新学期の季節。

その女子中学生は、今年入学したばかりの新入生。

新しい学校での生活が始まってしばらく経つが、

内気な性格が災いして、未だ友達らしい友達を作れずにいた。


 この学校では、生徒が学級日誌を書くという決まりがあった。

生徒たちが毎日、授業の様子や感想などを日誌として書いていく。

前日に書かれた日誌の内容を読んで、それを引き継いで次の日の日誌を書く。

そうして一週間分の日誌が貯まると、

それをじてまとめて一週間ごとの学級日誌として保存する。

代々の生徒が書いてきた学級日誌は、書類保管庫を埋め尽くすほど。

学級日誌に書かれる内容は様々で、

授業の感想のようなお硬い話もあれば、個人的な悩みを書いても良い。

生徒同士の交流の一助とするのが、その目的だった。

学級日誌を書く生徒は、日直などと同じ当番制。

ある程度は事前に決められているが、その時によって変わることもある。

学級日誌を書くのは手間がかかるのもあって、引き受けたがる生徒は多くない。

しかし、その女子中学生は、

自ら進んで学級日誌を書く当番を引き受けることが多かった。

その女子中学生にとっては、

人と面と向かって話さなくて良い学級日誌の当番は、願ったり叶ったり。

伝えたいことを文字にするのは、口に出すよりもやりやすかった。


 その日、その女子中学生は、

またしても学級日誌の当番に割り当てられていた。

学級日誌を開いて、前日の日誌に目を通す。

生真面目なその女子中学生は、

前日に当番だった生徒がおざなりに書いた日誌にも、真摯に目を通している。

だからこそ、小さな違和感に気が付くことができた。

前日の日誌を見て、その女子中学生は首を傾げる。

「昨日の日誌の内容が、一昨日の日誌の内容と食い違ってる。

 一昨日の日誌を書いたのも私だから、間違いないわ。」

日誌には、前日の日誌の内容を引き継いで書く欄がある。

その内容が、前日の日誌の内容を引き継いでいなかった。

「一昨日の日誌には、授業で居眠りが多かったって書いたはず。

 でも昨日の日誌には、そのことが触れられていないわ。

 ううん、それどころか、みんな真面目に授業を受けていたって書いてある。

 前日の日誌の内容を読まずに、でたらめに書いたのかしら。」

念の為に確認しようと、一昨日に自分が書いた日誌を開こうとページを辿る。

一昨日の日誌は、今日の日誌から2ページ前。

しかし、2ページさかのぼった先にあったのは、一昨日の日誌ではなかった。

そこにあったのは、日付や記入者の氏名が黒く塗りつぶされた、別の日誌だった。

「このページの日誌、一昨日の日誌じゃないわ。」

もう1ページ遡ると、そこには自分が書いた一昨日の日誌があった。

つまり、一昨日と昨日の間に、ページが増やされているのだ。

昨日の日誌は、その増えたページの日誌を引き継いでしまったらしい。

だから内容が食い違っていたのだった。

「日付や氏名が塗りつぶされた日誌が増やされてるなんて、

 誰かのいたずらかしら。

 でも何のために?

 ・・・まあいいか。

 それよりも、今日の日誌を書かないと。」

その女子中学生は、その時は深く考えず、

日付と氏名が塗りつぶされた日誌はそのままに、

自分の当番の日誌を書いていった。


 次の日。

その女子中学生のクラスでは、難しい宿題が出されたこともあって、

手間がかかる学級日誌の当番を引き受ける生徒が現れず、

その女子中学生は二日間続けて学級日誌の当番をすることになった。

学級日誌を開きながら小さく言葉を口にする。

「2回も続けて日誌の当番になるなんて思わなかった。

 私は日誌を書くのが嫌いじゃないから良いけど、

 これじゃ、日誌を通して生徒同士の交流をするっていう、

 その意味がなくなってしまうわ。」

そんな言葉を漏らしつつも、真面目に今日の日誌を書いていく。

昨日の日誌の内容を確認しようと、ページを1枚遡さかのぼる。

昨日の日誌を書いたのも自分なのだから、そんなことをしなくても良いはず。

しかし、その女子中学生は律儀にも確認を怠らない。

だから、またしても見つけてしまった。

そこには、またもや日付と氏名が塗りつぶされた日誌があったのだった。

「また、日付と氏名が塗りつぶされた日誌のページが増やされてる。

 やっぱりいたずらかしら。」

しかし、書かれている内容は至極まともで、いたずらの様には思えない。

しかも、昨日と今日の間に増やされた日誌は、

ちゃんと昨日の日誌を引き継いだ内容になっていた。

自分が書いた日誌を引き継いでくれたことに、思わず頬が緩む。

「この日誌、私が昨日書いた日誌をちゃんと引き継いで書いてある。

 やっぱり、ただのいたずらとは思えないわね。

 どうしたらいいのかしら。

 ・・・そうだ。

 どうせ私以外には日誌をちゃんと見る人はいないんだし、

 日誌で返事をしてしまったらどうかしら。」

思いついたその女子中学生は、

昨日と今日の間に増やされた日誌を引き継いで、

今日の日誌を書くことにした。

そして、日誌の最後をこう締め括った。

「昨日と今日の間の日誌を書いた、あなたは誰?」


 その次の日。

その女子中学生は、学級日誌のことが気になって、

自ら進んで、三度学級日誌の当番を引き受けた。

放課後まで待ちきれず、授業の合間の休み時間に学級日誌を確認する。

その女子中学生が食い入るように学級日誌を見ている様子を、

他の生徒たちは遠巻きに見るとはなしに見ていた。

そんな様子には気が付かず、

その女子中学生は胸を高鳴らせながら学級日誌を開いた。

今日の日誌と昨日の日誌の間のページを確認する。

すると期待通り、そこには日誌が1ページ、余分に増えていたのだった。

今日と昨日の間に増えた日誌は、やはり日付と氏名が塗りつぶされている。

その日誌は、このように結ばれていた。

「わたしの日誌に気がついてくれて、ありがとう。

 もしよかったら、またこうしてお話したいな。

 お返事待ってます。」

昨日と今日の間の日誌を読んで、その女子中学生は顔をほころばせた。

「わっ、私が書いた日誌の返事が書いてある。

 またお話ししたいって。

 何だか照れるわ。」

文通相手を見つけたような、そんな嬉しさ。

その女子中学生は、周りをキョロキョロと見回して、

誰にも見られたくないと体を縮めた。

「せっかくだから、私もお返事を書いてみよう。

 でも、学級日誌でこれ以上続けるのは良くないわよね。

 学級日誌の当番は、他の人がすることもあるのだから。

 でも、他のノートを用意するにしても、相手にどうやって知らせよう。

 ・・・そうだ。」

その女子中学生は腰を上げると、学級日誌が仕舞ってある棚を覗いた。

棚の中から別の学級日誌の冊子を取り出す。

それは、まだ使われていない新しい学級日誌だった。

「学級日誌の冊子はたくさんあるし、1つくらい拝借しても良いわよね。

 こっちを、私と日誌の子の専用にしてしまおう。」

そうしてその女子中学生は、新しい学級日誌をこっそり用意して、

昨日と今日の間の日誌への返事をそちらに書くと、

今週と先週の学級日誌の間にそれを仕舞ったのだった。


 その女子中学生の意図は伝わったようで、

次の日からは、内緒で用意した学級日誌の方に、

昨日と今日の間の日誌が書かれるようになった。

そうして、

その女子中学生と日誌の子との間で、

秘密の学級日誌を使った文通のようなことが始まった。

その女子中学生は矢継ぎ早に質問する。

「あなたは誰?

 私のクラスの生徒?

 名前は?」

次の日、昨日と今日の間の日誌に返事が書かれていた。

「わからない。

 クラスも名前も、ここがどこなのかも。

 何も思い出せない。

 ここは暗い。

 真っ暗な場所で、わたしは一人ぼっち。

 一人ぼっちは寂しいから、学級日誌を書いていたの。

 でも、誰も気がついてくれなくて。

 あなたが気がついてくれてよかった。」

日誌の子の返事を読んで、その女子中学生は首を傾げた。

自分の名前がわからないとは、どういうことなのだろう。

きっと、すごく恥ずかしがり屋に違いない。

真っ暗な場所で一人ぼっちとは、

日当たりの悪いアパートで一人暮らしをしているという意味だろう。

自分にだって、他人に聞かれたくないことはあるのだから、

あまり深く追求しないほうがいいだろう。

その女子中学生は、その程度にしか考えていなかった。

そうして、二人だけの秘密の学級日誌は続いていった。

正体がわからない相手の方が話しやすいこともある。

秘密の学級日誌でのやり取りを続ける内に、

その女子中学生と日誌の子は打ち解けていって、

日々の悩みや他愛もない話をする関係にまでなっていった。

二人だけの秘密の学級日誌は、さながら交換日記のよう。

相談に乗ってもらったり宿題を見てもらったり、

そんな関係がしばらくの間、続いていった。


 春が過ぎて、夏の季節が近付いて。

秘密の学級日誌は、今も続いていた。

一日の終わりに日誌を書き、次の日にその返事を貰う生活。

自分の考えを文字に書き起こす行為は、考えを整理して伝える練習にもなる。

日誌を毎日書くことがその鍛錬になったのか、

その女子中学生の内気で口下手な性格は、徐々に変わっていった。

クラスの生徒たちとも、日常的な会話をするようになった。

しかしそれでも、一番気兼ねなく話ができる相手は、

あの秘密の学級日誌で言葉を交わす、日誌の子だった。

今でもなお、名前もどこの誰なのかも知らない。

それが返って、何でも相談できた理由だったのかもしれない。

その女子中学生は今日も、登校してまず最初に秘密の学級日誌を確認する。

まずは、昨日自分が書いた日誌の内容を読み返した。

「今週はプール開きなの。

 私、水泳は苦手だから憂鬱だなぁ。

 眼鏡を外すと何も見えないんだもの。」

こんなことを書いたらきっと、

あなたが苦手なのは水泳だけじゃないでしょ!

なんて、いつもの調子で返事が返ってくることだろう。

そう思っていたのだが。

しかし、昨日の日誌への返事は、予想した内容では無かった。

「あなたに、頼みたいことがあるの。」

昨日と今日の間の日誌は、そう始まっていた。

続きを読んでみる。

「あなたに、頼みたいことがあるの。

 この学校の水泳の授業では、

 流れるプールの宝探し、というものがあります。

 みんなでプールに浸かって、同じ方向にぐるぐると歩いて水流を起こして、

 流れるプールを作ります。

 その流れるプールにゴムボールを沈めて、みんなで宝探しをするのです。

 もしも、その流れるプールの宝探しが行われたら、

 そのゴムボールを、あなたに拾ってきてもらいたい。

 青いゴムボール。

 青いゴムボールを、拾ってきて下さい。

 それだけが、わたしの心残り。」

そう書かれた返事からは、真剣な様子が感じられる。

その女子中学生は眉間に皺を寄せて考え込んだ。

「改まって頼み事なんて、どうしたのかしら。

 でも、いつも相談に乗ってもらってるのは私の方だから、

 恩返しのためにも頼み事は聞かないとね。

 水泳の授業でゴムボール拾いか。

 それくらい、お安い御用よ。

 早速、返事を書いておこうっと。」

そうしてその女子中学生は、

「明日のプール開きで水泳の授業があるので、

 その授業の時に試してみるね。」

と返事をしておいたのだった。


 次の日、学校のプール開きの日。

その女子中学生のクラスでは、今年始めての水泳の授業が行われた。

生徒たちがきゃっきゃと嬉しそうにプールへ移動していく。

水着に着替えてプールサイドに並んで、みんなで準備運動。

そんな生徒の一団に加わりながらも、

その女子中学生は、朝に読んだ秘密の学級日誌のことが頭から離れなかった。

昨日と今日の間の日誌には、

前の返事と全く同じ内容が書かれていたのだった。

「あの子、

 今日の返事は、昨日と全く同じことを書いていたわ。

 きっと、流れるプールのことがよっぽど気になるのね。

 何としても青いボールを拾ってこなきゃ。

 私、水泳は苦手なんだけど、上手くいくかしら。」

その女子中学生はプールを前にして緊張の面持ちだった。


 準備運動が済んで、まだ肌寒いプールに浸かり、

水泳の授業は恙無つつがなく進行していった。

しかし、授業時間も半分以上が過ぎたところで、

クラスの生徒達が何やら騒ぎ始めた。

「先生、流れるプールやろうよ!」

「やりたいやりたい!

 あれ、楽しいよね。」

「それと宝探し!

 あれがやりたくて、水泳の授業を楽しみにしてたんだ。」

生徒たちの言う通り、今回の水泳の授業では、

流れるプールはまだ行われていなかった。

先生の説明によれば、

流れるプールは都合により実施しなくなったのだという。

しかし、その説明を聞いた生徒たちはご立腹。

流れるプールがやりたいと文句を言い始めたのだった。

そんな生徒たちの声は、その女子中学生にとっては渡りに船。

その女子中学生は内心ほくそ笑んだ。

「よかった。

 このまま流れるプールをやらなかったら、

 あの子に何と言い訳しようかと思ってたのよね。」

しかし、体育の先生は渋い顔で応える。

「流れるプールか?

 あれはもうやらないって、職員会議で決まったんだよ。

 なにせ、あんな事故があったからなぁ。」

けれども、生徒たちの声は収まらない。

「そんな!

 流れるプールが楽しみで、今日の授業を頑張ったのに。」

「事故って、生徒が溺れたっていうあれでしょ?

 でも、プールは改装されたんだから、問題ないはずだよ。」

「事故の原因の排水溝は、もう塞いであるんでしょう?

 だったら大丈夫だよ。」

「そんなこと言ったら、水泳の授業だって危険じゃないか。」

生徒たちは口々に文句を言うと、プールの中で時計回りに移動を始めて、

自主的に流れるプールを始めてしまった。

それを見て、体育の先生は頭を掻いて応えた。

「仕方がないな。

 それじゃあ、一回だけだぞ。

 やりたくない生徒は、プールから上がって良いから。

 具合が悪くなった生徒は、すぐに知らせること。

 みんな、安全には気をつけるんだよ。

 では、宝探しのゴムボールを準備しよう。」

そうして済し崩し的に、

流れるプールと宝探しをやることが決まってしまった。

嬉しそうにはしゃぐ生徒たちの中で、

その女子中学生は、日誌の子の頼みを叶えるべく、

無い袖を捲くっていた。


 プールの中で生徒たちが時計回りに歩いている。

生徒たちの動きに従って水流が起こって、

やがて生徒たちの体が水の中で浮き上がるようになった。

プールサイドから先生が声をかける。

「よーし。

 流れるプールを作るのは、そのくらいでいいだろう。

 じゃあ今から、宝探し用のゴムボールを3つ入れるぞ。

 でも、すぐに拾うなよ。

 先生が合図をしてから、宝探し開始だ。」

そうして先生が手にしたゴムボールを3つ、プールにそっと沈めた。

真っ黒な3つのゴムボールは、流れるプールに沈んで、

すぐに行方がわからなくなった。

それからたっぷり3分ほど待って、先生が手を打った。

「それでは宝探し、始め!」

その掛け声で、流れるプールの宝探しが始まった。

生徒たちがキャッキャと騒ぎながら宝探しに興じる。

宝探しとは言え、実際に宝探しをしている生徒は全体の3割ほど。

残りの生徒は単に流れるプールを楽しんでいた。

その女子中学生は水泳が苦手なので、

本来ならばプールサイドに上がって見学していたいところ。

しかし今は、

日誌の子からゴムボールを持ってくるように頼まれている。

水流で足元もおぼつかない中、ゴムボールを探し出そうと、

プールの底に目を凝らしていた。

「あの黒いのは・・・生徒の足ね。

 あっちの黒いのは・・・プールの継ぎ目の影。

 そっちの黒いのは・・・誰かの落とし物だわ。」

あれも違う、これも違う。

そうしている間に、1つまた1つと、

ゴムボールを見つけた生徒が名乗り出ていく。

先生がプールに入れたゴムボールは、残り後1つ。

その女子中学生はゴムボールを求めてプールの中を彷徨っていた。

そうしてプールの底を見ていると、

ふと、何かがあったような気がした。

あそこに見えるのは、黒いような青いような何か。

その時、プールの遠く逆側で生徒たちの歓声が上がった。

どうやら、最後のゴムボールが見つかったらしい。

しかし、集中しているその女子中学生は気が付かない。

プールの底を凝視して、流れに逆らって近付いていく。

「あれは、青いゴムボール?

 きっとそうだわ。」

その女子中学生は、体を水の中に沈めて確認しようとする。

しかし、水流で体が流されてしまって、

落ち着いて確認することができない。

仕方がなく、何があるのか確認できないまま、

水の中に潜って手を伸ばした。

水流に逆らって伸ばした手の先に、何かが触れる。

何かの金属の感触がして、どこかに手を差し込んだ感触。

そしてその先に、ゴツゴツぐにゃぐにゃとした感触があった。

「・・・これ、ゴムボールの感触じゃないかしら。

 きっとそうよ。」

良かった。

日誌の子に頼まれていたゴムボールを見つけることができた。

そう思ったのだが。

しかし、その握った手を何かに引っ張られる感触がした。

水流に流されそうな体が、がっちりと掴まれて離せないほどの力。

その女子中学生は水の上に顔を上げることができず、

水の中でじたばたと体を暴れさせた。

「何かに、腕を掴まれてる?

 プールの中なのに?

 これじゃ、水の中から顔を出せなくて、息ができないわ。」

何とかして振りほどこうとするが、

手が引っ張られる感触がして、どうしても抜けない。

このままでは溺れてしまう。

恐怖が背中を撫でる。

焦れば焦るほどに腕は抜けず、息が苦しくなってくる。

掴んだゴムボールを離してしまえば、逃れられるだろうか。

・・・いや、だめだ。

あの子が、日誌の子が、

どうしても持ってきて欲しいとお願いしてきたのだ。

普段、自分は相談に乗ってもらってばかり。

それが逆にお願いされたのに、諦めるわけにはいかない。

意地を張るも手は抜けず、いよいよ意識が朦朧としてくる。

もうだめだ。

そう思った、その時。

何かに両脇を抱えられたように、ふっと体が軽くなった。

誰かが助けに来てくれたのかと周囲を見渡すが、

水中のぼやぼやした視界では分からなかった。

理由はわからないが、

手を引っ張っている何かがすっと抜けた感触がしたのはわかった。

体に自由が戻って、水流と浮力で体が浮き上がっていく。

その女子中学生は、窒息した体でプールの底を蹴ると、

水の上へと上がっていった。


 その女子中学生がやっとのことで水面に顔を出すと、

周囲には、水泳が得意な生徒や先生がやってきたところだった

どうやら、溺れていると思われていたようだ。

先生に抱えられるようにして、プールサイドへと上がる。

「大丈夫か?」

心配そうに声をかけてきた先生を、手の平で制して返事をする。

「大丈夫です、溺れてません。

 ちょっと長く潜っていただけです。

 御心配をおかけしました。」

そう返事をしたその女子中学生は、咳き込みながら肩で息をしていて、

とても平気そうには見えない。

すると、心配そうに周りを囲む生徒の一人が、指差して言った。

「それ、何を拾ったの?」

指し示す先には、その女子中学生の手。

そこには、古くくたびれた青いゴムボールが握られていたのだった。


 それからプールの授業は終わり、

その日の授業を消化して放課後になった。

その女子中学生は、誰もいなくなった教室で、

秘密の学級日誌を開いていた。

苦労して取ってきた青いゴムボールの報告をするために。

「せっかく苦労して取ってきたのだから、早く報告しなきゃ。

 でもこのゴムボール、どうやって渡そう。

 学級日誌の横に置いておいたらいいのかな。」

青いゴムボールを置いて、秘密の学級日誌を開く。

すると、秘密の学級日誌に、またもやページが追加されていた。

追加されたのは、昨日と今日の間の日誌の、更に後。

今日の日誌の1つ前が、もう1つ追加されている。

今日2ページ目の日誌は、やはり日付と氏名が塗りつぶされていた。

「あら?

 日誌が追加されてる。

 日誌の子が、今日の内にまた日誌を書いたのかしら。

 授業があったのに、いつの間に。

 こんなこと、初めてだわ。」

追加されている日誌を確認する。

書かれていたのは、こんな内容だった。

「青いゴムボールを見つけてくれてありがとう。

 おかげでわたしも、出口を見つけられたみたい。

 さようなら、また逢う日まで。」

日誌を読むその女子中学生のすぐそこで、

青いゴムボールが音もなく溶けるように崩れ去っていく。

後には、青い砂だけが残されたのだった。


 そんなことがあってから。

秘密の学級日誌に日誌を書いても、

昨日と今日の間の日誌は、もう現れなくなった。

日誌で意思疎通する相手を失って、

その女子中学生はまた一人ぼっちには、戻らなかった。

秘密の学級日誌を書くことで、

自分の考えを整理して伝えられるようになって、

その女子中学生の内気で口下手な性格は変わっていった。

快活とは言わないまでも、

他の生徒たちと会話くらいはするようになっていた。

今も、生徒たち数人のおしゃべりの輪に加わっている最中。

しかし、その女子中学生の表情は、どこか上の空。

おしゃべりに相槌を打ちながら、制服のポケットを弄っている。

ポケットの中には小瓶。

そしてその小瓶の中には、

渡しそびれたまま崩れ去ってしまった青いゴムボールの砂が、

入れられているのだった。


 その女子中学生が知らない、ある病院の一室。

病室のベッドに、一人の少女が眠っている。

どのくらい眠り続けているのか、少女の体には細い管が通されている。

整った顔は青白く生気が感じられない。

その少女の青白い顔に、薄っすらと色味が差していく。

長い睫毛がピクリと震えたかと思うと、

長く閉じられていたまぶたが、細くゆっくりと開かれていった。

開いたばかりの目でぼんやりと周囲を眺めると、

唇を薄く開いて、小さく言葉を零した。

「・・・あの子に、お礼を言いに行かなきゃね。」

そうしてまた、二人だけの秘密の学級日誌は続いていく。

今度は二人で同じ日付を刻みながら。



終わり。


 言葉を口にして話すのが得意な人がいれば、

言葉を文字にして伝えるのが得意な人もいる。

そのどちらも評価されたら良いのに。

そう思って、この話を作りました。


女子中学生がプールで溺れかけた時。

腕を引っ張っていたのは何ものだったのか、

そこから助けてくれたのは何ものだったのか、

いくつかの場合が考えられると思います。

事故の原因が古い排水溝だったいう話が、その手がかりになるかと思います。


お読み頂きありがとうございました。


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― 新着の感想 ―
[一言] ハッピーエンドにしていただけて、うれしかったです。<(_ _)>(*^-^*) 内気な少女が心を開いた相手が、ネガティブなことをする結末はつらいですから。 読んでいて救われました。 わたしも…
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