皇子の憂鬱
シャルとのお茶会から数週間。いよいよ繚乱会の準備も佳境に入ってきて、学園は慌ただしくなってきた。
ボクも多分に漏れず、明け方からフィッツロイ家の実家と学校を行き来して、お茶会用のティーセットを運んでいた。
何度も往復するうち、気付けば太陽は高く上がっている。
「うぅ、眠い……」
ここ数日の激務でボクの眠気は限界だ。
しかし、ぶんぶんと頭を振って眠気を払う。
このティーセットを割ろうものなら懲罰ものだ。なんせこれ、ボクのお給金の三か月分の価値があるからね。大事に、欠けすらしないように慎重に繚乱会にまで運ばないと。
「セシル?」
「うひゃあっ!? あわーっ!? あぶっ、あぶっ!」
あ、あぶな……っ! 呼び声にびっくりして危うくティーセットを取り落とす所だった。
ほっとしつつ振り返れば、そこに立っていたのはギルバート様だった。
「すまない。頭を振っているのが見えてね」
「あ、あはは……お恥ずかしい……すみません、ちょっと眠たくって」
「ああ……ここ最近は忙しい上に僕達は考えてばかりで肉体労働はセシル達に任せきりだから疲れるのも仕方がないか。すまないな」
「いえ、そんな……働くのがメイドの仕事ですし、ギュリヴェールとアスランベクはどうってことないと思いますよ?」
主に肉体労働を担当するのは、ボクとシリア、そしてギュリヴェールとアスランベクの四人だ。
力仕事は騎士組二人に任せれば良いんだけど……このティーセットのようにフィッツロイの屋敷から荷物を運ぶのはボクの仕事になる。
空いてる時間はシリアとお菓子のレシピを考えたりしているし、肉体労働が辛いというよりは、睡眠時間の絶対数が足りてないだけなのだ。
「そうは言っても……目の下にクマが出来ているのだが、大丈夫だろうか?」
「ぇ……ほ、本当ですか?」
「ああ、くっきりとね」
ギルバート様が苦笑する。
うわぁ、恥ずかしいっ……! そういえば最近忙しくて鏡見てなかった……!
「あ、あう。あ、あんまり見ないでください……」
かぁ、と顔が熱くなるのが分かる。
うぅ。このイケメン皇子に指摘されるなんて恥ずかしいよぅ……。
「……くっ……可愛くて直視出来ない……っ」
恥ずかしがっていると、ギルバート様はボクの言う通り顔を背けてくれた。
その際何やらぶつぶつ言ってるような気がしたけど、恥ずかしがってたせいで聞き取れなかった。なんていってたんだろう。
「こ、こほん、ところで、その荷物はなんだい? やけに慎重に運んでいたようだけど」
「あ、これはティーセットですよ。セリーヌ様がお茶は是非これに淹れましょうと仰ったので、フィッツロイ家から持ってきました」
「ああ、なるほど。後でゆっくり見せて貰おう。それじゃ運ぼうか」
「はい」
ギルバート様を肩を並べ、繚乱会室へと移動する。
繚乱会の仲はがらんとしていた。今頃お嬢様達は中庭のどこにテーブルを設置するかを決めるため、中庭に行っている頃だろう。
ギルバート様は一息吐いてソファに座ると、資料を読み始めた。
ボクはキッチンに向かうと、ギルバート様にお出しするハーブティとお菓子を用意してテーブルに並べた。
「ありがとう」
お礼を言って、ギルバート様がカップを傾ける。
うーん、本を読む姿も絵になるなぁ。流石皇子さま。
セリーヌ様と並んでる姿なんか似合い過ぎて絵画の一種みたいだもん。最早芸術だよ芸術。
「……セシル? そう見つめられると本が読みにくいのだが、何か用があるのだろうか?」
「あ、いえ。すみません、何か用事があった訳ではないのですが……美形だなぁと思いまして」
「容姿か、よく褒められるよ。母も知っての通り美人だからね、その母似の僕もそうなんだろうね」
「そうですね。似ていると思います」
「リュディヴィーヌも母さんに似ているだろう? 若き日の女王にそっくりだと、城内でも評判だよ」
よくご存じですとも。
青いリボンも相まって本当に似ているんだよね。まるでリュディヴィーヌ様が立っている場所だけ前世の頃に戻ったような、そんな気がしてくれるくらいだもん。
……そんなリュディヴィーヌ様から、好意を向けられてるんだよね。
その気持ちはとても嬉しいけど、身分がーとか気持ちがーとか以前に、同じ性別だからなぁ。
あ、キスされたこと思い出しちゃった。うぅ、忘れようとしてたのに……。
「……セシル? 顔が赤くなったが、大丈夫だろうか?」
「は、ぅ。だ、大丈夫です……」
皇子から見ればいきなり顔を赤くした変人だ。心配されて当然だろう。
ぱたぱた顔を手で扇ぎながら、ボクは曖昧な笑顔を浮かべた。
「最近、リュディはセシルにくっついているが、迷惑じゃないだろうか」
「とんでもありません。ボクみたいな身分違いの人にも優しくしていただいてありがたいです」
「そうか、それなら良かった」
ギルバート様が優しい笑顔を浮かべる。
凄くお兄さんっぽい表情だ。リュディヴィーヌ様のことを大切に想っているというのが伝わってくる。
「ギルバート様はご家族のことを、大切になさってるんですね」
「ん……そう見えるだろうか」
「はい。とても」
「……恥ずかしながら、セシルと出会うまではそうでもなかったんだけれどね」
「ふぇ……そうなんですか?」
ああ、とギルバート様が頷く。
意外だ。最近のリュディヴィーヌ様との触れ合いを見ても、仲の良い兄妹にしか見えないのに。
「昔の僕は、あまり他人に興味を持たない人間だった。王位継承権にも興味は無かったし、他人と会話したりするのも煩わしくてね。花や鳥を見ているのが好きだったんだ」
「あはは……そうですね。ボクも花を眺めるの、好きですよ」
ボクだって花をぼうっと眺めてゆっくり過ごしたいと常々思っているからね。皇子の気持ちは少しだけど分かる気がする。休みをくださいセリーヌ様。
「うん。セシルと出会ったパーティも、お母様から言われて仕方なく開いたものだった。社交の場を設けるのは大切なことだとは理解していたし、王族として好きに生きていることへの義理を通すつもりで開いたものだったんだ」
「そう、だったんですね?」
「ああ。……そこで、初めて僕は命の危険というものを感じた」
そう。あのパーティで皇子は誘拐されかけたんだ。
未遂に終わったとはいえ、あの時感じた恐怖は本物だっただろう。
「その時に、風景に色が付くように――理解したんだ。今この時間は永遠に続くものではない、とね」
「……そうですね」
「だから、今傍に居る人達との時間を大切に過ごそうと思った。セリーヌとの婚約も、後悔しないように、自分の思うままに振舞おうと思ってのものだったんだ」
「後悔はしないと思います。セリーヌ様は、とてもお綺麗ですし、公爵令嬢として相応しい立ち居振る舞いをしていらっしゃいますから、王族の一員になっても見劣りしないと思いますよ」
「――ああ、そうだな。そう思うよ」
ギルバート様が微笑む。
その表情に一瞬陰がさしたような気がするのは、ボクの気のせいだろうか。
「セシルは。……僕とセリーヌが結婚したら、嬉しいだろうか」
「勿論です。めいっぱいお祝いしますし、お菓子だって張り切って作ってしまいますよ」
二人が愛を誓い合う所を想像して、ボクは微笑む。
外国ではケーキっていうお菓子を用意して食べると聞いたし、今のうちに調べて練習しておこうかな。
いや、でもヘスペリスの王族だし、ヘスペリスの様式に沿ったものの方が良いかも? うーん、今から悩ましい。
……なんだか胸がちくちく痛むけど。
セリーヌ様がお嫁さんに行くところを姉のような立場のボクは寂しがっているんだろうな。うん、きっとそうだ。
「……そうか、セシルは僕とセリーヌが結婚したら、嬉しいか」
「当然じゃないですか。……あふ」
うっ、しまった、大きな欠伸が……っ。
慌てて顔をそむけるが、ギルバート様にはばっちり視られてしまったらしい。
皇子は優しい微笑みを浮かべている。うぐ、恥ずかしい……。
「疲れているみたいだね。少し休んだらどうだろうか」
「ぁぅ、でも……」
「少しならいいだろう? 寧ろ、無理をして失敗をする方が迷惑を掛けてしまうと思うよ。さっきも、頭を振って眠気を払っていたし」
ば、バレてる……。
確かにギルバート様の言う通りかも。割と眠気は限界だし、一時間くらいなら……良いよね?
「それじゃ、少し横になります……ご無礼をお許しください」
「眠った方が良いと言ったのは僕だよ。気にしないで欲しい」
「ありがとうございます……」
「そのソファを使っていいから」
「助かりますぅ……」
ギルバート様は慈愛の神だ。間違いない。
ボクはお言葉に甘えて、ベッドのようにふかふかのソファに横になった。
睡魔はすぐに襲ってくる。
瞼が重くなって、ボクは意識を手放した。
☆
――好きな女性が目の前で眠っている時、男がどんな気持ちになるのか、僕は初めて身をもって知った。
無防備な姿を自分に晒している――その優越感は凄まじく。
同時に、まるで天使のような寝顔に触れたくて堪らないという欲望がこみ上げてくる。
「……セシル?」
試しに呼び掛けて見ても、セシルは規則正しく寝息を立てるばかりだ。
剣を振っている時は勇猛に思えた表情も、こうしてみると年相応の可愛らしい少女にしか見えない。
長い睫毛すら愛おしく感じてしまう辺り、僕はもう、この少女に惹かれてしょうがないのだと改めて自覚する。
そっと頬に指をあててみる。
ぷにっとした感触が返って来るが、セシルは身じろぎ一つしない。余程眠りが深いらしい。ほとんど不眠不休で、輝剣祭のために頑張ってくれていたんだろう。
そう思うとますます好きだという気持ちが膨らんで――どうしようもない欲望がこみ上げてくる。
浅ましく、汚らわしい。――自分のことを、そう思いながら、
僕は、そっと彼女の薄ピンク色の唇に口づけた。
許されないことだとは分かっていた。
それでも、脳が痺れるような感触に僕は酔いしれる。
すぐに唇を離すが、その感覚は、忘れがたかった。
心臓がどくんどくんと激しく脈打っている。初めての口づけが寝込みを襲ったものだなんてリュディやお母様が知ったら卒倒するかもしれないな。
そんなことを想っていると、
カタン、と背後から音がして、僕は心臓が止まるかと思った。
慌てて立ち上がり振り返ると、そこには、
コレットが、立っていた。
「……ぎ、ギルバート様……今……」
「――っ。あ、今、のは、その」
終わりだ。そう思った。
心臓が痛いほどに鳴っている。
言い訳を探すが、見つからない。
見つかるはずもない。婚約者がいる自分が、その婚約者のメイドが眠っている隙に口づけをしたなんて場面を視られて、言い訳など出来るはずもないのだから。
「……愛して、いらっしゃるんですか。セシルさんのこと」
コレットが静かな声で、僕に問いかける。
僕は後ろで寝息を立てているセシルを見た。
セシルは眠ったままだった。
「……そうだ……」
「……じゃあ、セリーヌ様と婚約したのって……?」
「…………」
コレットの言葉に、頷かざるを、得なかった。
コレットは、何も言わずに僕にそっと歩み寄る。
頬でも引っ叩かれるのだろうか。その後セリーヌに報告されて、セシルにも、嫌われて……。
そこまで、僕が覚悟したところで。
「――セシルさんと、結ばれたいですか?」
コレットは背伸びをしながら僕の耳元で、そんなことを尋ねてきた。
「え……?」
「セリーヌ様ではなく……セシルさんを愛しているんですよね?」
普段のコレットとは思えない、蠱惑的な――ぞくりとするような声色。
不思議な引力を感じるその言葉に、僕は喉を鳴らした。
「……お手伝いします。ギルバート様の、その恋」
「黙っていて……くれる、のか?」
「勿論です。わざわざ言う必要ないじゃないですか。人の気持ちはどうしようもないものですから。ギルバート様がセシルさんに恋して止まないように、それを誰かに言いふらしたって意味がないですもん」
「……助かる。ありがとう……」
「いえいえ♪」
「しかし、手伝うって……どうやって?」
「簡単なことですよ」
コレットが、にこにこと微笑みながら、僕に囁く。
この時、僕は気が付くべきだった。
「――セリーヌ様を、追放してしまえばいいんです。そうすれば、セシルさんはギルバート様だけのものになりますよ……♪」
コレットの声に、危険な気配が、まぎれていることに。