魔王様を召喚したら、なぜか気に入られました
荘厳な伯爵家の敷地内には、まるで影を落としたように暗鬱とした一室がある。
伯爵令嬢が魔術に心酔している様子は、屋敷の者であれば周知のことだ。使用人は気味悪がって決して近づかない。家族でさえ、腫れ物に触るような扱いをしていた。
私、リンディ・ラミューダは生まれつき体が弱かった。少し歩いただけでふらつき、散歩にでも行こうなら熱を出す始末。
部屋から出ることを禁じられた私は、あらゆる本を取り寄せて読んだ。
特に興味を引かれたのは魔術本だ。なぜ伯爵家の蔵書に魔術本が紛れ込んだのかというと……一見すれば、よくあるストーリーの童話だったが、逆さにして読むと魔術の基礎が記されていたのだ。この仕掛けを見つけたのは偶然だった。
魔術は魔女が扱うもの……と一般的に認識されているが、違う。
本で読んだだけなのに、魔術を試してみたら使えてしまったのだ。相性が良かったのか、やろうと思えばできるらしい。
人の手を借りないと何もできない私が、唯一思い通りにできる魔術にのめり込むには時間はかからなかった。
「……我が名はリンディ・ラミューダ。ここに出でよ──魔王、ルシフェル!」
床にチョークで描いた六芒星の魔法陣に閃光が走った。どこからか吹いてきた風に、私の髪が勢いよく舞い上がる。
空間が歪んで、腰までの黒いローブを羽織った長身の男が現れた。
(これが……魔王)
一瞬、本当に魔王なのかと信じられなかった。長い術式の魔王召喚は間違いないはずだったが。
夜空を閉じ込めたような漆黒の長髪。陶器のように白い肌。切れ長の赤い瞳に、鼻筋が通っている。まるで職人が丹精込めて作った石像のようだ。
「──っ」
魔王の鋭い眼光に、私は思わず息を呑む。
魔力の高い魔物は人型をとるらしい。そして、その美しさは高い魔力の象徴だと。
正真正銘の魔王だ。闇を統べる王。彼から発せられる威圧感に身震いする。
魔王はその形の良い唇を開いた。
「……願いは何だ」
「……ええと」
「忙しいところ呼び出されたんだ。さっさと言え」
ルビーの宝石のような真紅の瞳に、ギロリと睨まれた。うわ、不機嫌そう……。
召喚された魔族は、召喚主の願い──私の願いを叶えない限りは、魔界に戻ることができない。しかし、召喚主はその分の対価を支払う必要がある。これは合理的な契約だ。
一呼吸置いて、願いを口にした。
「……私と、デートをしてくれませんか」
「──は?」
「私とお花畑で、デートをしてほしいんです!」
「フン。そんなこと、俺に頼む必要があるのか。冗談を言え──」
召喚時に魔力を使い過ぎたようだ。体が重い。
話すのもやっとだ。
ぼやける視界。魔王の赤い瞳に焦点を合わせる。
貴方は呆れるかもしれない。でも、私の願いを聞いてください──。
「お願いです。私の命は長くはありません。この命と引き換えに、夢を……見せてほしいのです」
「おい、おま……」
私の意識は途切れていき、カクンと膝を付いた。
***
医者からは、この命は持って一年だろうと言われている。自分でも、残された時間はわずかだと知っていた。
だからこそ、巷で年頃の娘に人気だという、恋愛小説に憧れた。もう恋をすることは望めないけれど、せめて恋愛小説と同じ状況の、花畑のデートをしてみたかった。こんなことは誰にも頼めない。契約で縛られた魔物にしか。
目を開けると、イケメンのどアップがあった。
「──やっと、目を覚ましたな」
驚くほど綺麗な顔が、迷惑そうな顔で私を見つめている。
(そうだ。私は、魔王と契約をして……)
どうやら部屋から移動して、外のベンチで寝かされていたようだ。
頬を優しく撫でる微風が心地良くて、目を閉じて寝てしまいたくなるが、あることに気付いて上半身を起こした。
(この景色……!)
目に入ってきたのは、一面に広がる水色の花の絨毯。花の甘い香りが鼻腔をくすぐる。ネモフィラという名前だと、花図鑑で知った。そこには「薄花色」と記載があって、花といえば可愛らしい桃色のイメージなのに、どうして薄花色は水色なのかと首を捻ったものだ。
(これが薄花色……)
私は思わず、顔を綻ばせた。
「お前が見たい景色はこれでいいのか」
「そうです……綺麗なところですね」
想像以上だ。花の色がこんなに鮮やかで、匂いが可憐で、ずっと眺めていたいものだとは思わなかった。
「そうか……? 花はすぐに枯れる。こんな弱々しいものを鑑賞したいという、人間の気持ちがわからないな」
「儚いものだからこそ、美しい……なんて気持ち、魔王様にはわかりますか」
「儚いものだからこそ美しい……? 弱きものは淘汰される。これが、現実ではないか」
「確かに、花は弱々しいかもしれませんが……。毎年、同じ時期に満開になる花を見たら、元気になれませんか」
「そうか?」
首を傾げる魔王を無視して、私は震えた。こんな繊細な気持ち、絶対に伝わるわけがない。
花を愛でる気持ちは、魔族の感性には合わないのだろう。
「──もう、花の話はおしまい。契約通りに、私の願いを叶えてください」
咲き乱れる花々から、魔王に視線を移す。
一瞬、魔王の瞳が揺れた。心配されているのだろうか。
「……後悔はないのか」
「……はい。家族からは、厄介者だと思われているんです。むしろ、私がいない方が喜ばれるのかもしれない──」
急に膝の力が抜けて、バランスを崩した。倒れる……と思ったら、力強い手で肩を支えられていた。
「ここで命を散らすのは惜しいな……」
耳元に吐息混じりの美声で囁かれる。
「えっ?」
魔王は私の背中に手を回すと、ギュッと抱きしめてきた。
私は慣れない抱擁に、体を固くする。
急に触れられるなんて!
「俺が必ずあなたを守る──俺だけのお姫様」
まるで恋愛小説のワンシーンのようだ。というか、一番好きな小説でこの台詞があったような気がする。
私の頭の中を読み取ったのだろうか。魔王なら、それくらい造作もないことなのかもしれない。
「これで、満足か」
「そう……ですね」
台詞が棒読みしているのはいただけないが、姿形が整っていれば様になっているように見える。
無理な願いを叶えてくれたのだ。もう、思い残すことはないだろう。
「対価は、お前のその髪でもいいんだが──」
私は、ハッとして自分の金色の髪を押さえる。幼なじみのコンラッドが「君の髪、綺麗だね」と言ってくれたのだ。魔術にのめり込んでからは、会うことはなくなったのだけれど。
乙女の髪には魔力が宿る。
魔物との取引で使えるという理由から、長く伸ばした髪だったが、なぜか髪を差し出そうとは思わなかった。それは、どうしてだろうか。
「──なんだ。命が惜しいんじゃないか」
「えっ……」
「俺の前で、他の男のこと考えるな」
魔王は不機嫌そうに眉の間に皺を刻んだ。
人の考えが読み取れるらしい。さすが魔王だ。恐ろしい。
私の頬に魔王の冷たい手が添えられる。
「俺だけを見ろ」
「なにをっ……」
魔王の端正な顔が近づいてきて、私の口を塞いでいた。
「んんっ……」
息ができない。苦しくて逃亡を試みるが、魔王の力が強くて振り解けない。
呼吸困難で意識を飛ばしそうになった時、突然魔王は唇を離した。
肺に急激に空気が入ってきて、頭がくらりとしそうになる。
「どうだ?」
「どうだって……」
感想を求められても困る。
……ファーストキスだ。この、魔王と。恥ずかしすぎる。思い返すと、頬が熱くなってきた。
魔王は涼しげな顔をしている。この綺麗な顔の魔王様にとって、キスは手慣れたものなのだろうか。
「お前の病魔を吸い取った。体に変化はなかったか?」
「嘘でしょう……? 体が、楽になった」
羽が生えたように、体が軽い。空っぽだった魔力が戻っているようだ。
立ったままでいるのに、目眩を起こさない。平常時より、体の調子が良い。
どこまでも自分の足で歩いていけそうだ。
「病魔は魔族にとって、お菓子のようなものだ。対価はこれでいいだろう」
「あの……」
病魔を吸い取られたというのは、寿命が伸びたということなのだろうか。
たぶん、そうだ。
でも、変化が唐突すぎる。満足げな顔をしている魔王よ、もう少し説明がほしい。
「足りなかったか? ではもう一度」
「もう、いいです……」
どうやら、魔王は病魔の吸い残しがあると勘違いしたらしい。さらに顔を寄せてくる。
もう耐え切れない。
「や、やめてください!!」
魔王のキスから逃れるために、泣く泣く説明を求めるのを諦めた。
***
人生を諦めた少女の運命をねじ曲げてみたいと思ってしまった。ほんの出来事だ。
少女の病魔を喰うのに、手っ取り早いという理由で接吻した。体の一部分、例えば手を握るだけでも効果はあるが、接吻の倍以上に時間がかかってしまう。
事務的に口づけをしただけなのに、少女の顔はみるみるうちに赤くなった。
そういえば、少女持っていた恋愛小説の終盤で口づけをしている場面があった。少女の記憶を読み取って、彼女の理想に近づけようとした。契約を果たすためにも。
──俺だけのお姫様。
こんな台詞が嬉しいのか、と首を捻りたくなった。しかし、この場面を本で読んだ少女は「……尊い!」と言いながら、うっとりとした目で両頬を手で包み込んでいるではないか。
そして、物語のラストシーンでの接吻。
魔族にとっては、接吻は魔力の受け渡しに過ぎないものだったが、本の中の男女はどうして接吻をしているのだろうか。むしろ、魔力が絡まないのなら、無意味なことをしているような感じがする。
再度、口づけをしようとして少女から断固拒否されたのは、少女にとっては恥ずかしいことだったのではないか。恥ずかしいこととは……。
『魔王様、いかがなさいましたか?』
使い魔のカラスが、魔王の異変を感じ取ったようで声をかけてくる。
「いや、何でもない……」
魔王は使い魔に任務を指示する。窓から使い魔が飛び立つと、執務室が静まり返った。
「この、感情は何だ……?」
黒髪をかきむしり、手で顔を覆って嘆息した。