プロローグ 螢君と有馬女史
現実はどうしようもなく理不尽で残酷だ。好きな人は他の誰かを好いていて、好きなことと才能のあることはかけ離れていて、綺麗ごとは現実的でないからこそ綺麗なのであって、思い通りに行くことなどほとんどない。だからこそ人は物語に惹かれる。カッコいい主人公が快刀乱麻を断つ活躍をする姿に酔いしれるし、冴えない主人公が成功する姿に自己を投影する。本を読んでいる間、漫画を読んでいる間、映画を見ている間、くだらない現実のことを忘れ刺激的で魅力的な物語の世界に浸るのだ。幸せな物語を求める。
ようするにバッドエンドなどお呼びではないのだ。
少年はそんなことを考えながら机の上に投げ捨てられた本を手に取る。
その表紙には桜吹雪の舞うベンチに腰を降ろす二人の男女が水墨画タッチで描かれていた。本の片隅には控えめに池谷万理華と作者の名前が書いてある。
その名前を何度も何度も爪を立てて引っ掻く。
この本の内容を一言で言い表すとしたら無理心中の話だ。幸せな未来を描くはずだった若者が自らの手で死を選ぶまでの破滅の話。つまりはバッドエンド。ただひたすらに救いのない物語。
丁寧に緻密な描写と味の悪さが評判を呼び池谷万理華のデビュー作であるとともに代表作となった。しかし池谷万理華が華々しいデビューを飾ってから二年、世間の評価は一変していた。稀代の鬼才ともてはやされたのは既に遠い過去、今では新刊を出しても話題にすらならない。名前を出せばバッドエンドしか書けない引き出しの少ない作家だと馬鹿にされる始末である。
髪の毛が荒れ狂う大海のように乱れた天然パーマの少年、池谷 万理華は、いや本名、山狩 螢は何かを窺うように視線を目の前の女性に向ける。
「世の中の読者は爽快感のある小説を求めているの。ストレスを与えるならそれを上回るカタルシスを用意する必要があるわ」
そう語る彼女の名前は有馬 典子。螢の担当編集をしている。彼女が空間に存在しているだけで空気が引き締まる。そんな彼女を螢は畏敬の念を籠めて有馬女史と呼んでいた。
「それは分かってますよ。でもどうしても書けないんです。ハッピーエンドの物語が」
ずっとパソコンに向かい続けた結果出来上がったものは駄文の山。読み返したところで何も感じない、もはや物語の体を為していないといっても過言では無かった。
周囲の友人が高校受験も終わり束の間の自由を満喫している中、全てを投げうって何の成果も得られなかった螢の表情が死んでいるのも至極当然のことだろう。
「螢君には才能がある。緻密に張り巡らされた伏線と丁寧な心理描写、それを表現する巧みな文章力、到底中学生のものではないわ。それどころかプロの中でも上位に位置している」
有馬女史は手に持った原稿を机の上に置いた。鉄面皮を被っている彼女の表情からは何も感情が読み取ることはできない。
「でもね、螢君はまだ若いわ。チン毛も生えてない程にね」
「誰がパイパンですか。ボーボーですよ。ボーボー。何なら確認してみます?」
「自室に連れ込まれ性器を見るように強要されたと」
有馬女史は手帳を取り出してペンを動かす。
「強要じゃなくて提案です。ってしまった。提案も問題大アリだった!」
「大丈夫よ。会社には報告しないわ。揚羽に告げ口するだけよ」
「ももおもおももっと駄目です!」
螢の顔がみるみるうちに朱に染まっていく。そんな火照った顔を誤魔化すように机にうつ伏せになった。
こんなやり取りにも有馬女史は顔色一つ動かさない。
無表情で冗談を言ってくるのは本当に止めて欲しい。心臓に悪すぎる。
螢は心の中で悪態を吐いた。
「まぁ冗談はさておき、本題に入るわ」
螢は恐る恐る顔を上げて有馬女史の方を見る。彼女は勿体をつけるように一言一言丁寧に発音していく。
「彼女を作りなさい。それまでは執筆禁止」
まったく真顔で冗談を言うのは本当に止めて欲しい。本気にしたらどう責任を取ってくれるのか。
螢はやれやれと肩を竦めた。
「で、本題は何ですか?」
「だから彼女を作るまで作家活動休止しなさい」
「……本気?」「ええ本気よ」
「……正気?」「ええ正気よ」
螢は自分の頬を軽く抓った。痛みで顔がほんの少し歪む。
どうやら夢ではないようだ。
「おかしいでしょ! 少なくとも正気じゃねえよ! 今度の新規レーベルの立ち上げの一作品の話はどうするんですか? あんなに苦労して枠を確保してもらったのに!」
「編集長に頭を下げて断ったわ。」
「仕事が早すぎるでしょ」
ドテンッ。螢はあまりのショックに椅子事後ろにひっくり返った。ちかちかする視界の中向くりと起き上がる。
「どうしてですか? 納得できるように説明してください」
有馬女史は突然ブラウスの第二ボタンに右手をかけた。手慣れた様子で開けながら螢の様子を窺っている。
それに気づいて慌てて目を逸らした。フリをして眼球を必死で右下に向ける。服の間にできた隙間からは黒のブラジャーがチラリと顔を覗かせる。
意外に大人っぽいデザインの物を使っておいでで。螢の鼻の下が伸びた。
有馬女史はそのまま隙間に左手を差し込んだ。そして胸の平坦な谷間をごそごそと探り取り出したものはICレコーダーだった。
「何をしてるんですか」
思わずズッコケそうになった。
「ICレコーダーを胸の谷間から取り出しただけだけれど」
「当然のように言われても。というかしまえるほどの谷間がどこにいたたたたた」
相も変らぬポーカーフェイスのまま螢の頬を容赦なく引っ張った。
「でもまぁごく初歩的なトリックですね」
有馬女史の眉がピクリと動く。
「一見すると絶壁の谷間にICレコーダーをしまうなど不可能なトリックのように思えまイテテテテテ、探偵の謎解きの最中に邪魔する犯人とか戦隊モノの前口上の途中で攻撃してくる怪人のようなもんですよ」
「実に合理的で優秀な怪人ね。ということは逆説的に捉えると私は合理的で優秀な巨乳の美女だと。照れるわね」
「褒めてねえよ。というかサラッと要素を盛らないでください」
螢は一呼吸置くようにため息を挟むと話を続ける。
「さて、このトリックは実に初歩的なものなのです。唐突にブラウスのボタンを開けるという突飛な行動で俺の視線を胸元に釘付けにしている間に、逆の手でポケットかポケットからICレコーダーを取り出し、服の袖に滑り込ませる。その手を胸元に突っ込み、服の袖口からICレコーダーを取り出すことで、あたかも最初から胸の谷間にしまっていたように見せかけたというわけです。」
螢はビシッと人差し指を突きつける。その姿はさながら物語に登場する名探偵のようであった。
「その、ごめんね。ドヤ顔で名推理しているところ悪いのだけれど普通にブラジャーと胸の間に仕込んでいただけなの」
滅多なことでは表情を変えない有馬女史が申し訳なさそうな顔をして謝る。
「何で今日に限ってちょっと袖口の広いシャツ着てるんですか! そんなの詐欺でしょ。大体そんなぺったんこのブラにICレコーダー隠す空洞とか普通に……ありますよねぇ。俺とか付けたらスッカスカですもイテテテテ」
「余計なことを言う口はここかしら?」
螢の口が左右に引き伸ばされる。
口元の皮膚、伸びてきてないよな。将来、ブルドックのような顔になっている姿を想像して身震いしたのだった。
「で、何を聞かせようと?」
有馬女史は無言で再生ボタンを押した。
『束の間の幸せに酔いしれな。残念でしたぁあああここから先は地獄への片道切符でえええす。もがけ喘げ苦しめ、貴様らに幸せな未来は一生訪れねえよ。ざまあみろ。ぜってええ許さねええええ。リア充爆発しろリア充爆ぜろしねええええええええ』
一体誰だ。こんな醜い言葉を並べている奴は。逆恨みにもほどがあるというかただの嫉妬というか妬みすぎだろ。これも現代社会が生んだ悲しきモンスターというわけだ。もしかすると新手のASMRなのかもしれない。有馬女史が風呂上りにソファでくつろぎながらこの音声を聞いて安らいでいる姿を想像する。意外と似合っているな。
「何を自分は無関係みたいな顔してるの? これ、執筆中の螢君の様子を録音したものよ」
現実を逃避していた螢に無慈悲な一言が突きつけられる。
「現実を受け入れなさい」
再びICレコーダーのスイッチが入れられる。音声が流れ出す。
こうして聞いてみると意外とイケボ……内容が酷すぎるっ。
「俺、こんなこと言ってないですよ。流石に! 記憶にございません」
「こっちはここ最近のハッピーエンドを書こうとしている螢君よ」
『死ぬゥ。俺はもう死ぬしかねぇ。こんなこんな幸せな奴を隠し書くなんて俺にはねえ。俺はクズでゴミなミジンコ以下の存在だ。もうダメ。死ぬぅ。いっそ殺してくれ! 介錯たのむぅ……。あ、駄目だな。ぜんっぜん面白くならねえ』
何とも情けない声が流れ出す。
何だろ。俺って二重人格、いや、三重人格の可能性も。
「理解していただけたかしら? 精神病棟に入れられるのと彼女を作ってリア充になるのとどちらをお望み?」
「でも」
「でももだってもないわ。今はまだバッドエンドしか書けないといっても評価してくれている人も少なからずいるわ。でもこのままだと近い将来池谷万理華は読者から見捨てられる。螢君が作家として生きていきたいのなら彼女を作ってリア充になるしかないの」
有馬女史は淡々と事務手続きを進めるような口調で話した。螢は反論になる言葉を紡ごうと口をパクパクさせていたが、そんな言葉はどこからも湧き出てこなかった。
自ら認めてしまっているのだ。自分の心の奥底に醜悪な感情が堆積しているということを。それを原動力にして小説を書いているということを。
「ちなみに螢君、今誰が好きなの?」
身体がピキッと音を立てて凍り付く。ぎこちない動きで有馬女史からの追求から逃げるように顔を背ける。
「いないですけど。っていうか何でいる前提なんですか!」
「普通彼女がいないくらいでそこまで精神的に病んだりしないわ」
「病んでるはいいす、ちょっとレコーダーのボタン押さないでください」
有馬女史は作り物のような笑みを浮かべてICレコーダーを胸にしまう。ヒューストンと音を立てて何かが床に転がった。
「さてと、話を戻すけれど」
何事もなかったように押し通すつもりなのかよ。
螢はブルドックにされてはたまらないと喉元まで出かかった声を何とか押し戻した。
「螢君の好きな人はどの揚羽かな?」
ドスンッ。床板を踏み抜くような勢いで足踏みする。たまたま偶然、足を落とした位置がICレコーダーの真上だっただけである。もっとも有馬女史が澱みのない流水の如き足さばきでICレコーダーを弾き飛ばしていたのだが。
「一体何のことでしょうか?」
「目が泳いでいるわよ。まぁ、違うというのならいいのだけれど」
有馬女史は螢の眼を真っ直ぐに見つめる。その透き通った瞳は心の隅々まで見透しているかのようだった。
螢は耐え切れず視線を右往左往させた。そして罪を告白する犯罪者のようにポツリと語り始める。
「俺だって諦められるものなら諦めたいですよ。でもいくら言葉で言い聞かせても、頭の中で理屈を並べても、心の奥底では納得できないんです」
「よりによって揚羽とは……。ホント救われないわね」
黒野 揚羽、彼女は螢のお隣のお姉さんであり初恋の人だった。それが偶々兄にとっての幼馴染であり、彼女であり、つい最近婚約者になった。また有馬女史の大学時代の親友でもある。誰もが羨む緩急に富んだ身体つき、誰もが目を見張るような美しい顔立ち、揚羽姉さんが場に存在するだけで空気が澄んでいく心地がする。いつも屈託のない笑顔を浮かべ周囲を明るく照らす姿はまさに生きた清涼剤だった。
あの太陽のような笑顔を想像するだけで心臓を鋭利な刃物で刺されたような痛みが襲う。
「ちなみにどんなところが好きなの?」
「恩人なんです。もし揚羽姉さんがいなかったら、グレて不良になってるか死んでますから。むしろ惚れるなという方が無理な話ですよ」
有馬女史が暖かな笑みを浮かべる。
表情筋、まだ生きてたのか。とっくのとうに絶滅したと思っていた。
「いつから好きだったの?」
「小学生の頃ですかね」
「同級生とか好きになったことは?」
「ないですね。揚羽姉さんと比べたらクラスの女子なんてジャガイモにしか見えませんよ」
有馬女史が右手で額を押さえ軽く左右に首を振った。
「想像以上に重症かもしれないわね……」
有馬女史は人差し指を突きつける。
「これだけは言っておくわ。望みは捨てなさい。螢君が揚羽と付き合える可能性は万に一つ、いえ、億に一つ、いや、無量大数に一つもないわ」
「分かってますよ。そんなことくらい」
そもそも揚羽姉さんと兄貴は既に婚約までしており、挙式の段取りを進めている真っ最中だ。俺が奪うなんてのはもってのほかであるし、万が一、それこそ無量大数が一、二人が破局したとしても、揚羽姉さんが俺を選ぶことはないだろう。気まずすぎるし。仮に兄貴が死んだとしても揚羽さんなら独身のまま殉ずるかもしれない。というかそうするに決まっている。つまりは詰んでいるのだ。それでも可能性を上げろというのなら二人が事故に巻き込まれて兄貴が死に揚羽姉さんが記憶喪失になる。
そんな不謹慎なことを想像するな。俺は揚羽姉さんが幸せになってくれるならそれでいい。
螢はこれまで幾度となくしてきたように自分に言い聞かせる。
「本当に分かってる?」
分かってる。頭では分かってるが心が分かってくれない。どうしようもないのだ。普通失恋をしたら距離を取るなり関わらなくなれば時間が解決するだろう。でも俺の場合は違う。揚羽姉さんが兄貴と付き合っている以上、これから先一生関係性は続いていく。それに……。
螢はその心の内にだんだんとフラストレーションを溜めていく。そしてついに臨界点に達した。
「家隣だし兄貴と婚約しているわけだから頻繁に家に来ることはまあ納得できます。ウチの親の代わりに家事とか色々手伝ってくれているのは本当にありがたいです」
一度喋り始めたら自分でも驚くくらい口がツルツル回る。心の堤防が決壊したかのようにこれまで秘め続けてきた想いが口から飛び出す。
「でも、でも! 揚羽さんが自分の服をウチの洗濯ものと一緒に洗ってリビングに部屋干しするのはどうなんですか! せめて下着くらいは隠して欲しくないですか! 後、普通にウチの風呂に入るのも色々と問題があると思いますし風呂上りにパンツにTシャツで家をうろつくのも問題がありまくりでしょ! こんなの生殺しですよ。思春期の健全な男子を何だと思ってるんですか!」
「螢君、そのくらいにした方が良いわよ」
「諦めろ? 諦められるわけないですよ。忘れろ? 忘れられるわけないですよ。好きな人があんな姿で家を徘徊していたらムラムラするに決まってるじゃないですか!」
「螢君、回れ右」
虎視眈々と獲物を狙う蛇のような有馬女史の眼が今だけは憐憫に満ちたものになっていた。
まさか……。後ろに揚羽姉さんが立っているとか。もう仕事が終わって帰ってきてもおかしくはない時間帯。玄関を見れば有馬女史が来ていることはすぐわかるだろうし、そうなればお茶とお菓子を持って部屋を訪れるのは間違いない。今日から俺、どんな顔をして揚羽姉さんと話せばいいんだ。そりゃ、今の生活も辛い面はあるけど、それ以上に揚羽姉さんと距離ができるのは嫌だ。絶対に。
イヤな想像が走馬燈のように螢の頭の中を駆け巡る。
恐る恐る、ホラー映画のヒロインのようにゆっくりと振り返る。視界に入ってきたのは開け放たれたドアにケーキとコーヒーが二つずつ乗ったトレー。そしてスーツを着ている女性。
「いや、母さんかよ。そこは揚羽姉さんが立つところだろ」
絶叫とも安堵とも取れる微妙なツッコミが部屋に轟いたのだった。




