3.死の理由
【元気出しなよー】
懐かしの体育座りですっかり凹んだ俺を、最初の選択肢だとか入り口だとかいう文字が慰める。
【時々いるんだよね。死んだこと知らないままここに来ちゃうやつ。こっちにも上がれず此岸でウロウロしてる霊魂に比べりゃマシだけどさー。ショックだよねー。分かるよー】
声ではなく文字で会話するこいつは、聞くところによると実体のない存在らしい。
死者は生前の罪に応じて業と呼ばれる仕事を割り振られる場合もあるそうで、文字の役割はRPGでいうところのリード文のようなものだと言う。
死者のデータ登録、この世界の基本的なガイド、要所での選択肢を示す役割を担っているそうだ。
つまり文字も文字になる前は人だったわけで、それ故実体に伴う性別がなくなった今でも本人の自覚は生前と同じ、男性性にあるようだった。
「あーっ」
わーっ、に近い叫び声を上げて、仰向けにひっくり返る。
実感はないので、あくまで「つもり」だが。
「そっかー……死んじゃったのかー、俺」
何でだろう。
病気だった記憶もないし、死ぬような目に遭った覚えもない。
いつも通りバイト先のコンビニに向かって……て、そうだ。死ぬほど就活して運良く新卒で入った物流会社は、二ヶ月と三週間で辞めたんだった。
新人に対する、いきなり何でもできるだろうという謎の期待、無茶振り、できないことへの叱責と蔑み。YESだけが求められる冗長な会議。効率より残業の長さでやる気を測られる社風。管理のできない管理職は、罵倒することが仕事だと信じていたっけ。
ここで生き残るなら人間やめないとなー。それは嫌だなあ、と思って風邪をひいたはずみで辞表を出した。
辞めたはいいけど、生きているだけで税金を取られるような社会なので、実家を離れて暮らす身としては日銭を稼がなくてはならない。
ひとまず手近なコンビニでバイトしながら次の就職先をものすごく消極的に探していた、そんな矢先だ。
【突然死じゃないの。事故とかさー。一瞬のことだったり、ショックが強いと忘れちゃうってパターン、聞いたことがあるよ】
完全にタメ口、だべり口調になった文字が指摘する。
「事故ねー。事故かー」
最後の記憶はバイト先であるコンビニ前の坂道を自転車でひーこら登っていた時のものだ。
夕日がやたらと眩しくて、まとわりつく蒸し暑い空気が重たくて、汗だくになりながらペダルを漕いでいたのを覚えている。
坂の上からはランドセルを背負った幼い小学生の女の子が二人、楽しそうに何か喋りながらこちらに向かって来ていた。
「そのぬいぐるみなあに?」とポニーテールの女の子がもう一人の子に尋ねる。
問われた方の女の子のランドセルには、ストラップにしてはでかすぎの、小汚い、おそらく男の子の人形と思われるぬいぐるみが揺れていた。
「これ?」とぶら下がるぬいぐるみを覗き込むようにして、ツインテールの女の子が愛嬌のある瞳を細めて笑う。
ランドセルを前に抱え直して丁寧な仕草でぬいぐるみを取り外すと、女の子がスタラップ紐の端をつまんでぬいぐるみを目の高さに掲げた。
「これはねえ、ずうっと前、弟と喧嘩して、『お姉ちゃんでしょ!』って怒られた時、『あたしだってお兄ちゃんやお姉ちゃんがほしかった! 好きでおねえちゃんやってるんじゃないもん!』って泣いたことがあって。その後ママが作ってくれたものなんだー」
「……ちゃんのうち、兄弟多いもんね」
「下にばっかり三人も。あたしだって一回くらい妹やりたかったよ。でも先に生まれた子にはお兄ちゃんは作ってあげられないから、これで我慢してって、ママが。ぬいぐるみなのにね」
くつくつ笑って、ツインテールの女の子が弾むような声で続ける。
「でも、ボタンも付けられない、給食袋も雑巾も縫えない超不器用なママが、あたしのために一生懸命作ってくれたんだなって思ったらなんか嬉しくて。それからずっと、大事にしてるのー」
「へえ。いいなあ」
他愛ないやり取りにきゃっきゃとはしゃぐその二人を、俺はなんとはなしに視界の端に捉えていた。
動きが唐突な小学生くらいのチビっ子というのは、自転車族からしたら最重要警戒対象だ。
しっかり目が合っていても何故か寄ってきたり、フリーズしたり、横に謎のスライドをしてきたりと、俊敏な分同じく動きの読めないシルバー達より危なっかしい。
ちょうど向こうから大型のトラックが迫っていたこともあり、俺はスピードを落としながら彼女達とどうすれ違うか思案していた。
一車線の車道は車道同士がすれ違える程広い道幅ではなかったが、トラックが一台、自転車と子どもをやり過ごす程度には十分な余裕がある。
なのに。
トラックの前に飛び出したのは少女達の方だった。
「あ……っ! そうだ!」
思い出した。
がば、と体を起こして、俺は最後の記憶を必死で追った。
見せて見せてとじゃれ合ううちに、女の子の指先から弾かれたぬいぐるみ。坂道を転がるそれを追いかけて、ツインテールが車道に踏み込み、ポニーテルも後に続いた。
その一瞬は、何十倍にも引き伸ばされて俺の記憶に焼き付けられている。
顔を引きつらせて驚愕するトラックの運転手。固まる少女達。
直前で切られたハンドルは、一旦はトラックの鼻先を彼女達から引き離し、危機を回避したかに見えた。が、急激に変えられた方向転換の反動で、荷台が真横になって振り子のように勢いよく彼女達に襲い掛かったのだ。
危ない!
そう思った時には、もう体が動いていた。
自転車をかなぐり捨てて少女達に駆け寄る。
ポニーテールを歩道に突き飛ばし、ツインテールに手を伸ばした。
女の子には、手が届いたと思う。
だけどそれからどうなったのか。
どん、という大きな音以外は、痛みも衝撃も何も感じず、気がついたらこの暗闇の中、というわけだ。
「あー……そっかー。あれかあー」
半信半疑の状況も、思い出してみれば納得できる。
つまり俺はトラックに轢かれて死んだのだ。
【何、何か思い当たることでもあった?】
文字の問いかけに、おれは「まあ」、と頷いた。
「轢かれそうになった女の子助けようとして、うっかり俺が轢かれたみたいだ」
【は――――……】
何ともコメントしづらいのだろう。微妙な長さの罫線と三点リーダを打ち込んだ後、文字はそのまま沈黙した。
「あの子、どうなったかな」
うまく車道から弾き出してやれてればいいけどな。と、再び暗闇の中に寝そべりながら俺は独り言ちた。