28.昇華
突き動かされるように歩き出すと、俺はドベの正面に回り込んだ。
大きく息を吸って肺に空気を入れる。呑み込まれそうになる切なさを振り切って、俺は腹の底から声を出した。
「ドベええええっ!」
【んぎゃあああああっ! ほんとにやったあああああ!】
脳内で文字が絶叫する。ドベの体がピタリと止まった。
ゆっくりとドベが顔を上げる。
顔を上げた先に俺の姿を認めて、ドベの黄金色の瞳が大きく見開かれた。
絶対的な強者の前に身が竦むのは、もはや生理現象だ。せり上がろうとする恐怖をねじ伏せて、俺はドベに歩み寄った。
「ゆとり! 近づきすぎだ!」
【あばばばばばばばば(○︎Д○︎;)】
背後で焔が警告の声を上げる。文字は妙な絵文字を使って恐怖を訴えていた。
だけどやらなきゃ。俺がやらなきゃ、こいつはまた悠久の時間にたったひとり、見つけてもらえない隠れ鬼を続けることになる。
そんなのは、あんまりだ。
山のように大きなドベの傍らに立つと、俺は膝を抱える大きな手に向かって背伸びをした。
五指の中で一番低い位置にある小指。その先にそっと触れると、象のように硬い皮膚の内側から人の温もりを感じた。
「ドベ」
大きな猫目を下から見上げて、宣言する。
「見つけたぞ。俺の勝ちだ」
そして笑う。記憶の中のあんちゃんのように。いや、ドベが望んだあんちゃんの笑顔で。
「あ あ」
途端にドベの顔が輝いた。これ以上ないというくらい破顔して、キラキラした目で俺を見下ろす。
「あ ん ちゃ」
ぶわあ、と押し寄せる歓喜の熱風が俺を打つ。
感情の強さをを物理で感じて、俺はとっさに両足を踏ん張った。
子どものようなあどけない顔で、ともすると泣き出しそうな顔で、ドベが笑う。
「み つ か っ ちゃ っ た」
――みつかっちゃった。みつかっちゃった。あんちゃんにつかまった。
喜びとともにドベの心の声が俺の意識になだれ込む。
「うん、うん。捕まえたぞ」
たまらなくなって、俺はドベの小指を両腕で抱きしめた。
人と同じ体温の赤い皮膚に額をつけて、ドベに言う。
「だからもう、遊びは終わりだ」
隠れ鬼は、もうお終い。
分かるな、と顔を上げると、ドベがニコニコ笑って頷いた。
「お わ り」
――おわり。あそびはおわり。あんちゃんがきたから、もうおしまい。
次の瞬間、ドベの赤い肌が光輝き、泡立つように輪郭を崩し始めた。
「えっ、なんだこれ! おいドベ! どうした!」
【何これ! なんなのこの光⁉︎】
まるで大きな蛍が無数に生まれては天に昇っていくようだ。
びっくりして、怖くなって、俺は必死にドベからその光を払いのけようとした。
なのに、払っても、払っても、光はドベから離れない。むしろどんどん増えていって、ドベを飲み込んでいくようだ。
「ゆとり!」
がむしゃらに光に分け入ろうとする俺の肩を、誰かが強く掴んだ。
振り返ると、嗜めるような黒い瞳が俺を引き止めている。焔だ。
「落ち着け。大丈夫。これは昇華だ。こいつは魂の拘りから解放されて、輪廻の理に還る。六道に生まれ変わるんだ」
魂の拘りから解放されて。その言葉に、そうか、と俺は納得する。
あんちゃんを待っていたドベは、望むものを得て拘りを手放したのだ。
酷いことになるわけじゃないと知って、俺はほっとした。
「そっかお前、新しく生まれ変わるのか……」
ニコニコ笑ったままのドベが俺を見ている。こんなにでかいのに、小さな子どものようだ。人肌の温もりを持つ光に手を添えて、俺はドベを見上げた。
「それなら今度は寂しくない場所に生まれるといいな」
人でも獣でも、何でもいい。家族に愛されて、友達をたくさん作って、あったかい場所で幸せに生きてくれ。
口をついた願いを、ドベが目を細めて聞いていた。
――あんちゃん。
光に埋もれながら、ドベが言う。
――あんちゃん。たのしかったね。
「俺はちょっと怖かったけどな」
苦笑して返すと、ドベが笑った。
――あんちゃん。あんちゃん。
「さ よ な ら」
上空に吹き飛ばされる瞬間、確かにそう言って、ドベは俺の目の前から姿を消した。
光が消える。触れていた温もりが失われる。
全てが元の薄闇に戻ってから、俺は言葉もなくその場に膝をつくとうずくまって泣いた。
どうしようもない喪失感と切なさに、涙が後から後から止まらなかった。
ドベの心に寄り添いすぎだ。
呆れたようにそう言った焔が俺の背中をさすってくれる。
どうか、次の人生は幸せに。
生まれてこの方一度も本気で縋ったことのない神仏に向かって、俺は初めて願いをかけた。