16.定時!
ふうっと気が遠くなる俺。その頭上を弾丸みたいなスピードで人影が飛び越した。
ギイン、とものすごい音が空気を震わせる。
びっくりして目を見開くと、俺に迫っていた人参の片腕が弾き飛ばされたように上空に向かってバンザイさせられていた。
慣性の法則で、人参の体が後方に向かってドオン、と倒れる。
払ったのは焔だ。
黒の晴れ着が空を舞い、薙ぎ払った直後の刀鞘が黒々と輝いていた。
向けられた背中は激しく上下していて、全力で走って来たことが見て取れる。
戻ってきたのか。俺のために。
「焔!」
俺の呼びかけに応える間もなく、摑みかかってきたピーマンの両手を焔が直刀で受け止める。
刀を挟んで力比べとなってしまった戦況は小柄な焔には不利だった。
体格差のある相手に上方から力を加えられて、焔の姿勢が低くなる。あのままでは押し込まれてしまう。
必死になって駆け寄ると、俺は焔の背後から一緒になって刀を支えた。
うお……! 重い……っ!
顔を真っ赤にして刀を押し上げていると、焔がちらりと俺を見上げた。
不可解。と言わんばかりの眼差しを投げて、すぐさま視線を鬼に戻す。
何だ! 何が言いたいんだ!
問い質したいが、口をきく余力は残ってないし、視界の端では人参が参戦しようと起き上がる様を捉えていた。
【あああああ……死ぬう……死ぬう……死んでしまうう】
脳内で文字がしくしく嘆いているが、俺もそう思う! 助かる気がしない!
死んだらごめん、と心の中で文字に誤っていると、こちらを見ないまま焔が言った。
「踏ん張れ! 後少し持ち堪えられれば助かる!」
「ぐぎぎぎ」
後少しってどれくらい⁉︎ とか、どうやって助かるの⁉︎ とか、聞きたいことはたくさんあるが、口から漏れるのはうめき声ばかりで言葉にはならなかった。
ピーマンの肩口から復活してきた人参がのっそり顔を出す。
「おれもいるよおおお」
いいよ、お前は!
そう思った瞬間、ふぁんふぁーんと気の抜けた音が荒野中に響き渡った。聞き覚えのあるメロディは「七つの子」か。その途端、
「はい。終了、終了」
「おつかれしたー」
唐突に直刀にかかる重圧が失われて、俺と焔は弾みでその場に転げた(正確にはよろけた俺に焔が巻き込まれた)。
何事かと顔を上げると、すっかりこちらに興味を失ったらしい人参とピーマンが肩を並べて去っていく。
「え、何、何。どうしたの?」
【あ、そっか。五時だ。助かったぁ……】
なにやら納得しているらしい文字だが、俺にはさっぱり状況が分からない。
俺の下から這い出した焔が、不機嫌そうに土埃を払いながら説明した。
「五時は奴ら獄卒達の定時だからな。勤務時間が終了したから帰るんだ。第一法廷までの行程では日勤の獄卒しか出ないから、夜の間は鬼に追われることはなくなる」
「いやいや勤務って何? 帰るってどこに?」
「各々与えられている棲家。社宅みたいなものだな」
「社宅!」
お仕事感満載の説明に俺の頭は混乱する。
え? え? 鬼って職種なの?
常識、というか思い込みを覆されてぐるぐるしている俺を流し目で見ると、焔が「本当に何も知らないんだな」と肩を竦めた。
「死者の魂は各法廷の判断をもって六道に転生するのが基本だが、まれにこの循環に当てはまらないもの達が出る。この冥界を維持しているのは、そういう魂達だ」
青く輝く地平線を眺めながら焔が言う。
あの輝く地平線の色の変化は、もしかして昼夜のないこの世界で唯一、時を知らせるものなのかもしれない。
そもそも、と焔が先を続けた。
「死後四十九日もかけて各法廷を巡るこの行程は、死者を生前のしがらみや拘りから解き放ってまっさらな状態に戻すためのものだ。罪、とは魂の拘りに形を与えて払うためのもので、償いとはそれを必要とする魂のためのもの。因果応報だけが理由ではない」
焔によれば、この悪趣味な世界は魂を救済するための装置だそうだ。
話を聞きながら、俺は汚れた洗濯物を洗う洗濯機を思い浮かべた。
「だが時々、この過程で魂のしがらみを落とせないものが出てくる。彼らは生前に忘れられない拘りを持っていて、どうしてもそれを手放すことができずに、次の輪廻を迎えられない。冥界はそういう魂達に役割を与え、使役と引き換えに居場所を与えているんだ」
例えば、と焔が鬼達の去っていた方向を見やって言う。
「この範囲にいる獄卒……鬼達は、視界に入った人間を追いかけて苛む、もしくは殺すという役割を与えられている。初心者ばかりが集まる場所だから、視界から消えたらそれ以上は追わない、という制限がかかっているけどな。役割に課せられた仕事は業と呼び、業を背負うもの達はいつ終わるともしれない仕事を毎日延々繰り返している」
「何だか可哀想だ」
眉を下げる俺をじっと見つめて、それから焔が「そうでもないさ」と首を振った。
「役割があることは救いだ。やることもなく彷徨い続けるなんて、それこそ地獄だ」
まるでその地獄を知っているかのような焔の言葉に、俺はそれ以上異を唱えられなかった。