14.名前は魂を縛る最初の呪
名前を聞かれたのだと分かって、俺は答える。
「俺は――だよ。――。あれ?」
当然のごとく出てくるはずの音が発音できない。……違う。名乗るべき名前が分からないのだ。
「え、ちょっと待って。ええと、おかしいな」
名前が出てこないなんて、そんなはずない。
落ち着け、落ち着け、と自分をなだめつつ、俺は必死に記憶を辿った。
俺には両親がいて、ばあちゃんがいて。母の名前は静美。口うるさくて全然静かじゃない静美だ。
父は俊夫。兄である叔父と年子で生まれたので「歳男」でいいだろ、と父であるじいちゃんが適当に名付けた名前を、音だけ残してばあちゃんがいい感じに漢字を当てたらしい。父方の両親は、随分前に二人とも亡くなっている。
ばあちゃんは、ミツコ。確か、光子って書いたはずだ。
俺の名前は、この光子ばあちゃんがつけてくれたもので、だから、だから……。
「落ち着け」
肩に控えめな体温が乗るのを感じて、俺は顔を上げた。
見ると焔が俺の肩に片手を添えて、低い位置から俺を覗き込んでいる。
どっと汗が吹き出すような不安を抱えて、俺は縋るように目の前の少年を見つめた。
「何もおかしいことはない。魂はまず、死ぬと一番初めに自分を縛る名前から解放されるんだ。六道に生まれ変わる前に、一度魂をまっさらにするためだ。お前が名前を思い出せないのは、お前を象る一番最初のものが外れたからで、悪いことじゃない」
「で、でも、焔もアニも名前を覚えてただろ」
俺の問いに、背後のアニが答える。
「俺も名前は覚えていなかったよ。アニっていうのは君が聞いたから、とっさに考えた名前だ」
アニの言葉に焔も頷く。
思わぬ告白に、俺は二人を見比べた。
名前は魂を縛る一番最初のもの。忘れてしまうのはその縛りから解放されること。
だけど。そうだとしても。
「……大事なものだったはずだ」
ばあちゃんのしわくちゃの顔が脳裏に過る。お前の名前は私がつけたんだよ、と教えてもらった時の嬉しそうな目尻を思い出す。
ばあちゃん、ごめんね。ばあちゃんがつけてくれた大事な名前、俺どこかに落っことしてきちゃったみたいだ。
悲しくなって俯いた俺に、「そうだな」と軽く同意して、焔が励ますように軽く俺の肩を叩いて離れた。
【そんなしょんぼりすんなよー。元気出しなって。名前なんか別に必要ないだろ。どうしても欲しいなら自分でつけたらいいしさ】
「名前が欲しいなら自分でつければいいよ」
文字と同じタイミングで、アニが俺に提案する。
「道連れなのに君を呼べないのは確かに不便だし、なんなら今考えよう」
【そうだ、そうだ。名前つけよう!】
え。名前ってそんな簡単につけたり外したりするものだっけ。
戸惑いつつも俺は頭を巡らせた。
「そんなこといっても、急につけたい名前なんて思いつかないしなぁ」
むむ、と悩む俺に向かって、便宜上のものでいいんだよ、とアニが笑う。
「とりあえず他の人と区別できればいいんだから。ヘタレ、とか、軟弱、とか、もやし、とか、何でもありだよ」
「おいコラ! どさくさに紛れてディスってるな、それ!」
「危機感ゼロ、やる気ゼロ、忍耐ゼロ」
「焔もやめろっ! 泣くぞ、俺」
【ゆとり、とかでもいーんじゃない。ゆとり世代ど真ん中の典型的なゆとり人種】
「ゆとり人種ってあのなあ」
あ、やばい。
流れでつい声に出して突っ込んでしまったが、文字の言葉は他の二人には見えないんだった。
慌てて口を噤むが時すでに遅し。俺を挟んで二人分の視線が突き刺さっていた。
「あー……えっと」
何と言って誤魔化そうかと頭を掻いていると、アニが「そうか!」と手を打った。
「君、ゆとり世代か! どうりでなかなか覇気がない!」
「な、何だよ! 確かにゆとり世代だけど! 関係ないだろ世代は!」
【いーや。おれ聞いたことあるもん。ゆとり世代の死者は道中導くの大変だって。すぐへこたれるし諦めるし傷つきやすいって。競争心とやる気に乏しくて励ましがいがないのに気を使うって】
俺が言い返せないのをいいことに言いたい放題の文字。くそー、覚えてろよ。
「ゆとりを一括りにするなよ。がんばってるやつだっているだろー」
「がんばってないやつに言われてもねぇ」
「ぐ……!」
ぐうの音も出ないとはこのことだ。
世代で言うならアニだって焔だって同じようなものだろうに、何だって俺ばっかり虐げられるのだ。いやでも片や世界に順応し、片やめちゃくそ強くて戦える、となれば言い返す言葉はない。
立ち止まって話し込む形になっていた俺とアニを促すように、焔がこちらを振り返った。
「話は済んだか。それじゃさくさく行くぞ、ゆとり」
「頑張って歩こうね、ゆとり」
【そうだぞ、ゆとり】
「うううう」
すっかり「ゆとり」が定着した一行の中で、俺は肩を落としながらとぼとぼ歩き出した。