第一話
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「兄さん、兄さんったら」
朝、まだ日が昇りきっていない時間。悠莉はベッドの上で爆睡している兄、京助を揺すっていた。
先ほどから、何度も左右にぶんぶん揺らしているのだが、京助は全く動じず、寝言の一つすら漏らさない。
「もう、兄さんー!」
このままじゃ一向に起きそうもないので、悠莉は京助の頬に平手打ちをかます。広さ四畳半の小さな部屋にバシん、と遠慮ない音が響きわたり、そこまでしてやっと京助が重い瞼を本当に重りでも入っているんじゃないかと思うくらいゆっくり開ける。
「んー? ああ、悠か、驚かせるなよ。 痛いじゃないか」
目を開いた京助は瞳のど真ん中に映る悠莉を見ると、気だるげに文句を言う。
「ぶー、兄さんが早く起きないからでしょ! もう、毎日毎日こんな事をしなきゃいけない私の身も考えてよ!」
せっかく起こしたのに文句を言われたのが気に障ったのか、悠莉は頬を膨らませてそっぽを向いてしまう。
あぁー、またこの展開か。
いつも起こしてくれることには感謝しながらも、京助は毎日変わらず不機嫌になる妹に少しうんざりする。
元はと言えば自分が悪いのだが、頬をひっぱたくのは止めろと何度言ってもやり続ける悠も悠で悪いとは思う。自分を棚に上げていうと、我が妹ながら少し傲慢だ。
こんなこともあり、今日も朝から気分は乗らない。
いや、この展開だけがこの自分のさびれた気分の原因ではないのかもしれない。
繰り返される日常、特に何も起きない生活。人生16年しか生きていないのにおこがましいが、僕はこの人生がつまらない。
いっそ遠い何処かへ飛んで行きたいとさえ思うが……。
『悠莉のことは、任せるね』
脳裏に焼き付いた言葉が、そんなことは許さない。
俺には悠がいる。
少しうざい妹ではあるが、俺が守ってやらなければ。
その思いだけは、絶対に譲れなかった。
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「悠ー! 準備は出来たかー?」
京助は、二階の自室で学校に行く準備を整えているはずの悠莉に、一階の玄関から声をかける。
「あ、兄さんちょっと待って」
「早くしないと間に合わないぞ」
京助は少なくとも後5分程は待つことになるだろうと思い、玄関前の床にどかんと座った。
着ている物は私服。半袖半ズボン。制服でもスーツでもない。その上寝癖も直しておらず、髪が所々変な方向に飛び出ている。
今日も全速力で走らないと間に合わないな。
京助は後でへとへとになる自分の姿を想像し、苦い顔をする。
悠莉が通っている学校は徒歩20分程度の所にある近くの公立中学校だ。勿論共学、登校時はいつも兄に自転車で送ってもらっている。
前に京助が友達と歩いて言ったらどうだ、と言ったこともあるが、悠莉曰く、何で便利な登校手段があるのにわざわざ歩かなきゃいけないの? だそうだ。
その時の京助の顔といったら、驚きと呆れが混じった変な顔だった。
こういうことがあるのだから、京助の悠莉は傲慢だという考えはあながち間違いではないかもしれない。
しばらくすると、悠莉がドタバタと忙しげに階段を降りてくる。正確に言うと、あれから20分後だ。
「兄さん、急がないと間に合わないよーー!」
「おい悠、パンツ見えてるぞ」
スカートをヒラヒラとはためかせ、まるでパンツをわざと見せてるかと勘違いするような登場に京助は眠そうな顔でツッコむ。
「え、パンツ!? あぁ、まぁいいや」
京助が悠莉を送って行く理由はこういうずぼらさが心配だからだ。
「後、準備に時間かけすぎだよ、何してるんだよ」
「女の子には色々あるの、ほら愚痴愚痴言ってないで行った行った! 間に合わなかったらどうするの」
間に合わなかったらお前のせいでもある──その言葉は飲み込んで、悠に押されながら外に出る。
待ち構えていたのは丁度日の出、そして暑さ。
今は夏なので朝でも十分暑い。
暑さには困ったものだ、そう重いながらも京助は自転車に悠莉を乗せて、学校へと走り始めるのだった。
その時の京助は、今日この後起こることを想像などしなかっただろう。いや、言われても信じないと言った方が正しい。
これから起こることは、想像の上を行く物語なのだから……。