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第5話 「松山」

 松山のまちは、とにかく広い。それが私の見解だ。四方八方に家屋がひしめき合い、石鎚山まで未開の地を見出せない。岸辺には大小多様の舟が泊まり、渡っている。四方に張り巡らされた運河の河岸には漆喰塗りの蔵が立ち並び、万物を収納できるのではないかと思わせるほどの米や商品作物、金銀財宝で充満している。堺でも左様な光景は見かけられたけれども、やはり首府には劣る。というより、流石首府といえよう。河野氏は二〇〇年以上、この国を事実上支配していたとのことだが、そのことによって、この本州からは隔絶された辺境の孤島に所在する一寒村は、辺境から中央となり、日本一の大都市にまでなったのだ。


 以上のごとき躍進は天下人である河野氏のお膝元という事情ゆえにそこまで違和感を覚えないが、驚くべきは、松山の近代性である。封建の旗をはためかせ、固陋な関白制をとるにしては、体制とそぐわない建造物や物品を察するのだ。銀行洋宿の類もあって、街道には電燈が林立している。松山城まで途切れることなく続く大路は、往来激しく、人馬の滞ることはない。文政年間に西洋と和親して各地の港を開いて以来、太平洋・支那海の交通ますます盛んで、殊にこの松山は東洋一の繁華を誇るとのことである。慶三に堺では洋人・洋館のごときものなし、これはいかんと、と問えば、

「堺はあくまで畿内の集散地でありまして、南蛮との交渉は禁制となっておるのです」

という。はて、それは奇妙なことで、堺は南蛮趣味の盛んなところであったはずだ。だが、慶三に仔細を尋ねると、どうも南蛮貿易が許されているのはこの松山と博多を除けば二、三の港市に限られるとのことである。利権の臭いが漂うよう。山吹色の菓子でも渡そうか。


 城のふもとには学問所があり、「松山官立大學」と額が掲げられている。権兵衛いわく、通家が中央進出する以前にできたということで、おおよそ二五〇年ほどの歴史があるとのことで、彼の死後には漸次拡張され、法政科・文芸科・理科・医科の大学部と応用的・実際的な技術者を養成する工学部、そして、一般教養を教授する予科の三機関を統合した総合大学となっているとのことだ。学生は二年間予科にて人文科学・社会科学・自然科学の基礎や英語・フランス語といった語学を学修したのち、大学部にて四年間教官の助けを借りながら各々学問を探究することになっている。


 藩校の生徒は原則無試験で入学できるのに対し、寺子屋・私塾の生徒は試験を受けねばならない。字句通り志学の年頃に、生徒は国文・漢文・算術の三科目の基礎学力を問う試験に備えて勉強をする。「学士」の資格を取得できるのがここしかない以上、どうしても競争は激しくなってしまう。


 無事大学に入れたとしても卒業までには苦労する。たとえ藩校生であったとしても、逃れることはできないし、山を登らねばならない。予科の成績次第でどこの大学部科に進学できるか決まるので、特に法政科や医科へ行きたい場合は、よく勉学に励まなければならない。また、比較的人気の薄い文芸科志望でもある程度ではやらねば、放校といって存在を抹消されてしまう。めまいがするほど頻繁に試験や小テスト、課題が課されるので、これらを効率より処理せねばならないのだ。また、予科の間は全寮制をということでむさ苦しい男どもと共同で生活せねばならない。これも、当人にとっては、特に甘やかされた場合、辛いものではないだろうか。


 そして、なんとか進級し、希望の大学部科に入ることができたとしても、学生には近年に入って導入された洋学を吸収して、新たな学問を創出することが求められる。大学部科でも予科ほどではないが課題が多く出されるので、処理せねばならない。また、量は減っても質は高くなってゆくので、負担はあまり変わらないだろうし、下手をすればむしろ増えているかもしれない。そのうえ、予科では原則日本語で教授していたのに、大学部科では英語で教えられるようになる。人間、どうしても母語の方が理解しやすいから、これは困る。困るが、西洋学問の専門教育を日本語で教えられる体制が整っていないのなら、仕方ない。予科では日本語、というだけましかもしれない。


 このような面倒な学業を六年間こなすことで、はじめて学士(専攻によって法学士、文学士、理学士、医学士と異なるが)の資格が与えられる。学士になれば官界でも大いに有利であり、政財界でも優位となれるので、ようやく報われるのだ、といったところか。


 しかし、以上のごとき拘束は予科から大学部を経て学士にならんとする者に限られるのであって、ただ直接工学部に入って学士のなったのちに工業技術者として国内産業の歯車になる分には、試験なしに入学でき、理工学の素養さえあれば適当に講義と考査をこなせば、あっさり工学士の資格を手に入ることができる。学士の安売りと批判されても大学部とは別立てで促成栽培の工学部を置くのは、工学士が産業発展の原動力になっているからである。工学を修得した人材は各方面から求められており、慶三も工学部校舎を訪問して、青田買いせんとする。たとえ無試験・過小負担だとしても、工業技術者の存在は有用だと認識さろているのだ。技術者の地位が高いという点では日本独特であるが、大学部とは別立てで工学部を置いているのは工学を賤しむヨーロッパの大学観に由来しているのだろう。


 放課なのだろうか、学生連中の雑音が大学中に響く。いわゆる体育会というはないとのことであるので、同好会程度の小規模な活動をしたり友人と談笑したりする。学生会館といった立派なものはないので、教室を一部を借りてやるという体裁だ。校舎脇の銀杏並木が陽を遮っている。チャペルはない。当然だ。禁教令とまではいわなくても、諸々の不利益を被るキリスト教を信仰する者はよほどの傾奇者。


 大学を通過すると、すぐ城に着く。踵を返すまでもない。城門は、なかなか立派で、二重三重に堀が巡らされているので、侵入することは難しいそうだ。私が城に入ろうとすると、権兵衛は、

「山口殿、すまぬが部外者は来るなとあるのでな。ここで待ってくだされ」

といって制止してきたので、城内にて権兵衛らが談判している中、私は待たねばならなかった。別室に案内され、寝惚けて待機する。夕刻になっていたので陽が沈んで風の音が聞こえてきた。


 数刻後、話が終わったのか、権兵衛らが安堵した顔つきで城から出てきた。私が駆け寄り、ことの次第を尋ねると、権兵衛は、

「耶蘇教の御法度を改めて下知いただき、鎮定軍を摂津に急派なさることとあいなった」

と返す。つまり、キリスト教勢力の進出を抑えるため改めて禁制を出すとともに大塩の乱鎮定の軍を出すということだが……後者は信徒の処刑といった過激な策でもない限りもはや効果は薄くなっているのではないかといったことは置いておくとすれば、まあ妥当だとして、前者は西洋諸国との摩擦が生じないだろうか、という懸念がある。そのことを問うと、

「国法は皇土にありては南蛮の法より上であろう」

という返答。まあ、確かにそうだろうが、それは西洋の倫理性というものにあまりにも期待し過ぎではないだろうか。


 ともかく、事情を伝えてあとは当局に任せるしかないということで、我々は松山を去ることにした。できればこの快適に過ごせそうな松山で生計をたてたかったが、


 しかし、帰るといってもすでに夜である。今日のところはひとまず城下の宿に泊まるこのとして、ある陣屋に入った。二人部屋しかないので、私は権兵衛らとは別れ、個室に入ってゆく。


 そして、間髪をいれることなく、床につく。さあ、寝よう、寝よう。

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