第4話 「瀬戸内海」
堺の湊を出でて、廻船に蝦夷地の昆布とともに積まれながら、浩洋たる海を渡る。和泉灘は古来より大陸からの使節や帰化人をはじめ、数多の商人が往来し、東洋のバルト海といえるのではないかと思う。村上や小早川といった水軍もこの海を根拠地とし、暴れまわったのは、そのような事情もあるからではないか。先日権兵衛からきいた「謹海風」という漢詩は、
「長風幾萬里、吹度蓬莱海(遥か彼方より来たる風が、蓬莱の海を吹き渡ってゆく)」
と始まるそうだが、まさにこれであろう。往来盛んな瀬戸内海は風に生き、風により輝くのである。
そんな中世の繁栄に思いをはせながら、舟は帆を張り、西に進む。播磨灘、備後灘、安芸灘、斎灘などの入り江が連なり、綿津見の産物の豊富なるは言をまたないが、素人の私が釣っても小魚くらいならばなんとか釣れる気もする。そこで、船員から釣具を借りて、やってみることにした。そうすると、あっという間に鯖などの小魚を群れごと獲ることができた。このままだと腐ってしまうので、船員に釣具とともに戻した。
しかし、釣りをしていると結構時間は過ぎるものである。もう夕日が傾き始めている。夜か。手帳に備忘のため、覚書をする。消しゴムがないので、揺れもあるし、慎重に、書いてゆく。そうそう、取材も忘れてはならぬ。いつ、どうなるかわからぬ浮遊したわが身ゆえ、武器となるものは少しでも積まねば。権兵衛はきいたので、ほかの連中からきく。謝礼は用意していなかったのだが、あっさりと応じてくれる人が多いのは鷹揚さからなのか同情心なのかはともかく、ありがたいことである。
補給のためにちょくちょく寄港するので、その間は私は海上の揺れから解放される。ああ、どうやろここは倉敷の波止場らしい。白銀の倉が軒を連ね、数百艘の小舟が細長い水路を行き交っている。備中備前の玄関口なるは、実に相応である。風景を眺めながら、私は権兵衛に話しかけた。
「このまちはずいぶんと広い……大物がいらっしゃるに相違ない」
というと、権兵衛は、
「小早川殿が岡山におわしますな。吉備国の産物の集散はここにあるのです」
と返す。へえ、小早川といえば裏切り者の印象しかないが、そんな岡山一帯を支配する大名になるとは想定外だ。いや、「河野幕府」ならば毛利氏の勢力も大なるであろうし、その血族の小早川氏もまた、これであろうか。
水員は米俵をば積みつつ、運びゆく。話は移動の間、いくたびの断絶を挟みながら継続する。私は当代の農業事情がいわゆる前世の江戸時代と称されるものの同様に米中心だと推測していたが、権兵衛の話では、どうやら、麦や野菜、商品作物の類も米と負けず劣らず盛んに作付けされているそうで、また、奥州に至っては西欧的混合農業の形態をとっているとのことである。昭和30年代まで、東北は、その気候と不適切な政策によって飢饉の宿痾から逃れることができなかったので、これは合理的ではないかと思われる。徳川幕府とは違い開明的な交易政策をとった「河野幕府」の尽力で東部日本の地理的環境に適合した農業のやり方が普及したのであろう。
開明的な交易政策をとった証拠は容易に見出すことができる。徳川幕府では諸大名に500石以上の大船を建造することを禁止していた記憶があるが、瀬戸内海を半分通過した時点で、すでに何度か千石はありそうな非常に巨大なる船舶を瞥見している。もちろん、河野の舟なのかもしれないが、たとえそうだとしても、まだ論証できる。顕現から現在まで見てきた事物にはおびただしいほどの南蛮の産物、大都市における外人の往来、教会や西洋風建造物などがあって、徳川幕府だとすれば考えられない事象が発生しているのである。
だとすれば、あの宣教師の存在はなんなのかということになる。話しによると「幕府」の直轄地や河野一族の所領ではキリシタンは厳しく罰せられるそうだが、そのほかの地域、特に東国、さらにいうと北条氏の所領ではキリシタンは公然と存在し、武蔵野原にイエズス会は東洋一の大拠点を設けている、とのことである。まあ、外国に門戸を開いている以上、あのような不逞の輩がいても不思議ではない。
倉敷を過ぎ、鞆の浦に着く。足利幕府終焉の地にして西部日本における東西交通の要衝であったらしく、今でも潮待ちの舟がそのときを待っている。瀬戸内の海流は満潮時に東西の端から流れ込むが、その海流は瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦沖でぶつかる。また、干潮時には、逆に、鞆の浦沖を境にして東西に分かれて流れ出してゆく。すなわち、鞆の浦を境にして潮の流れが逆転する。移動には鞆の浦で潮流が変わるのを待たなければならなかったのである。だから、こうして我々も待っているわけである。
鞆の浦はその名の通り、鞆にある入り江のことであるが、前述した通り潮の境目であることから、地政学的にも重要であった。鞆の浦は備後国所属であったので、私は毛利か小早川のものだと思っていたが、どうやら河野自ら支配しているらしい。もちろん重要な土地なので、直轄化する理由も承知できるものの、毛利・小早川に任せてもよいのではないかと思うのだが。河野と毛利・小早川は互いに契りを交わす昵懇の仲ではないか。
そろそろ舟を出すぞとの合図があった。さあ、行こう。あと少しで松山だ。
堺より出航して半月ほどであろうか、ようやく至大なる城郭がその姿を現した。沃野千里に人家が隙をゆるさぬほどひしめきあい、水路は堺の何十倍もの密度で交差しており、まさに富裕なる金城湯池をなしている。あゝ、まさに本邦の首府にふさわしい陣容である。
潮が上がると、埠頭が見える。ここに到着だ、そうだろう。やっとここまで来たのだ。畿内から松山まで下ってきたのだ。いや、いまや日本の中枢が松山だとすれば、上ってきた、が正しいのかもしれない。伊予国が中央になったことは、藤原純友が南予にて反乱を起こしたように中央に刃向かった歴史はあるが、奇妙なことかもしれない、いや、そうだ。河野氏などという一小大名がいかにして権力を掌握し、日本の津々浦々を抑えるようになったのか、といった話は航海中にたびたび聞いたが、なかなか承服できない。第一、その「通家」とやらは何者なのか。浅学ゆえかもしれないが、そのような人物は聞いたことも見たこともない。通○であればなんでも良いという安直さがうかがえてる。
中予の領主から南予東予を平定して伊予を統一し、毛利島津と組み西国に覇を唱え、織田と結んだのちに後継の秀吉を倒して天下統一を果たすという筋道には諒解できぬところがある……空理空論というべし。まさに愚考なり。とはいうものの、古今東西を問わず、一見整合性のとれていない抽象芸術のように醜悪なる事象が史書には記されているのである。いや、その事象は抽象芸術的なエゴイズムと非道徳の象徴としての醜悪さというよりも、宇宙人が下等生物の成長を支えるような醜悪である。
そうこう無意味なことを思索していると、奥から小柄でいかにも木っ端な役人が駆け寄ってきて、
「権兵衛殿に、慶三殿、よくぞいらした。して、何用か」
と述べる。ん、どうやら堺商人の代表という地位は結構高いようだ。
はあ、この短身なる者が存外に高い地位にいるとは。やはり人は見た目によらない。
「まあ、先ずは行きましょう。さあ、お乗りください」
役人はそういい、駕籠をこしらえた。
役人に案内されるがままに、一路、城に向かう。さあ、何があるやら。