#05
いない。いない。何処にもいない。視界の悪い景色の中で、弓を片手にリンは目の前を遮る蔦を振り払う。クゥリとリッテラの姿を探して五感を研ぎ澄ませるも、二人の気配を捉えることはできない。
逸れてしまうだなんて最悪だ。あの子たちは武器らしい武器も持っていないし、戦いなんてほとんど知らない純粋な子どもたちだ。もしあの虹色クマに再び遭遇してしまったら──いや、それよりも悪いことがあるかもしれない。
絶対に目を離してはいけなかったのに。予想外の出来事が起きてしまったからだなんて言い訳だ。クロガネがいない時に危ない目に遭うかもしれなかったことなんて、想定しておくべきだったのに。
そのために任されたのに。
「……クロガネぇ」
不甲斐なさと、悔しさと、寂しさと。今は弱音を吐いて暇なんてないのに、リンの唇からそれは溢れ出た。この事態をきっと彼なら何とかしてくれる、呼べば不思議と少し心が落ち着くような、そんな名前を。
けれど、ここにいるのはリンだけだ。リン一人だ。
どうしよう、なんて日和ってる場合じゃない。そんな暇があったら足を動かせ、前に進め。
バシィっ、と頬を強めに叩く。ぐっと涙が零れそうになるのを堪えて、リンはまた一歩踏み出した。
──いつだってクロガネに助けられて。そんな自分が嫌で、何かしようと思ったんじゃないの?
出会った時も助けられた。それからずっと、ずっと頼りっぱなしで。
そんなままで、いいわけない。
「絶対に見つける……!」
何があったってクゥリとリッテラを見つけ出してみせる。絶対に無事に救出してみせる。
暮れかけていた空は闇に染まりゆく。月が煌々と照り始めた漆黒の中で、リンは森の中を駆けずり回った。
◇◆◇
森の中には魔物が住んでいる。小さなモンスターと何度か遭遇しながらも、リンは兄妹を探していた。戦う度に小さな傷が上書きされていく。焦りと不安も上塗りされていく。リンはギリギリ一人でも立ち回れるような小物ばかりと遭遇したのでなんとか無事だったが、クゥリとリッテラもそうだとは限らない。
あの子たちは今、無事だろうか。
弓をつがえて弦を引く。何度目かの戦闘を終えたリンは、少しだけ休憩と木にもたれかかった。
果たしてこちらの体力が尽きる前に見つけられるだろうか。否、見つけるのだ。自らにそう言い聞かせて、リンは空高く昇月を見つめた。
「……夜」
そう、夜は既に訪れた。ここからはさらに危険な時間帯だ。
休憩は三分間だけ。そう決めたリンは呼吸を整えようと息を深く吐く。すると静けさの中で、自分以外の気配が一段と濃く感じた。まるで鳥や小さな生き物の息遣いが聞こえてくるかのようだ。
──……。
「え?」
今、何かが聞こえた気がした。動物の気配ともモンスターのそれとも少し違う。それよりも親しみを感じて、どこか聞き覚えのあるようなこれは……。
「──クゥリくんの声っ⁉︎」
それは探していた片割れの声。その声を認めた瞬間にリンは立てかけていた弓を引っ掴んで走り出した。
この声、何処から。
木霊する叫び声。反響音が邪魔で子どもたちの居場所を特定できない。
ど、どうすれば──。
「……じゃない!落ち着くの!」
焦りは禁物だ。この身はヒト成らざるエルフの身。感覚という感覚を研ぎ澄ませて、リンは空気の揺れから音を拾う。
ーーこっちだ!
クゥリの声がする方向へと身を翻す。リンは足に蔦が絡みつこうとも、枝が皮膚を傷つけようとも、構わずに全速力で駆け抜ける。
走る。走る。ひたすらに。
走る。走る。
走る。
「……!」
掻き分けた葉の、その奥に。モンスターと、それに追い詰められている見覚えのある二人の姿を捉える。
「ち、近づくな!お前なんかっ……!」
クゥリが拾ったであろう大きめ木の枝を振り回し、背後にはリッテラを庇っている。しかしモンスターはそれで怯むことなく、じりじりとその距離を詰めて。その視線はクゥリではなく、リッテラに向けられている。
そして。
──リッテラ目掛けて、その牙が剥かれて。
「リッテラっ……!」
避けられない、そう悟ったクゥリがその身を呈してリッテラに覆いかぶさる。獣の牙が、今にも兄妹をーー。
「させないっ!」
ブレイクを込めている暇はない。リンは矢筒から取り出した矢を一瞬で放つ。
絶対に外さない!
放たれた矢は正確にモンスターを穿ち、その体躯を大地へと吹き飛ばす。その勢いで地面へと縫いとめられた命は数瞬ばたばたともがいた後、やがて動かなくなった。
「クゥリくん、リッテラちゃん!」
「リ、リンさん……?」
リンは二人の無事を確認するために駆け寄った。今の一瞬で何が起きたのか理解していない様子の兄妹だったが、この感じならば大怪我はしていなさそうだ。
「二人とも、怪我は?」
「だ、大丈夫……ちょっと擦りむいたくらいですから」
「……よかったぁ」
その返事を聞いて、へにゃへにゃと地面に座り込む。安心して力が抜けたのか、リンは深く安堵の溜息を吐いた。
とりあえず最悪の事態は回避することができたようだ。後はクロガネと合流するだけ。いや、この森の中を脱出する方が先決だ。
──どしん。
「……ん?」
微かに感じたのは、地響きと嫌な予感。妙に聞き覚えのあるそれは、ゆっくりゆっくりと近付いてくる。
嫌な予感というものほどよく当たるというが、そんな現実ほしくない。
「さっきのクマっ……!」
ゆらり、と木々の陰から現れたのは最初に遭遇した虹色クマ。巨体を不遜に聳え立たせ、その怪物は目の前に立ちはだかる。
「退がって二人とも!」
リンは素早く弓矢を構えたが、振るわれた獣の腕に弓を弾かれてしまう。
「あっ──」
視界の隅に踊る弓。瞬間それを追いかけてしまったこの目が、再び敵を捉える頃には。
しまった、と思った。思っただけだ。何とかしなければと思うときには、もう。
もう遅い。
──クロガネ!
「リンっ!」
斬撃が目の前で踊る。リンの、さらにはクゥリとリッテラの後ろから飛び出してきたのは、目にも留まらぬ速さの一閃だった。それは真っ直ぐに虹色クマの胸を斬り裂き、次の瞬間にはそのクマはドサリと音を立てて崩れ落ちた。
あまりにも一瞬すぎて理解が追いつかない。けれど、振り向かずともリンにはその正体がよくわかった。
「……えーと、みんな大丈夫か?」
およそ大きなクマを一撃で仕留めたとは思えない、要領を得ない問い掛け。この声の主が次の言葉を紡ごうとするより前に、リンは振り向いて彼を見つめた。
「クロガネ……」
「よかった、無事みたいだな」
少し唖然としているリンの顔を見て、彼も安堵したようだ。彼──クロガネはクゥリとリッテラの手をとって立たせてやると、所在無さげに微笑んだ。この笑みはつまり、彼のいない間にリンたちが大変だったのがよくわかっているということである。
「く、クロガネさんは怪我ないですか」
「擦り傷程度だから平気さ。でもこの傷は食糧獲ってたときのだけど」
クゥリがリッテラの状態を確認しながら、助けてくれたクロガネに対しても外傷の程度を尋ねている。本当に責任感と思いやりのある子だ。どこか年齢の割に大人びたところがあるように思われるのは、やはり境遇によるものなのだろうけれど。
「あのクマ、リンを仕留めることに躍起になってたから、俺のことなんか眼中になかったみたい」
だから一撃で倒せたんだと思う、と。クロガネはあまり自分の実力ではないと言いたげだったが、それも彼のこと性分なのだろう。強くなればそのことに喜び、敗北を味わえば己の弱さを噛み締める。一進一退しながらそれでも前に進もうとするこの人が、リンの同行者なのだ。
「……もうっ!クロガネのこと探したんだから!」
「ごめんって。でもこな所に来てるなんて思わないだろう」
「いろいろあったの、本当に。でも、ありがとう」
リンはクロガネに対して怒りながらも感謝を伝える。本当ならば真っ先に「ありがとう」と言いたかったのだけれど、何だかそれだと負けた気がしてしまうから。
クロガネは笑う。どういたしましてと、少しだけ照れ臭そうに、満足そうに。皆んなが無事で良かったというように。
結局、これがクロガネなのだ。これが私なのだ。
仲間のためならば危険の中にも飛び込んでしまえる男が、彼なのだ。その荷を無理に降ろそうとしたとしても、彼はきっとそれを許してはくれない。
頼られたかった。自分だって守りたかった。
その気持ちはリンも、そしてクロガネも同じなのだろう。
だから、まあ。
「……頼りにしてるからね、クロガネ?」
まだ腑に落ちないところはあるけれども。
寄り掛かかる勇気っていうのも、大切なのかもしれない。
「そうそう、あっちに仕留めた今日のご飯置いてあるからさ。戻ってみんなで食べよう」
「……美味しいの作ってね?」
「おっし、任せて」
任せるね。