3:切り離された世界
しばらくして、お母さんが紙を受け取って一言だけ走り書きした。
『病院に連れて行くから、したくしなさい』
一度だけ、私が頷いたのを見るとお母さんは部屋から出て行った。
部屋のドアが、力任せに勢いよく、しかし無音で閉じられた。
私は、慌てて立ち上がった。
病院、病院に早く、行きたい。
今の理解不能な状況を、誰かに説明してもらいたかった。
パジャマを脱ぎ散らかして、適当な服をタンスから引っ張り出す。
布の擦れる音はしない。
上着を羽織って、昨日のままの鞄を持つ。
玄関では、お母さんがブーツを履いていた。
私は少し汚れたスニーカーを慌てて履いた。
お母さんの背中を追う。
アパートの鉄の扉が閉まる音も、鍵が掛かる音もしない。
普段、気をつけて聞いたことは無かったけど、意外と自分の世界から消えると妙な感覚に陥る。
外に出ても、冷たい風が頬を撫でる感覚と澄んだ朝の匂いしかしなかった。
私の世界では鳥は鳴いてはいないし、車も、電車も、走ってはいない。
生きている世界から切り離された感覚が、外に出てより強くなった気がした。
小さな車に乗り込む。
扉を閉める重い音、エンジンをかける音。
全てを頭の中で再生してみる。
少し、怖くなってすぐに止めた。
お気に入りの音楽も、聴こえない。
ただ、CDの画面の秒数だけが無情に時間の経過を告げる。
残っている感覚だけでも、といつもは気にしない窓の外を眺めてみる。
電信柱、人、車、陸橋。
外は、何も変わらない光に照らされて、いつもと同じ景色だった。
女の子が二人、自転車に乗って信号待ちをしながら楽しそうに話している。
茶色い鞄を持ったスーツの男性が携帯電話を片手に忙しなく歩いていく。
なんて、平凡。
大きなカラスが、どこからか飛んできて電線に止まった。
『あなたは、もうこの世界にはいないんだね』
カラスと目が合った気がした。
一声鳴いたのか、大きく欠伸のように口を開けて電線から飛び立った。
ゆっくりと目を閉じて、縋るように車の窓にもたれ掛かった。