第2話-3
ほとんど終わりに差し掛かってはいたが、まだリンは春休みを満喫中だった。
その日は特に行く所もなく、リンはのんびりと自室の荷物を整理していた。
昨晩感じていた重苦しさも、窓からのどかな春の陽が注いでいるだけで、なんとなく吹き払われたような気持ちがする。
まだ耳には晨朝の時のユイチの美しい声が残っていた。自分も声を出したこともあってか、なんとなく体に元気が満ちているような気持ちよさを感じる。
ユイチとの縁談がどうであれ、実家から離れて暮らしてみるというのは、それだけでいい刺激になるかもしれないな、などという前向きな思いすら起こってくるのだった。
日が高くなると、玄関の方で人の出入りする音が聞こえた。行ってきます、というユイチの声が聞こえたから、彼女がどこかへ出かけるのだろう。
大学を卒業してからはずっと家の手伝いをしているという話だったが、どこか通う所があるのだろうか。
気になって玄関の方へ出てみると、ユイチを坊守が見送った後だった。
「どこ行ったんですか?」
そう聞くと、坊守はにっかりと満面の笑顔を浮かべて答える。
「アルバイトよ。近くのお好み焼き屋さんで働いてるの」
ああバイトか、と納得して適当に相槌を打った。そしてすぐに自室へ戻ろうとするものの、坊守がお喋りを続けたので引き止められる。
「まだ2日目なのに、すっかり仲良くなったのねえ」
ニコニコとしてそんなことを言うのだ。思わずリンは咄嗟に不愉快な表情を浮かべたくなるのを堪えて、顔を強張らせた。
「い、いやそんな……」
リンはたじろぎながら丁寧に否定しようとしたが、坊守の喋る勢いは弱まらなかった。
「あんな変わり者な孫娘だから大丈夫かしらって不安だったんだけど、ほんと倫海くんに来てもらえてよかったわあ。最初はあの子も結婚を嫌がってたんだけど、倫海くんならきっと大丈夫ね」
リンに構わずぺらぺらと喋り続ける坊守を眺めて、リンは諦めて作り笑顔を浮かべた。
ね? と小首をかしげてリンの相槌を待つ坊守に、リンは固まった笑顔で答える。
「仇桜ですよ」
すると坊守は、え? と言って固まった。その隙に、リンはさっと踵を返す。
「早く部屋を片付けてきますね」
そう言い置き、坊守を残して自室へと戻った。
春は、儚く散ってしまうものだ。
部屋を片付け終わると、ちょうど正午頃だった。ユイチのいない家族の中で一緒に昼食をいただいた。昼食が終わると、住職が仕事に出かけていった。リンは部屋に戻って読書などを始める。
時々ノートパソコンを開いて所在なくインターネットを眺めたりしながら、ひたすら本のページをめくっていると、すぐに夕方になってしまった。
いつの間にかユイチが帰っていたらしく、家のどこかからユイチと坊守が喋っている声が聞こえてきた。
日が西へ傾き、空も薄暗くなってきた頃、リンはふらりと本堂を訪れた。寺での法務の時に少しでも戦力になれるように、裏方の様子を今のうちにある程度把握しておこうという魂胆だった。
そろそろと渡り廊下を歩いて、本堂の横の障子を開けると、そこにいたユイチとばたりと目が合った。
誰もいないものと思っていたのに、よりによってユイチがいたのだからリンは露骨に驚いてしまった。足音で誰かが来るとは分かっていたのだろう、ユイチはなんだお前か、とでも言いたげにつまらなさそうな表情を浮かべている。
そんなユイチの格好にも驚いてしまった。昨日と同じような作務衣を着たユイチは、今は美しい正座をしてはおらず、本尊へ背を向けて座り、その足をがばりと大きく開いていたのだ。
開いた両足はぴんと伸ばしていて、左手を右足指のところへ伸ばしている。どうやら、ストレッチ中らしかった。
ユイチはちらりとリンを見たが、すぐに視線を逸らして、構わずストレッチを続けた。
リンがどうしたものかと考えながらじっとしていると、しばらくしてユイチは仕方が無さそうに小さくため息をついて、またリンの方へ視線を向けた。
「……何か?」
そしてぽつりと聞いてきた。リンは少し安心して、口を開いた。
「いや……、何やってるの?」
「ストレッチですよ」
「……本堂で?」
「他に広い場所がないのでね」
「ふうん」
そう言って、リンはようやく本堂の中へ入り、いつもどおりに一礼をした。
「あなたは? 何か用事ですか」
ユイチはぐいぐいと身体を伸ばしながら、視線を向けずにそう聞いてくる。
「ん……、いや、お参り」
リンは適当にそんな言葉で返した。ユイチは相変わらずつまらなさそうな顔でリンの方を向く。
そしてひとつ嘆息すると、するりと軽い身のこなしで立ち上がった。本堂の真ん中から脇の方へ静かに歩き、やはり軽い調子で、すとんと正座をする。
ストレッチは終わったのかな、と思ってリンはそんなユイチを尻目で追っていたが、すぐにユイチの不満そうな視線に刺された。
なんだと思って見返すと、リンを睨みながらユイチは言う。
「お参りに来たんでしょう」
早くすませろ、ということらしい。
本当は別にお参りに来たわけでもないのだが、そう言われて仕方なくリンは本尊の正面に正座する。
いつもの流れで左手首のあたりをまさぐって、数珠が無いことに気付いた。仕方なく、素手のままで合掌をする。
正座したユイチに真横から睨まれながらというのは落ち着かなかったが、平然を装ってリンは小声に念仏をした。
やがて深々と下げた頭を上げると、すぐにユイチの声が飛んでくる。
「お念珠は?」
「……部屋に忘れたんだよ」
リンはぼそぼそと答えた。ユイチの呆れたため息が返って来て、なんだか妙に恥をかいている気分になる。
やがてユイチが立ち上がった。
ストレッチの続きをするのだろうか。自分が居座っていても邪魔にされるかもしれない。今日のところは本来の目的も諦めて部屋へ戻ろうか、などとリンは考え始める。
そしてゆっくりと立ち上がったリンの元へ、ユイチはその裸足でたしたしと足音を上げて、まっすぐと歩いてきたのだ。
やがて立ち止まるかと思いきや、リンの数歩手前から急に、ぐんと強く足を踏み出してきた。リンの視界の中で、ひゅっとユイチの頭が手前へ落ち込んでくる。
驚く暇も無かった。息を呑んだその瞬間に、胸に強い衝撃を感じる。同時にがくりと視界が揺れた。
次に感じたのは、強い力にぐいと引っ張られるような感覚だった。ふっ、と、足元にあった地面の感触が抜け落ちたような浮遊感に襲われる。
「えっ?」
ようやくそんな間抜けな声が出た頃、揺れる視界がぴたりと止まった。一瞬失った地面の感触も、いつの間にかしかと足の裏に感じている。
目の前にはユイチの肩があった。彼女はリンの胸ぐらを両手で掴み、体当たりをするような姿勢でリンの身体に密着していたのだ。
何が起こっているのか分からないままリンは呆然とする。そんな状態が僅か続いたかと思えば、すっと、ユイチはリンの身体から離れた。ユイチに加えられていた力を失って、リンは思わず畳の上でよろける。我に返った時、心臓がばくばくと音を上げていた。
ユイチの顔はつまらなさそうだった。
「あなたってさっぱり」
涼しい声で言ってくる。リンの頭の中は混乱していた。
「運動神経無いんですね」
びしりと言い放たれたユイチの言葉が、ぐさりとリンに突き刺さる。
学力、友人関係、異性関係、実家の経済力……、今まであらゆる面において周囲から羨望の眼差しを浴びてきた人生の中で、唯一人から笑われた、コンプレックスとも言うべき短所がそれであったのだ。
「今の、なに」
ようやくリンが発した声は強張っていた。
ユイチはようやく薄い笑みを浮かべた。
「……お数珠を持たずに礼拝をするなんて、仏さまを手づかみにするようなものですよ。少し喝を入れてやろうかなんて思ったのですが……。下手な人を投げると怪我させてしまうので」
え? と思わず聞き返しそうになったが、堪えた。数珠、または念珠と呼ばれる、仏教徒には一番メジャーな仏具であるが、それを持たずに仏を礼拝することは大変な不敬とされている。そんなことは宗派の中では常識だった。
それにしたって投げなくてもいいだろう。思わずリンはユイチから身を引いた。
「……柔道?」
「ええ。昔、父から習っていたのですが。父が住職になってからはなかなか機会がなくてね……」
ユイチは笑みを引っ込めて嘆息する。リンは善心寺の住職の顔を思い浮かべて、内心に驚きを覚える。
あの落ち着きのない親しみやすい住職に、武道を嗜んでいる姿というのはどうにも似合わないように思えたのだ。人は見かけによらないものだな。
「だからって俺を相手にしないでくれよ……」
リンは疲れた溜息をついて言った。ユイチは綺麗な笑みを作ってみせる。
「運動不足は体によくないですよ。あなたさえ良ければ、私が稽古をつけてやってもいいですが」
「いい、いい」
リンは慌てて首を横に振った。
「そうですか。まあ、健康にはくれぐれも気をつけて」
ユイチは美しく微笑んでいた。
やがて突っ立っているリンを置いて、用は済んだとばかりに、軽い足取りで庫裏の方へ引き返していった。
その背中が見えなくなるのを確かめてから、リンは大きなため息を吐く。
一体、なんだというのだ。普通、知り合って2日目の男をいきなり投げようとするだろうか。とことん変わっている……、いやもう変わっているを通り越して大変迷惑な娘だな。
いやきっと、彼女が変な人間であるというよりも、自分という人間が単に、凄まじく嫌われてるのであろう。恨まれるようなことをした覚えの無いリンにとっては、まったく不条理なことこの上ないが、しかしユイチからすればもっともなことであるに違いない。理由は分からないが、結婚を断固拒否したい彼女にとって、家族が無理やり結婚させるつもりで連れてきた、どこの馬の骨とも知れない男のことなど見ているだけで腹が立ってくるんだろう、きっと。
そう考えて、リンはもう一度大きくため息をついた。強く目をつぶって、やがて開く。きっと見据えたのは、庫裏の方へ続く廊下だった。
そちらがそのつもりなら、こちらもそれ相応の態度で対応するほかあるまい。いくら柔道を嗜んでいると言っても、歳下の女にナメられたままで済ますわけにはいかない。中途半端に礼儀正しいフリなどせず、こちらも毅然とした態度を以って、自分が暴力や嫌がらせには屈しないことをあの尼僧に示してやらねばなるまい。
そんな決意を抱き、リンはひとり、拳を握った。
やがて勇ましい足取りで本堂を出ようと歩き出して、出口の障子のところで立ち止まった。振り向くと、本尊として祀られている仏像がちらりと見えた。仏は、そんな青年の決意など素知らぬというような様子で、ただじっとそこに立っている。
ああ、かの佛は、こうして戸惑い、葛藤している自分の姿をまざまざと眺めて、一体何を思っているだろうか。そんなことを考えて見てみると、仏像の浮かべている微笑みが、まるでリンを嘲笑しているように感じられた。殊更拝む気にもなれず、リンは小さく鼻息を飛ばして、さっと踵を返していった。