第2話-2
明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは……
満開の桜を眺めていると、リンの頭にはその和歌が浮かんでくる。明日も変わらず咲いていると思っているが、儚い桜はこの夜中にでも嵐が吹いて散ってしまうかもしれない。……人は死期を選べない。いつ死ぬとも分からない。いつでも無常の風にさらされながら、生きている。
桜が散るのは、早い。こうして見ているうちにもはらはらと、枝から離れた花びらが何枚も舞う。
一刻一刻一枚一枚、満開の桜は美しくも、確実に終わりへ近づいている。嵐なんて吹くまでもないか、などと思いを馳せる。
「一生過ぎやすし、ね……」
リンは春風に舞う花びらに身を晒しながら、そう独り言を零して格好をつけてみた。世は無常、常なるものは無く、人の命も儚く、この一生など呆気なく過ぎ去ってしまうものだ。そんな仏教の教えがいかにも香り高く響くような、静かで美しい春の朝であった。
「倫海さん」
ふと、呼ぶ声があった。
はっとして振り向く。知らぬ間にユイチが、近くに立っていた。
思わずさっと血が顔にのぼるのを感じた。独り言なんて言っているのを、聞かれただろうか。
「音もなく現れるのはやめてくれ。……びっくりしたじゃないか」
リンはいたって冷静を装って言った。ユイチは全くの無表情でいたが、そう言われて、少し微笑みを見せたようだ。
「失礼しました。お邪魔をしてはいけないと思って」
リンは顔が熱くなるのを感じた。やっぱり聞かれていたらしい。
ユイチから視線を背け、リンは赤くなった顔を長髪で隠してやる。勝手にため息がこぼれた。
「そろそろお朝事を始めますので、手伝ってもらえますか」
ユイチのその声が、どこか柔らかく感じられて、リンはまたユイチの方を見た。
ユイチの視線は既に本堂の方へ向いていたが、その顔は微笑んでいた。昨日の剣呑な様子と比べると、まるで別人であるかのようにさえ思ってしまう。
不思議だな、と思っていると、ふと、別の足音がした。小さく、ゆっくりとしていて、杖をつく音と一混じって聞こえる、足音。
「おはようございます、中田さん」
振り返ると同時に、ユイチがそう言った。視線の先には、腰のまがった小柄な老婦がいた。
老婦は杖をつきながらゆっくりと参道を歩いてきていたが、ユイチに声をかけられて、はたと立ち止まった。
「……門徒さん?」
リンが小声でユイチに聞く。ユイチは振り向き、屈託のない顔で、はいと答えた。
「中田清子さん。毎日お朝事にお参りにこられるんですよ」
ユイチは変わらぬ柔らかい調子で中田を紹介した。促されるようにリンは中田を見るが、中田はまだ立ち止まっていた、というより、固まっていた。表情が、驚きの色を浮かべている。
なんだろう、自分の存在にそんなに驚いているのだろうか、とリンは思ったが、ユイチには心当たりがあったらしい。
あ、と気が付いたように零して、自分の綺麗な剃髪頭を撫でた。
「ユ、ユイちゃんかい……?」
中田は恐る恐る、そう言った。どうやらユイチの剃髪姿を見るのは初めてなのだろう。……毎朝参ってるという話だから、昨日の朝の時点では髪があったわけだ。
「ど、どうしたん、その頭……!」
中田の叫びは直球であった。
「いやあ、これは、その……。や、やっぱり僧侶になったからには一度ぐらい丸めてもいいかな、なんて……」
ユイチはやや焦った様子でそんな理由をつけ始めた。リンは呆れた顔でユイチを眺めてやる。
もちろんそれで中田が納得することはないだろう。中田は何も答えなかったが、やがて視線がふいに、リンの方へ向く。
「……あんた誰だい?」
初対面の人間に向けるには、いささか荒っぽい言葉遣いのように思えた。表情もどこか険しい。リンも晨朝に備えて既に衣を着、袈裟をつけているというのにだ。
「初めまして、篝倫海と言います。昨日からこちらの庫裏に下宿させていただいてまして……」
リンは中田の態度に不満を覚えながらも、綺麗に作り笑顔を浮かべて丁寧にそう答える。
しかし中田の表情は変わらず険しかった。何かを訝るように、ユイチとリンとを交互に見ている。
やがてリンは、その眼差しに込められている言葉を受け取った。……あんた、ユイちゃんに何かしたんかい? という。
なるほど、親しんでいる寺の娘が突然頭を剃った、それと同時に現れた、謎の男。そう邪推するのは当然のことだろう。いやそれはリンの本意ではないにしろ、リンが来たこととユイチの剃髪には直接的な因果関係があるのであるから、それは邪推などではなく見事な慧眼とも言えよう。中田のリンに対する負の感情はもっともだ。
だがしかし、リンは作り笑顔を崩さない。胸中で、知ったことか、と悪態をつきながら。
今回のことに関しては、リン自身も巻き込まれた被害者みたいなものだ。知りもしない娘の髪の責任なんてとても取ってられない。
「……も、もう本堂へ向かいましょう」
微妙な空気を、ユイチが微笑みながら誤魔化した。
仕方なく、リンも中田も本堂へとぼとぼと歩き始めた。
本堂では住職がいそいそと線香の準備をしていた。
リンが歩み寄って声をかける。
「すみません、何か手伝いましょう」
「ああ、いい、いい。良かったら一緒にお勤めしていってください」
住職は朗らかに笑ってそう言った。
そんなやりとりをして、リンはしずしずと外陣へ降りた。もっと気を利かせないとな、などと反省をする。
ユイチはしれっとした顔で、中田と共に既に外陣に座っていた。
初めてこの本堂で彼女の姿を見た時にも思ったが、その姿勢は禅宗か何かの僧侶かと見紛うほどに整っていて、黒の衣を着てしんと正座するその姿は、僧侶としてとてつもなく、美しい。
その表情にも、先ほど桜の木の下で見せたような微笑みは浮かんでいなかった。初めて見た時同様の、凛とした無表情だ。
リンは美しい尼僧の姿をじろじろと観察しながら、少し距離を取ってその隣に正座した。
晨朝の勤行は実家の龍音寺でも毎朝勤められていたが、リンは大学へ進学してから朝が早くなり、それで実家の晨朝には参加しなくなっていた。今は、実に数年ぶりの本堂での晨朝だ。やはり、懐かしくも、新鮮だった。
勤行は決まって合掌、念仏、礼拝、という一連の所作で始まる。
ひとり内陣に座った住職に合わせて、全員が揃って手を合わせる。そしてそれぞれが口々に零した念仏の中で、リンはユイチの声の力強さに、少し驚いた。
やがて偈文を読み始めた時、リンはまた驚いた。思わず目だけでユイチの横顔を窺ってしまう。
住職の親しみある眠たそうな声、そして今にもお浄土へ行ってしまうんじゃないかと思うような力無い中田の声、その中でユイチの声だけが、まるで無双の騎士のように強く、はっきりと通っていた。
声量、音程、拍、そしてぴくとも震えないその美しさ、濁りの無さ……、全てが見事に磨きぬかれた、それは、とても美しい声明だった。
決して寝ぼけていたつもりはないのに、その声を聞いて、寝起きの顔に水を掛けられて叩き起こされたような、そんな感じがしたのだ。思わず大きく開いた瞼の隙間に、それまでよりも鮮明に、内陣の荘厳が迫ってくるようだ。
リンは小さい頃から称え慣れているその偈文を淡々と読んでいたが、隣のユイチの声に気圧されて、どことなく恥ずかしさを覚えた。努めて意識を消し、普段通りに一定に、と自分に言い聞かせながら、リンは勤行を続けた。
驚きはやがて穏やかな心地よさへと変わり、うっとりとさえした境地に浸っている間に、30分ばかりの短い勤行は終わりを迎える。最後の一声が途切れた後には、妙に淋しげな余韻が残っていた。
勤行が終わると、中田は笑顔を浮かべていた。
「ユイちゃん、今日もいい声だったね」
そう微笑まれ、ユイチの凜然とした姿勢はほろりと崩れ、恥ずかしそうに頭を掻いて笑った。
ほんとにいい声だったよ。なんてリンも横から口を出したくなったが、やめておいた。
中田はふいに、住職さん、と呼んだ。内陣にいた住職が、びくりと背筋を伸ばして反応する。
中田は黙って手招きをする。住職が外陣へ降りると、何やらこそこそと小声で話し始めた。会話は聞かれないようにしているようだが、視線がこちらへ向いてくるので、話の内容は容易に察せる。どうせユイチの頭とリンのことだろう。
住職も答えに困っているようで、苦笑いを浮かべながら頭をかいていた。素知らぬふりをして、リンは立ち上がった。
同じように平然とした様子のユイが、本堂の障子を閉めて回っている。リンも黙ってそれに倣う。
自分が閉めようとした障子が、ちょうどリンによって閉められた時、ユイチは一瞬、はっとしたような顔でリンを見た。
が、すぐにふいと視線を逸らす。もう微笑みを浮かべはしないらしい。
中田と住職はまだこそこそと喋っていたが、ユイチとリンは庫裏の方へ戻った。
「上手いんだね」
2人で庫裏への渡り廊下を歩いている時、リンはユイチの後ろ姿にそう声をかけた。
ユイチは変な顔をしてちらりと振り向く。
「いや、お勤めさ」
そう言うと、ああ、と納得したようにユイチは頷く。
そして得意げに笑って、ふふんと息を吐いた。
「あなたのお念仏も、尊かったですよ」
ユイチはさらりとそう言った。え、と小さく声を漏らしてリンは戸惑ったが、ユイチはお構いなしに前へ向き直って、すたすたと歩いて行った。
リンはなんとなく自分の喉の上を手で押さえた。
小声で、称えてみる。南無阿弥陀仏と。
このユイチなどと比べれば濁りきったザラザラの声が、そんなに良いものか、などという考えが頭をよぎって、
すぐに、自分が褒められたわけではないことに気が付いた。
はっとして前を見ると、既にユイチの姿は庫裏の中へ消えていた。
くそ、一本取られた、とリンは胸中で舌打ちをした。どうやら、この尼僧は変わり者なだけではなくて、なかなかに憎らしい性格をしているようだ。
後注。
「声明」とは、仏教の儀礼で扱われる声楽のことです。
「荘厳」とは、仏像など信仰の対象を飾る、造りや仏具などの飾りを言います。