第1話-2
時々、どこに立っているのか、分からなくなることがある。
この目に映る、色とりどりの景色を、ひとつずつ分解して。
空はなぜ青いのか。それはきっと、青くあってほしいと、私達が望んだから。
人の肌はなぜ暖かいのか。それはきっと、生きるという営みを血液の温度で肯定したいから。
美しい花は、友人の笑顔は、幸せな時間は、すべて、すべて、すべて、すべて……
色鮮やかな景色が崩れて、混ざり、濁り、大きなうねりとなって私の存在を飲み込んでいく。
濁った波の先に見えるのは、ただただ、無限に広がっていく、無の闇。真っ黒な世界。何もかもが無い世界。
そんな世界に、自分がどうやって立っているのかが、分からなくなるのだ。
――では、この苦しみは。
私は何に苦しむのか、なぜ苦しむのか。
苦海に沈むこと久しい私の存在を、救わんと願う声がある。
かの佛は、私にこう呼びかける。あなたを苦しみから救う。必ず、間違いなく救う。ただ我に任せよ、我が名を称えよ、と。
生まれた時から嫌というほど聞かされた、法蔵比丘の物語――
ああ佛よ、それでもあなたのお救いの呼び声は、私の耳にはこう聞こえるのです。
その愚かさ故に、その愚かさの分だけ、十分に、嘆き、苦しめ、凡夫よ、と。
お前風情に与えてやる救いなど、どこにもありはしないぞ、と……
真っ黒な世界に、白く一筋の地平線が見えた。
光はやがて幅を増し、その隙間に、足元の砂利の色が入り込んでくる。
足元に視線を落としたまま、はあ、と大きなため息を吐いた時、軽薄な爆発音が、空疎にもリンの鼓膜を劈いた。
「篝倫海くん、ゼミ発表の無事終了、おめでと~」
ついで、白々しいセイヤの声が聞こえる。火薬のにおいを纏ったクラッカーのカラフルな紐が、だらりと視界に下りてきた。
「なにお前、クラッカーなんて用意してたの」
金網の上の肉を弄りながら、ケイが乾いた笑みを浮かべている。
リンは折り畳みベンチに深く腰掛けたまま、気だるげに顔をあげた。
その生命力のない表情を見て、セイヤはカラカラと笑う。
「さあリン、今日はお前の発表お疲れ様と、失恋ご愁傷様パーティだ。肉はたんとあるぞ、食え食え!」
「余計なお世話だ……」
リンは疲れたため息を吐きながら言った。
「まあまあリン、このくそ寒いのにお前のためにバーベキューパーティを企画してくれるなんて、いい友人じゃないか? ちょっとは喜べよ」
ケイが肉をつつきながら言う。
「いや俺のためにって……、お前らただ騒ぎたいだけだろ! ここ俺の家だし!?」
そう声を荒げると、2人の友人は楽しげに笑ってみせた。
まだ冬の気配も辛うじて身を潜めている秋の夕方、龍音寺の広い境内の片隅で、男3人は好き勝手に盛り上がっている。
そこへ大きな盆を持って、若い女性が歩いてきた。
「みなさん、楽しんでますか~」
そう微笑みながらミユはリン達に声をかける。途端にセイヤとケイはびしりと背筋を伸ばした。
「あっ奥さん! 騒がしくてすみません、お邪魔してます!」
ケイが表情を引き締めて言う。
「ううん、全然構わないわよ。これ、うちにあったお肉とお野菜なんだけど、よかったら使って?」
「ええ、いいんですかそんな。あっよかったら奥さん達もご一緒にどうですか?」
「あら、混ぜてくれるの? うちの子も喜ぶわ」
ミユはにこにこと笑ってそう答えた。気だるげだったリンが慌てて顔を上げる。
「ちょっと義姉さん、あんまり騒がしくしてもだめだって。父さんとこにもなんかお客来てるんでしょ?」
「ああ、なんか古いお友達だから大丈夫って」
そう軽く答えるミユに、リンは、えー、と不満気な声をあげながら頭を抱えた。
「いいじゃない、たまには賑やかにさ。でもリンくんのお祝いのためにこんなことしてくれるなんて、いいお友達よね」
「ねーやっぱそうでしょ!? さすが奥さんは分かってるな~」
ケイが冗談めかして笑う。
「本音はこの伊達男の失恋を笑ってやろうってだけだけどな」
セイヤがそう笑って肘でリンをつついた。またどっと笑いが起こる。
リンも深いため息を吐きながらも笑った。
「でもまあ、かわいそうだとも思うぜ。可愛かったもんなあ、香穂ちゃんさ……」
セイヤがリンの元にしゃがみこみ、ため息を吐いて言った。かつての恋人の名前を唐突に出され、リンは顔面を両手で覆ってしまう。
「お似合いのカップルだったもんなあ。にしてもリンでもフラれることがあるんだって思って、ちょっと安心したよ」
肉を焼きながらケイがからからと笑う。指の隙間から、リンはじとっとケイを睨んだ。
セイヤは首を横に振りながらにやりと笑う。
「いやいや……、お前も他人事じゃないぜ、ケイ? リンがフラれた理由聞いたかよ?」
「え、なに? 知らない」
「やっぱりお寺の息子と一緒になるのはイヤだ、って」
そうセイヤが声を凄ませて言うと、ケイはぶっと吹き出して笑い始めた。
「マジかよ。えーでもリンは次男……、あ、三男か? だからいいじゃないかよ!」
「それがこいつ、僧侶になった以上は寺と縁切って生きていくつもりはない、とかって言い張ってさ。それで喧嘩別れだって」
「へえええそうなんだ……」
ケイがやや声を引きつらせて言う。リンはただ頭を抱えていた。
そんなやりとりをしているうちに、ミユに招かれて、庫裏の方から更にメンバーが加わってきた。腕に息子を抱きかかえた、リンの兄だ。
「おお、やってるな。ほらケンジ、バーベキューだぞ、バーベキュー」
オンはそう言って息子をあやすが、ケンジはセイヤやケイと言った見慣れぬ顔を見て緊張しているらしい。
「あ、お兄さん、お邪魔してます!」
そう言ってケイはオンに頭を下げる。オンは自分の首にしがみつく息子をなだめながら、笑って頷いた。
「あはは、火が怖いのかな? 息子さん、かわいいですね~! おいくつですか?」
「ほらケンジ? 何歳だ?」
オンはケンジの顔を覗き込んで微笑む。ケンジはむすっとした顔で、片手の指を3本突き出した。
「3歳? へえ~、自分で言えるの、えらいなー!」
ケイはそう喜んでケンジの頭を撫でようとするが、ケンジは相変わらずの顔で、その手を思い切り振ってケイの手を払ってしまった。
そんなケイの扱われように、また笑いが起こる。オンも申し訳無さそうに笑いながら、ケンジの頭を軽く叩いていた。
やがてミユの姿を見たケンジが、オンの腕の中で暴れだす。どうやら父親よりも母親の腕の方をご所望らしい。
はいはい、と呆れたように笑ってミユはケンジを抱きかかえた。どこか悲しげなオンの姿に、ケイの同情の笑いがかかった。
小さくため息をつきながらも、腕が軽くなったオンが、座り込んでいるリンの元へやってきた。
リンの隣に腰掛けて、ぼそりと声をかける。
「……落ち込んでるな」
リンは片手で自分の顔面を抑えながら、またため息をついた。
「そりゃあ、まあ……」
オンはリンから視線をそらし、遠い目でバーベキューの方を見やりながら、落ち着いた声色で言う。
「まあ、宗祖も言っている。つくべき縁あれば伴い、離れるべき縁あれば離れると……。人生、そんなもんだよ」
「いや……そんな本気で慰められると余計にくるんで……」
リンは引きつった笑みを浮かべながら言った。オンが引いた言葉は、今まで何度触れたことがあるか分からないほど、リンにとってあまりにも馴染み深く、またリン自身が僧侶として人々に説いてきた教えそのものだった。
それが今は自分に向けて語られているという事実が、まるで親しんできた言葉に裏切られたみたいに感じられたのだ。
だいたい宗祖のその言葉は、別に失恋とか愛別離苦という文脈で語られたわけではないし……
そんな文句が胸の内に浮かんでくるも、それを口にする気力もなくて、ただリンは黙って目を瞑った。
「そうか」
オンは小さく笑って言った。
そうして口を噤んだオンの姿に気遣いの色を感じて、リンは余計に恥ずかしくなってくる。
自分を奮わせるように荒っぽくため息をついて、リンはがりがりと自分の長髪を掻いた。
「それにしたって、何だったんだよって思うよ。3年も付き合ってさ、結局は寺に生まれたってだけで嫌われるんだ。結局俺自身のことなんて何も理解ってくれてなかったんだなって」
そう口を尖らせて言うリンに、オンは黙って穏やかな視線を向けた。
リンはその視線から逃れるように目を伏せて、悲痛な声を零す。
「“愛”なんて……、所詮は煩悩か」
「ああ、その通りだな」
オンはふいに口調を軽くして言った。
思わずリンは顔を上げて、恨めしげにオンを睨んだ。
「なんだよ、あんなに良い嫁さんもらっといて」
ケンジを抱くミユの方を見やりながら言う。オンも、どこか楽しげに微笑みながら、妻子の姿を見ていた。
「俺はミユを愛してるわけじゃないからな」
「見合い結婚だから?」
「そ。……つくべき縁があったというだけだ。でもそれであいつと一緒になって、俺は幸せだよ」
オンはそう言って、にやりと笑顔を浮かべて見せた。なんとなくリンは言葉を詰まらせる。
そろそろ空は薄暗くなり始めていた。折りたたみベンチに座り込んでいる兄弟の方へ、ケイが手を振って声をかける。
「おーい、そろそろ肉、いけそうだ。食べようぜ、リン!」
「おーよっしゃ、いこういこう! あ、もうビール開けるなー」
真っ先にセイヤが手を打って盛り上がる。
リンはようやく、ゆっくりと腰を上げた。
折りたたみベンチ残ったオンは、穏やかに微笑みながら弟の背中を見上げていた。
時々、どこに立っているのか、分からなくなることがある。
いつも当たり前のように2本の足で立っている。それができなくなる時があるのだ。
そういう時はいつも、気がつけば、硬くも温かい、懐かしいにおいのする畳が自分の体を支えていた。
意識はどこか遠くて、でもそれがどことなく気持ちいい夢心地の中で、家族や友人の声を聞く。
既に空は真っ暗だった。
「リンくん、大丈夫? お水飲む?」
すぐ近くから降ってくるのは、優しげなミユの声だった。
うん、とリンは力の入らない声で答えた。
「まったく、小林くん達、2人ともすごい元気ねえ。よくもあれだけ飲んで騒げるものだわ」
ミユは遠目にも盛大に盛り上がってるセイヤとケイを眺めてため息をつく。
「恩海さんもよく付き合ってるけど」
そう言ってくすりと笑った。
リンは畳に寝そべったまま、酒で濁った目でぼうっと、縁側からバーベキューの様子を見つめる。
父の血を濃く継いだオンとは違って、リンはアルコールへの耐性が強い方ではなかった。
そこへどしどしと足音を立てて廊下を通ってくるものがあった。
「おおミユさん、ここにいたか。ちょっと台所の方、手伝ってやってくれるか」
そう言ってミユに声をかけたのは龍音寺の住職だ。
ミユははい、と一度頷くも、べったりと畳の上に倒れているリンの方を心配そうに見やった。
「お義父さん、でも倫海くんが……」
住職は言われて初めてリンの存在に気付いたらしい。うお、と小さく驚きの声を上げた。
「なんだ、また潰れてるのか? まったく、酒には飲まれるなといつも言っておろうが。ミユさん、構わんから台所へ行ってくれ。こいつは私が見とく」
住職は呆れたようにため息をついた。はい、とミユは笑って、したしたと去っていった。そして住職がどっかとリンの横に座り込む。
リンはぼんやりとしたまま父の姿を見上げた。そんな息子の背を、父は大きな手でばしりと叩く。
「ほら、いつまでも寝そべってるんじゃない」
リンは息を詰まらせるように小さく咳をして、やがてのろのろと起き上がった。
ミユが用意してくれた冷水を喉に流すと、少し落ち着いたような息をつく。
「お客さんは?」
住職に視線を向けながらリンが聞いた。
「今帰ったよ。私の大学からの後輩でね、善心寺のご住職だ」
リンはふうん、と素っ気ない返事をした。
「リンお前、恋人と別れたんだってな」
突然父から出た言葉に、リンは危うく水を吹き出しそうになった。
住職に恐る恐る視線を向けながら、恨めしげに零す。
「オン兄から聞いたの……」
「まあな。若い内の恋愛なんてそんなもんだ」
住職はさらりと言ってのける。兄にかけられた慰め以上に素っ気なく、リンは不満を覚えることすら面倒だった。
数秒、溜めるように沈黙して、住職はふとリンの目を見てきた。
「で、失恋で傷心中のところあれなんだが」
「?」
リンはやや眉を寄せて住職を見る。
住職は作務衣の懐をまさぐりながら言った。
「縁談を受けてみる気はないか?」
リンの表情が固まった。
住職は懐から出した写真をリンに差し出す。
「善心寺の一人娘。歳はお前の一個下。美人だぞ」
リンは黙ってその写真を受け取る。見合い写真らしい、振袖姿の美女が眩しく写っていた。
「一人娘……。じゃあ、俺が婿入りするの?」
「そうだな」
「そっか……」
リンの声色は淡々としていた。
しばらくじっと写真を見つめていたが、ふと視線を上げて縁側の方を見る。
まだ収まる気配を見せない宴会が炭火を囲んでいた。オンとケンジもすっかり打ち解けて、セイヤ達と楽しそうに騒いでいる。
「結婚したら、幸せになれるのかな」
リンがぽつりとそう零した。
そんな息子の背を、父はまたばしりと叩く。
「バカ。お前が幸せにする方だろうが」