第1話-1
トップのイラストは、1話の2以降に登場する主人公「リン」です。
もう、秋は去ろうとしていた。
木々は紅葉の装いを解き、いよいよ近づいてくる冬の気配に身を強張らせているようだ。
今日も、どこからともなく飛んでやってくる枯れ葉を箒で掃きながら、冷たい空気に小さく身震いする。
そんな、まだ日も登り切っていない薄暗い早朝に、ひたりひたりと小さく足音を立てて歩く人影が見えた。
はたと手を止めて、唯はその老婦の方へ視線を向ける。
中田はしわしわの顔を、更にしわだらけにしてにっこりと笑って、曲がった腰を更に曲げてぺこりとおじぎをした。
「おはよう、ユイちゃん」
そして、いつもと同じ声でそうあいさつをしてくるのだ。
唯も笑って頭を下げる。
「おはようございます、中田さん。今朝もお早いですね」
「ユイちゃんの声が楽しみでしょうがなくてね。今日もよろしくお願いね」
中田にそう微笑まれ、唯は恥ずかしげに頭を掻いた。
「はい。もうすぐに向かいます」
そう返事をして、唯は枯れ葉掃きを急いだ。
午前6時。いつもと同じように、善心寺の梵鐘の音が高らかに響く。
午前6時半。いつもと同じように、善心寺本堂の中、内陣の所を住職が慌ただしく歩く。
広い外陣には、開け放された障子からひやりとした風が通って行く。その畳の上に座っているのも、いつもと同じ、唯と中田の2人きり。
2人の正面には、きらびやかな荘厳に包まれて、鈍く光る仏像が静かに佇んでいる。その南側の席にどしりと住職が正座をする。
3人は揃って手を合わせ、口ぐちに念仏を零した。住職の眠たそうな声と中田の今にも消え入りそうな声が、唯の力強い声に引っ張られていくようだった。やがて住職が鏧を叩き、ぼそぼそと偈文を読み始める。
唯はその肺に朝の空気を大きく吸い込んで、やがて声帯を震わせて吐く。住職の声に節を重ねて偈文を読むその声は、始めに零した念仏よりも、大きく強く、凛と空気に通るような、清々しい声色だった。
何年も、何十年、何百年も変わらない日常。“晨朝”、または“お朝事”と呼ばれる、この30分ばかりの勤行で、今日も一日は始まった。
勤行が終わると、座っていた中田が立ち上がり、また唯へ頭を下げる。
「いやあ、目が覚めたわ。今日もいい声だったよ、唯ちゃん」
「あ、ありがとうございます。今朝もようこそお参りでした。足元に気を付けて……」
唯は恥ずかしそうに笑いながら、いつもと同じ文句で中田を見送る。
中田は何度も頭を下げて、杖をつきながら、ゆっくりと本堂から降りて行った。その背中を見守りつつ、唯は本堂の障子を閉めて回る。
全部を閉め終えると、先に去った住職を追って、いつも通りに居間へと移動した。
居間の食卓には朝食が並べられている。すでに住職と前住とが先に座って待っているのがいつもの光景だったが、今日は前住だけがぼんやりと座っていた。
「父さんは?」
唯が聞くと、前住は、サア、と抜けた声で言って首を傾げる。
やがてお盆を持った坊守も、台所から食卓へやってきた。
「あら、トモユキは?」
坊守ものんきに住職の姿を探すが、前住も唯も首を振った。
その時ようやく、廊下から食卓へ向かう足音がドカドカと慌ただしく聞こえてきた。
全員が席につくと、4人は揃って手を合わせ、食事を開始する。特に決まり事がある訳ではないが、朝の食卓はなんとなく静かだ。
次第に皿が空いてくると、いつも最初に喋り始めるのは坊守だった。
「今日は晴れるみたいね」
「ん……、そうだな」
どこかぼんやりとした調子で住職は相槌を打った。
「まあ、良かったじゃない。雨が降ったらお参りも大変だし。今日は午前中、山本さんとこのご法事だったわね?」
「それは来週だ」
「あらそ。じゃあ今日は何もなし?」
「午後から吉岡さんとこのおばあちゃんの四十九日」
「まあ、もうそんなに経つのね」
淡々と坊守と住職は喋っていたが、ふと住職が会話を切り、唯の方へ視線を向けた。
「ところで、ユイ」
「ん?」
まだ味噌汁を啜っていた唯が、何気ない調子で返事をする。
「まだ早いかとも思うんだが……」
住職はいつになく神妙な顔をして、言葉尻を濁らせた。唯は味噌汁の椀を下ろし、訝しげに住職の顔を見た。
「お前、婿の候補はいないのか」
住職がそう言った直後、ガツンと大きな音が鳴った。唯が味噌汁の椀を机の上に置いた音だ。
びくりとして他の3人は唯の方を見やる。唯は冷め切った表情を浮かべていた。
「要りません」
そして力強い声で、きっぱりとそう言った。
「いや、いらないってお前……。いないなら、ちょっと紹介したい人がいるんだが、一度会ってみないか」
ややたじろぎながらも、住職は本題を切り出した。唯の目は据わっていた。
「まあ、お婿さんなんて、まだ早いんじゃない?」
横から坊守が口を挟む。住職は髪の薄い頭を掻いた。
「まあ、それもそうなんだが。父さんの先輩の息子さんで、立派な方がいてね……」
「立派な方? 立派な寺の方、の間違いじゃないの?」
唯は呆れた声でそう言った。ますます住職は難しい顔になる。
「ま、まあ、お寺も立派だが、息子さんも立派なんだ。今R大学の大学院で勉強をしていて、将来学者としても有望だぞ」
するとまた、坊守が口を挟む。
「あらまあ、それは素敵ねえ。ユイ、会ってみなさいよ」
すぐに住職の味方になってしまう坊守を見て、唯はため息をついた。
「だって学者さんだったら頭もいいし、きちっとしてらっしゃるでしょ。いいじゃない、将来住職になってもらうんだったらそういう人の方が」
軽い調子で言う坊守に、唯は疲れた視線を向ける。
「だから、要らないって」
どうやら頑なであるらしい娘の様子を見て、住職は困った顔になってしまった。
「お前もまだ若いんだし、そう急いた話じゃない。とりあえず会ってみるだけでも……」
そう言い聞かせようとするが、やはり唯は首を横に振った。
困った顔の住職と、不思議そうな顔をした坊守が黙って顔を見合わせる。
唯は大きくため息をついて、食器を片付け始めた。
「ごちそうさまでした」
そう冷めた声で言い、早々に食卓を去ろうとする。
慌てて住職はセーターのポケットをまさぐり、そこから一枚の写真を出した。
「これ、彼の写真だ。まあ、ちょっと考えておいてくれよ」
そう言って住職は写真を唯の手前に差し出した。
唯はちらりとそれに一瞥をくれたが、すぐにフン、と乾いた息を吐いて目をそらす。
そして写真を受け取りさえせず、さっさと唯は居間から抜け出してしまった。残された住職は仕方がなさそうに頭を掻きながら、小さくため息をついた。
「まあ、まだいろいろと複雑な年頃なんじゃないの」
唯の去った方を見て、坊守は優しく微笑んでいた。
ついでその場に放置された写真を覗き込んで、くすりと笑う。
「あらま、いい男じゃないの」
「ばあさんに好かれたってしょうがないだろ……」
前住はのんきな声で言った。
ざっくり後注
・前住…前の代の住職のこと。
・坊守…だいたいは住職か前住の配偶者のこと。