第一話「陰惨」
「私は幸せだった」
貴方は世界の誰よりも愛しかった。
あの子達は世界の何よりも大切な宝物だった。
もちろん、嬉しい事楽しい事ばかりじゃない。辛い事、大変な事だっていっぱいあった。
でも、貴方が居たから乗り越えられたし、子供達が居たから、喧嘩しても、すぐに仲直りする事が出来た……。
本当に幸せだった。
あの時間以上の幸せは、もう味わえないだろう。
何故なら貴方達はもう、この世に居ないから――
*****
「おはよう、僕のお姫様」
「おはよう、私の王子様っ」
何時もの朝。
青天から降り注ぐ陽光がカーテンの隙間から差し込み、雀の囀りが春の訪れを告げる。
花壇の花は蕾を開き、街路樹の桜は咲き乱れる。儚くも、やはり美しく、人々を魅了しながら舞う。
そんな最高に心地いい朝に、最高に愛しい人と一緒の時間に起きた。小さな奇跡。
「今日も素敵だよ」
「貴方も、昨日より今日の方がとっても素敵!」
結婚してはや五年、ほぼ毎日似た様な事をしている。
バカップル、なんて呼ばれたり流石にちょっと引かれたり、色々言われるが、周りなんて関係無い。私と、この人が好きなら、幸せならそれでいいんだから。
幸せだ。とっても幸せ。
「ママーパパー」
と、眠たそうな子供の声。
おやおや、君も起きたのかい?
「ママお腹空いたー!」
と、こっちは朝から元気いっぱいだ。
やれやれ、女の子なのに食い意地貼っちゃって。
私の……いえ、私達の宝物達も、目を覚ました様です。
「エディ、クロエ、二人ともおはよう」
と、彼が言う。
子供達は嬉しそうにはにかんで、私達に飛び付いた。
「こらこら二人とも……」
まだまだちっちゃいけど、昨日より少し大きく、重くなった気がする。
日に日に、大きく成長しているのだ、二人とも。
人の親にとって、これ程の喜びは無いだろう。
「おー、なんだかまた重くなったな!クロエ!」
と、まるで宝箱を見付けた少年の様な笑顔を浮かべて言う私の愛しい人。
彼も人の親として、パパとして、子供の成長が嬉しいのだろう。
「ぶー、女の子に重くなったなんでダメだよ!パパ!」
と、ふくれっ面でパパに言い返すクロエ。
やっぱり子供でも一人の「女性」なのだ。
けど、親の私からしてみれば、まだまだ「女の子」だよ、クロエ。
「ゴメンゴメン、別にそんな意味で言ったんじゃなくてさ……」
と、娘の女の子としての成長ぶりに、パパはたじたじだ。
「ママ……あの……」
と、気の弱そうな声で私を呼ぶエディ。
私の寝巻きの裾を摘まんで上目遣いで見つめてくる。
「どーしたの?エディ」
「えっと、ね……お、お……」
と、なんだが言い難そうに、モゴモゴ、と、言うエディ。
何と無く、言いたい事を察した私は、しゃがんでエディの耳元にそっ、と、囁く。
「またおねしょしちゃったの?」
と、言うと、エディは顔を赤くして、泣きそうな顔で頷いた。
まだ三歳だが、もう三歳とも言える。
最近は大分少なくはなって来たものの、やはりこうしてたまにやらかしてしまう。程度によっては簡単に処理出来るが、布団の中にまで染み込んでたら、かなり手が掛かるかも……。
でも、本人も悪い事だって自覚してるし、申し訳無さそうにしているから、こっちもあまり怒れない。
「ご、ごめんなさい、ママ」
と、大きな瞳を潤ませて謝るエディ。
頑張って泣かない様に堪えてる、男の子だなぁ。
エディも男の子として成長している様だ。
「大丈夫よ、昨日はしなかったでしょ?明日はしないように頑張ろうね」
と、私は優しく励ます事にした。
すると安心したのか、頑張って耐えていた涙のダムが決壊して、大粒の涙が零れ出した。
「うわぁぁぁん!」
私の膝で大声で泣き出してしまった。
まだまだ子供だなぁ。
私は幸せな気持ちで胸がいっぱいです。
「どーしたエディ⁉︎」
と、突然の泣き声に驚いて、エディに駆け寄るパパ。
「大丈夫よエリック、ちょっと……粗相をしちゃっただけよ」
と、私の大好きな王子様に向かって、私はそう答えた。
「なんだそんな事か。大丈夫だぞーエディ!また子供なんだから良くある事さ」
と、満面の笑顔で慰めるエリック。
いや、寧ろ喜んでいる様にも見える。
クロエの方が大人に成長しかけているのを見て少し落ち込んでいたところに、まだあエディの幼いところを見れたので、有る意味嬉しかったのだろう。
「ぼっ……僕もう子供じゃない!……よ、パパ」
と、エディがエリックに向かって強く反論した(ただ最後はやっぱり弱気だね)凄く珍しい事だ。エディも順調に、強い男の子に成長している様です。
あれ?さっきも似た様な事言った気がする……まぁ、何度でも言いたい。大好きな大好きな、私の宝物なのだから。
「そっ、そっか。エディももう三歳だもんな!ははは……」
エリックも、エディやクロエの成長はとても嬉しいし、喜ばしい事な筈だし、実際そうなのだ。
だか成長する度に、子供達が遠くへ行ってしまう気がして、少し悲しいというか、寂しいのだろう。
まだ五歳三歳。これから五年十年と、まだまだ成長していくというのに、こんな事では先が思いやられるぞ?私の王子様。
「……なぁ、ヒメ」
と、エリックが私の名前を呼ぶ。
この辺りではかなり珍しい名前だと自負している。私のお母さん曰く、私達の一族の祖先は、東洋の国の血が流れているらしく、私の名前もその国の言葉から取ったらしい。
「なぁに?エリック」
と、私の最愛の人の名前を言って返事をする。
そんな当たり前な事にも、幸せを感じてしまう。
「子供達……成長してるな」
と、涙ぐみながら言った。
その涙は悲しみの涙か喜びの涙か……。
とりあえず、前者の方だと理解したい。
「もう、しっかりしてよお父ーさんっ。そんなんじゃ先が思いやられるよ!もっとしっかりしなきゃっ!」
「そうなんだけどさ……なんと言うか、二人がどんどん離れて行っちゃうような気がして……」
「だ、か、ら!そんな弱気でどーするの!と言うか、弱気になるよーな事じゃないよ?普通は喜ぶ事だよ?」
「そりゃ、僕だって二人が育っていくのは嬉しい事だよ。けど、やっぱり、可愛いからこそ、なんかこう、離れていっちゃう気がしてさ」
「もう……親バカも過保護も通り過ぎちゃってるんだから」
これが、ここ最近ずっと続いている家族の営み。子供は成長し、私は喜び笑い、夫は泣いて喜ぶ。
こうやって、だんだんとクロエ達は大人になって、いつか好きな人が出来て、結婚して、私達の元を離れ、孫が生まれ、そしてその孫も大人になっていく。
反対に私達は歳を取って、だんだんお爺ちゃんとお婆ちゃんになっていく。
二人で一緒に腰を曲げて、目も悪くなって耳も遠くなっていく。それでも、それでもきっと、いつまでも私は、貴方を愛していく。
そうやっていつまでも、私は幸せでありたい。そう強く願っている。
でもね、現実はそんなんじゃ無んだ。
って、私はもうすぐ、理解してしまう事になるんだ。
昨日まで幸せだったとしても、今の今まで愛し合っていたとしても――
「なぁ、ヒメ」
「なぁに?エリック?」
朝食のスクランブルエッグ食べながら、エリックは言った。
「今日天気いいじゃん?仕事も休みだしさ、みんなでどっか出かけない?」
外は雲ひとつ無い、冗談みたいな青空が広がっている。
まさに絶好の外出日和と言える。しかし……。
「すごくいいアイデアよ!けど、大丈夫?今は外、ちょっと危ないって言うし……」
最近、政府の暴政に対して革命を起こすとか言う組織が出て来たり、何だかきな臭くなっていた。
正直、私達普通の庶民の暮らしは、これといって困窮しているという訳でも無く、悪代官が蔓延り悪さをしている……という噂も聞かないし実体験も無い。
なので実際、彼らが一体何をしたいのかがいまいち理解出来ない。ただ私達普通の人々の安穏な暮らしを、幼稚で残忍なテロリズムで脅かしているにすぎない。
その事もあり、あまり不要な外出は控えていた最近である。
「大丈夫さっ、いざとなったら俺がみんなを守るから」
最愛の男に最高の笑顔でそんな事言われたら、普通の恋する乙女ならころっと信じて信用してしまうんではないだろうか?
少なくとも、この時の私は、馬鹿みたいに信じこんでいた。
……今思うと、凶器を持った相手に、丸腰の彼が一体全体どうやって勝利を得ようというのか?……少し考えれば分かった筈だ。
この時、私が、ほんの少し我慢をして、ほんの少し強気に「今日はやっぱりやめよう」と言えば、今私はこんな物を握っている必要は無かったかもしれないし、あの惨劇も無く、私達の平和は続いていた筈なんだ。
だがもう手遅れ。時は戻らない。人間の生命と同じ様に……。
この陰惨な記憶は、私の脳裏から、生涯、消える事は、あり得ない。