第四回 貴人と乾闥婆王
俺は大きな桜の花を見上げながら小路を歩いている。今日は待ちに待った花見の日だ。それに天が祝福してくれたかのような五月晴れ。まったく運が良い。これなら大きな欠伸が出ても許してくれるってもんだ。
「今日の花見は楽しみだ。桜も八分咲きで綺麗なもんだな」
俺は声を陽気に弾ませた。それと同時にスマホの振動する感覚が伝わる。俺はいい気分を阻害されて少し不愉快なそうな表情で胸ポケットに手をやる。だがその時、隣で歩いている翔子から唐突に声が上がった。
「あ、氷魔からLINEきてる。それに桜のおまけ付き」
翔子は取り出したスマホを俺に見せてくる。少し呆れた笑いなのは微妙に気になるが。
どれどれ、と俺は差し出されたスマホの画面を見る。そこには見事に咲いた桜の画像と
『ところでこの桜を見てくれ。こいつをどう思う?』
という妙なコメントがその下に付いていた。俺も思わず呆れ顔をする。
まあ、あいつは花見の席取り組だから暇で暇で仕様がないのだろう。
だがと、俺は少し考えた。今の時間ならそれなりに人数がいるはずである。ならばあいつのことだ。少し飽きがき始めているのかも知れない。このままだと花見客をナンパするまで容易に想像できる。しかしあんなことがあったのにあいつは全然懲りてないと思う。
俺は翔子のスマホから目を離すと、自分のスマホを見る。花見のグループLINEでつながっているので同じコメントが当然ながら付いていた。
俺はしばらく桜の写真を眺めているとさっそくコメントが矢継ぎ早に付いていく。
『ウホッ! 良い桜……』『凄く…綺麗です…』『(花見)やらないか?』『アー!』
というコメント群。これには俺も苦笑い。みんな、ノリが良いなぁ。
不意に立ち止まり後ろを振り返と、スマホを見ている神虎が視野に入った。何やら難しい表情でスマホを操作している。恐らくやり慣れないLINEで四苦八苦しているのだろう。時折妙な声が漏れる。
俺の幼馴染は良く西洋人と間違えられる。東洋人と思えぬ彫りの深さと白い肌、長身と一般人が知る西洋人三要素が凝縮されている外見をしているからだろう。それに加えて映画俳優のように整った顔立ちをしている。なので稀に知らない女性から告白されるという羨ましいイベントが年次イベントのように発生した。
俺にはまったく発生しないけどね! く、悔しくなんかないんだからね!
やはりスマホに苦戦している神虎を見ながら何組かの女性のグループが通る。彼女らはまるでアイドルを見るような表情で神虎を横目に見ながら通り過ぎて行った。
その時急に突風が吹いた。桜がざわめく。美しい桜吹雪が視界を覆った。俺は思わず目を瞑る。
ああ、もう春は来ていたんだなと俺は当然のことを思った。危難がそこまで来ているというのに我ながら暢気なものだなと自嘲気味に軽く笑う。
神虎はそんな俺の現状を見かねて警護役を買って出てくれた。有難い話ではあるが今の様子を見れば果たして警護役を上手く演じ切れているか甚だ疑問である。
そんな俺を見て翔子は不思議そうに首を傾げる。
「なにニヤニヤしてるのよ。何か変なことでも考えてたんでしょ?」
翔子がとてとてと近寄ってくる。
「い、いや別に何も……」
俺はとっさに良い言い訳が思い浮かばず思わずコミュ障みたいな態度になってしまった。
翔子は怪訝な表情で上目遣い気味にじっと見てきた。
「ほんとうにー? 何か怪しいわね」
まるで不審者を職務質問する警察の様な声音だ。
「おーい! 王竜さん、翔子さん! こっちですよー! あ、神虎さんがあんなところにいる……」
横合いから急に声が上がったので少々驚いた。そちらを見やれば氷魔が相変わらず締まらない笑顔で手を振っている。
翔子は桜にも負けない満開の笑顔を咲かせながら花見の会場へと急ぐ。どうもあいつの中で食い気が勝ったようだ。俺はほうっと胸を撫でおろした。
「王竜! 早く来なよ! すごい御馳走がいっぱい!」
翔子は言いながらも視線はこちらを見ていない。声は上機嫌である。頭の中は目の前にある食べ物でいっぱいだろう。
俺は振り返り神虎を呼ぶと花見の会場へと急いだ。こんな平和な時がずっと続けば良い、と柄にもない事を考えてまた今度は優しく微笑んだ。
※
俺が太秦姉妹と花見の会場に着いたのはすでに太陽も落ちかかっていた頃であった。
着いた時は阿鼻叫喚、酒池肉林の四文字熟語が似合う花見になっていた。まあ、毎年恒例の事なので予想は付いていた。
身内だけの花見ではあるが友人が友人を呼ぶので何十人という規模に膨れ上がる。これで収拾がつくのかいなといつも思うのだが終わってみれば問題もなく撤収している。これはみなのマナーが良いのかそれとも龍神さんの人徳のなせる業なのか。到底俺には判断が出来なかった。
こちらとしては楽しく友人と過ごせればそれで文句も問題もない。いや、そもそも飲み食いは基本的にただなのだ。これで文句を言ったら神仏から罰が当たるというものだろう。
場所はあらかじめ氷魔から聞いて知っている。広い公園といえども相当な方向音痴でもない限りは子供でも迷うことはあるまい。
俺は常美ちゃんとごく在り来たりな会話をしながら会場へと向かった。陰穂のやつは相変わらず仏頂面の不機嫌顔を崩さない。鉄壁のガードだ。
さてとここら辺のはずだが……。
俺は周囲をきょろきょろとさながら上京したての観光客の様に見渡した。やはり花見で人が多い。この人出では誰が誰やら判別が難しい。俺が少し迷っていると、
「おーい、人志さん! こっちこっち!」
という軽薄な声が軽妙な音調でとんできた。見るまでもない。声で判る。氷魔であろう。俺は声のした方へ歩いて行くと氷魔が大げさな動作で大きく手を振っていた。子供の様な無邪気な笑顔である。
俺は反射的に手を振り返すと、太秦姉妹を連れて会場へと急いだ。もう目と鼻の先なので別に急ぐ必要はないのだがこんな時は足早になってしまう。
会場に着いた俺たちは歓待を受ける。俺は適当に空いている場所を探す。何人かの女性のお誘いも受けたが丁重にお断りした。別に女性が苦手だからではない。今日は気分が乗らぬからだ。
俺は丁度良い場所を見つけて座った。ここのグループは王竜くん達がいた。こんな時は見知らぬ他人より見知った他人の方が居心地良い。
ふむ。ざっと見渡したところ全体で4、50人はいるだろうか。相変わらずの規模だ。俺は感心してしまう。その中に方丈のメンバーである蛇鬼さんと后樹さんの顔は見えない。恐らくは方丈へ戻ったのだろう。飲み過ぎていなければ良いけど……。
「人志さん、まずは一献」
俺は考え事をしていたので少し虚を突かれる形になり驚いた。
「な、なんだ……。氷魔か。急に声をかけるなよ。びっくりするじゃないか」
俺は抗議の声を挙げた。だが、こいつがこんな抗議では怯まないのは百も承知だ。氷魔はニヤニヤしながら、
「また女性でも見てたんですか? いやー、お盛んですねぇ。あ、それと飲み物は何にしますか?」
「別にお前じゃないんだから、四六時中女のケツなんか見張ってないよ。緑茶はあるか?」
氷魔は、ほいさと返事をすると2ℓのペットボトルを出して継いでくれた。俺はお礼を言いながらそれを受けた。
「またまたあ。あ、ならあれだ。蛇鬼さんと后樹さんなら人志さん達が来る前に帰りましたよ。締めの一杯と言って一升瓶を空けて行きましたけどね。ほら、あれが証拠品」
氷魔は察し良く話しながら苦笑いを浮かべて、目線を後方に送る。俺はちらりとそっちの方向を見やる。一升瓶がごろごろと転がっているのが目に映る。俺は嫌な物でも見たかのような表情を作りそっと視線を戻した。
うん、あの一升瓶の墓場は見なかったことにしよう。そうしよう。
「あれ、そう言えば主催の龍神の明さんは見かけないけど。どこにいるんだ。まさか、欠席ではないよな? 挨拶がしたいと思ったんだが」
俺は気を取り直して、と言うより話題を逸らすように氷魔へ問い質した。
「あら。さっきまでここにいたと思ったのになぁ。どこへ行ったものやら」
「ああ、明さんなら今、買い出しに行ってますよ? あの2人が酒をほとんど飲んでしまったので在庫が乏しいとか言ってましたから」
氷魔が首をかしげながら周囲を探しているところへ、横合いから王竜君が答えてくれた。俺は軽い挨拶と答えてくれたことへの謝礼を述べた。
また話題が戻ってしまったな。俺は同じ方丈のメンバーとして何か申し訳ないと心の中で謝罪した。
俺は王竜くんや氷魔たちと日常のくだらないことで盛り上がった。
無事に龍神さんにも挨拶と酒に関しての謝罪を伝えた。龍神さんは爽やかな笑顔で、気にすることはない。彼らがいると盛り上がるのだ。と楽しそうに言った。
そろそろ太陽も完全に落ちて夜が辺りを支配していく時間である。そろそろ花見も終わりだ。短い時間であったが今回も有意義な時間が持てたことに満足していた。
春といえどもまだこの季節は冷たい風が吹く。その風が呼び水になったのか急に小便をしたくなった。
花見も終わるし丁度良い機会なのでもう帰るとするか。
俺はすぐに考えをまとめると周りに帰りの挨拶を済ませ席を立った。
陰穂たちには後で謝っておこう。
トイレは思ったより近くにあり行列が出来ている気配もなかった。俺は幸運に感謝すると足早にトイレへと向かった。
溜まっていたものを出してスッキリしていた俺は少し遠回りして帰ろうと考えた。
公園でも散歩して風流に夜桜見物と洒落込むか。
俺は流行りの歌を口ずさみながら軽快に歩く。周りは酔っ払いの喧騒が聞こえるが今は気にならなかった。俺はそんな喧騒に混じって何か異音が聞こえてくるのを聞き取った。
この音色は……。弦か? 高貴で優美な音を奏でる。なかなかの腕前と見た。
俺は音色に誘われるかのようにふらふらと歩きだす。聞く者を魅了する素敵な音調を生み出す者を見たかったのだ。この音色と比べるとこの世界はなんと雑音に満ちていることか!
俺は早く音色の主を見つけたかった。
音の主を探す冒険はすぐに終焉を迎えた。そこで俺は信じられない光景を見た。視界に入ったのは芸術であった。
冴え冴えとした満月。月光に照らされた桜。枝に座り笛を吹く女性。
そのすべてが完璧に調和していた。
俺は古代ギリシャの芸術の女神ムーサの作品を垣間見たかのような感動を覚えた。瞬きをしたら次の瞬間に消えてなくなってしまうのではないかという不安に駆られた。それ程眼前の光景は現実味を帯びていなかった。
俺は彫像のようになってじっと聞き入っていた。もっと長く聴いていたいと感じていた。だがその願いは残酷にも叶わなかった。運命は冷酷であり神様は意地悪であった。演奏がピタリと止まったのである。
「そこにいるのは誰?」
厳しくも綺麗な声で奏でた。声を発すれば歌になる。ふとそんな表現を思いついた。いやどこかで読んだのか。
俺は相手の死角と大きな木の陰だから絶対に大丈夫だろうと軽く思っていた。だが予想に反して相手の勘は鋭かったようだ。俺はこのまま黙って去ろうと思った。案外上手いこと誤魔化せるんじゃないかと考えた。しかし綺麗な音色を奏でる相手に対してそれは失礼になるのでは、と考え直す。
俺は意を決して木陰から出ると、
「悪い。盗み聞きするつもりじゃなかったんだ」
少し気まずそうに目を伏せる。声のトーンも心なしか少し低目になる。
「あ、あなたは……!?」
ハッと相手の息を飲むのが微かに伝わる。この声の感じは若い女性、それも少女だろう。俺は思わず期待していた。もしかしたらあの昼間に見た少女のような予感がしたのだ。根拠はなかった。
俺は思わず目を上げて確認する。お互いの視線が交差した。
そこには変わった弦楽器を持って枝に座っている天女がこちらを見ていた。褐色の肌に合うインド風の服―サリー―を身に纏っていた。彼女は警戒の眼差しをこちらに向けたまま微動だにしない。こちらの出方を伺っている雰囲気すらあった。このままでは埒が明かないので俺は言葉で彼女の警戒心を溶かそうと考えた。
「良い曲だと思った」
俺はポツリとシンプルに感想を伝えた。
「え?」
彼女の戸惑いの感情はそのまま声にのる。表情は暗がりで見えにくいが戸惑いの表情を浮かべているだろうことは容易に想像できた。
「でも、曲調は明るいんだけど、なんだか物悲しい感じがしたな。俺はあまり詳しくないんだけどその曲はインドの有名な伝統民謡?」
「いいえ、違うわ。私の故郷の音楽なの。名も知れぬ村の……」
故郷のことを思い出したのか彼女の語尾は聞こえづらかった。少し声の色に寂しさや悲しさといった負の音が混じっているのを感じた。俺はなにか話題転換をしなくてはと焦った。
「ご、ごめん。何だか変なこと言っちゃったな……。気分を害したなら……」
「ううん。もう昔のことだから……。あ、貴方は音楽に興味があるの?」
俺の言葉を遮るように彼女は言葉を発した。言葉の表情は少し複雑さを帯びている。だが最後の言葉は明るい口調だったのが幸いか。
「うん。音楽は好きだよ。あと、演奏するのもね。先ほどの曲は弦楽器で演奏してたの?」
俺も合わせるようにつとめて明るい口調で答える。相手が一瞬躊躇うのを感じた。次の瞬間である。5mはあろうかという高さからふわりと飛び降りると見事に音もなく着地した。
これにはさすがの俺も面食らった。まるで予想していなかったからだ。こんな展開なんて一体誰が予測できる!?
俺は地上に舞い降りた天女を見つめていた。やはり昼間に方丈から窓越しで見た彼女に間違いなかった。
彼女はいまだ地蔵と化している俺を不思議な表情で見返している。俺は変な間が空かないように話題を探した。だが突然の出来事に頭が真っ白になっておりいつもの調子が出ない。
俺は苦慮しているうちに目ざとく彼女の手に持っている楽器を発見した。それを発見した時、今世紀最高の発見をした考古学者のように躍り上がりたい気分になった。
「その弦楽器面白い形だね。インドのヴィーナに似てるけど」
俺は少し微笑みながら気付かれないように軽く様子を伺った。
しかしヴィーナは7本の弦が張ってあるのが通常である、と本で読んだし現物も見たことがある。だが彼女が持っているヴィーナは8弦なのだ。これは珍しい。
「ええ、このソーマは……。ええっと、ああごめんなさい。ソーマと言うのはわたしが名付けたんだけど。少し特殊なヴィーナなの」
彼女はやはり懐かしむような哀しむような複雑な表情をした。そしてヴィーナをそっと手で軽く触れた時はまるで聖母のような穏やかで優しい表情に変わった。俺はそんなに大切にされているヴィーナをもっと良く知りたいと好奇心が首をもたげた。
「前に俺はヴィーナを演奏したことがあるんだけど、そのソーマ? だっけか……は8弦とは珍しいね」
「あなた、ヴィーナを演奏したことがあるの!?」
彼女は目を輝かせながら俺に勢い良く詰め寄った。俺は予想外の行動に一瞬たじろいだ。表情を見るとどうやら興奮気味らしく心なしか頬も上気しているみたいだ。
しかしこんなに食い付きが良いとはビックリだ。お互いの距離の近さもあって俺は心臓が跳ね飛びそうなほどだ。緊張し過ぎて表情が上手く作れないのが解る。
しばしの間、互いに見詰め合う。だが純粋な視線に耐えられず俺は目を少し逸らしながら、
「え、えーと。簡単な曲で良いなら演奏出来るけど……」
と提案した。
俺の言葉を聞くと、彼女は太陽のような笑みを浮かべてソーマを渡そうとする。俺は向き直りまるで女王陛下から下賜された宝物を受け取るように恭しい態度で受け取った。
俺は手の中に有るヴィーナを観察した。重さは軽いが造りはしっかりとしている。獣のような装飾が彫られているが派手過ぎずなかなか良い感じだ。十分に作り手の愛情が感じられる。無名だが腕の良い職人が製作したものと思われた。
俺はしばし引く楽曲を逡巡した。演奏が出来ると言った手前下手な演奏は出来ない。かといって誰でも演奏出来そうな曲では興醒めだろう。
ん? ああ、そうだ。俺は何を悩んでいるんだ。そう言えばこの曲があったな。
俺は少し微笑むと軽く深呼吸した。そして意を決したようにゆっくりと弦を鳴らしていった。
俺は約10分ほどの演奏を終えると彼女に向って丁重にお辞儀をした。彼女は目を閉じて聴いていたが演奏が終わるとゆっくり目を開けた。
演奏してみて解ったがこのソーマは何か特殊な調整が施されているようである。それが何なのかまではさすがに時間が足りなかった。
彼女は目を完全に開けると驚いたような表情をした。そしてすぐに会心の笑みを浮かべるとすかさず走り寄ってきた。俺はというと咄嗟の事に頭がついていかず棒立ちである。ノーガード戦法というやつだ。
彼女はそんなこともお構いなしである。
俺に抱き着くと興奮気味に、
「凄い凄い! ソーマをそんなに弾けるなんて! 私が知る限り今まで私の母を除いて誰一人いなかったわ」
嬉しそうな声で感極まったように叫ぶ。
俺はとっさのことだったので、その大切なソーマをかばうのに精一杯だった。
ふと彼女の心地よい香りが鼻腔をくすぐる。俺はその時初めて彼女がすぐ側にいることを認識した。いったん認識してしまうと不思議なもので必要以上に意識してしまう。俺は抱きしめたい衝動に駆られたがソーマが両手を塞いでおり抱きしめられずもどかしい気持ちを覚えた。
「ねえ、さっきの曲は何という名前なの?」
「あれは…」
彼女の質問に俺は思案する。そう言えば久しぶりに弾いた気がする。俺は養母、いや師匠の顔を思い出した。それと同時にトラウマまで思い出しそうになったので、もぐら叩きのように沸いたトラウマを打ち消す作業が発生した。
「あれは君の弾いていた曲と同じだよ」
俺はそう優しく、半ば苦笑い気味に答えた。
「それってあなたの故郷の曲ってこと?」
「うん。そうなるかな」
俺は曖昧な返事をする。
故郷の曲というよりは師匠に教えてもらった最初の曲だ。あの時の楽器はギターだったかハープだったかもう覚えてはいない。弦楽器だったことだけは覚えているんだが。
だけど俺はそんな過去のトラウマを思い出すのも少しは良いと思い始めている。そしてそんな風に思っている自分に少し驚く。
もしかしたら彼女のお陰かも知れないな。
俺は目の前にいる女性に感謝の念を捧げた。
蜜月の時は短い。俺はその言葉が真実であると思い知った。何故なら急に彼女が体を離したからだ。原因は解っていた。恐らくソーマの置き所が悪くてもそもそと動かしていたせいだろう。
うーん、大失態。何で俺ソーマをかばってしまったんだろう。返す返すも残念だ。
俺が無念の境地に遊んでいるとき、彼女は少し顔を赤らめていた。どうやら自分の行動に気恥ずかしさを覚えたのだろう。少し俯き気味にして視線を外している。
「……ソーマは良い楽器だね。演奏していて作り手の愛情が伝わってきたよ。君がいかに大切に扱ってきたかも解るよ。まあ、8弦は弾いたこと無かったんで苦戦はしたけど。上手く演奏出来たのはソーマが導いてくれたのかも」
俺は爽やかな笑みを浮かべながらソーマを返した。彼女は少し視線を逸らしながらソーマを受け取る。まだ恥ずかしいらしい。
「……前に音楽に詳しい友人が言っていました。ソーマは特別な楽器だって。自分が認めた者しか演奏出来ない楽器だと。確かに友人の言う通りなのかも知れません。彼は事実上手く弾けなかったのですから」
彼女は視線を合わせようとしてはその勇敢な試みに何度も失敗する。
物に魂が宿るか……。洋の東西を問わずそういう考え方はあるのかも知れない。しかし、しかしだ! 先ほど俺は聞き捨てならない言葉を聞いたぞ! 友人? 彼? まさか恋人……じゃあないよな!?
俺は心の動揺震度7を観測すると、少し引き攣った笑みになった。そんな俺を見ても彼女は不思議そうに微笑むだけだ。
「あ、そういえば自己紹介がまだだったね。俺は貴橋人志。君の名は?」
彼女は一瞬、表情を曇らせた。だが、次の瞬間意を決した様な瞳を俺に向けた。俺は少し嫌な予感が胸に沸き上がったが無視することにした。僅かの望みに賭けたのだ。
「私の名前はガンダルヴァ。特殊工作員“八部衆”の一人。それが私の正体よ」
彼女の声音は辛そうだった。喋っている時も声が震えていたのが解った。
「“貴人”。今日は見逃すけど今度会ったら容赦しないわ」
ガンダルヴァは一縷の希望すら奪うように去っていった。俺は衝撃の告白を受けて頭の整理が追い付かないでいた。その為に後を追うことも出来ず、呆然と見送るばかりであった。
花見会場を後にした私たち姉妹だが私は機嫌が悪かった。原因は言わずと知れた貴橋人志である。あいつが別れの挨拶をせずにさっさと帰ってしまったからだ。
何よあいつったら先に帰るなら帰るって一言、言えば良いじゃない! ま、まあ別に一緒に帰るって約束した訳じゃないけど。でも、一緒に来たなら一緒に帰るのは当たり前だと思うけど。一緒に帰りたい訳じゃないけど。それにそれに携帯にも出ないのはどういうことよ。
先ほどまでの私の心はこんな感じであった。
まさに女心は欧州情勢より複雑怪奇であると言えよう。
一緒にいる妹の常美は隣で終始苦笑いしている。こんな時の私に何を言っても無駄であるのは長い付き合いで知っているからだ。全く良く出来た妹である。
今の私はと言うと帰り際のコンビニでロールケーキを補給したのでいつもの冷静さを取り戻していた。もちろん、常美にもあげた事は言うまでもない。
「あれ、お姉ちゃん。方丈の場所は」
私は常美に目で黙るように合図した。常美はやや緊張した面持ちでこくりと頷く。
先ほどから妙な視線が後を付けているのを感じていた。最初はストーカーの類かと思ったがどうも違うらしい。嫌な感じは変わらないが質が違う。どちらかと言うと、獲物を付け狙う獣のような視線に近い感覚だ。
私は方丈に迷惑をかけないようにわざと人気のない場所まで誘導するように歩いた。近くに小さな広場があるのは知っていた。そこに気付かれないように誘導したかった。
幸い広場への誘導は成功したらしい。気配が消えてないのがその証拠だ。私たちは互いに目で合図をしあう。
「残念ね。そこが終着点かしら?」
路地の暗がりからゆっくりと人影が出てくる。
「誰よ?」
私はまだ良く見えない影に向けて誰何した。影は褐色の肌を持つ女性の形になる。綺麗な顔立ちをした女性だ。私よりも背が少し高いようだ。楽し気な感じで微笑む表情とやけに冷たく感じる瞳が印象に残った。
「その肌の色、あなたまさか」
「あら、勘の鋭い娘はお姉さん嫌いよ。それとも、もう情報が知られてしまっているのかしら。それも少し問題ねぇ」
女性は少し困った表情を造った。そして軽く頭を横に振る。
「でもまあ良いか。ここで十二天将のうち二人“太陰”と“太常”を討てば私の株は大きく上がる」
女性が最後の言葉を言い終わるが早いか、尋常ではない速度で攻撃を仕掛けてきた。気が付いた時にはすでに間合いを侵略されている。私は少し反応が遅れたが何とかかわすことが出来た。額に嫌な冷や汗が混じる。
「やっぱり勘の良い娘は嫌いだわ」
女性は睨むような目付きで私たちを見据えた。殺傷力の高い武器を急所に突き付けてきたかのような感覚。殺気の塊だ。
私も負けじと睨み返す。こういう時こそ気持ちで負けてはいけない。
「常美。いつものお願いね」
私は妹を見ずに言った。相手は猛獣にも似た性質を持つ女だ。視線を外せば襲ってくる。きっと常美は緊張した面持ちで頷いたはずだ。私には解る。
常美の呼吸を肌で感じる。感覚を研ぎ澄ませ! この一瞬に賭けるのだ。
常美が動いた。私も同時に仕掛ける。相手は一瞬、虚を突かれたようにたじろぐ。その証拠に相手の視線が左右にぶれる。同時攻撃は想定外か。
そこで常美が先に仕掛ける。攻撃は掌底で狙いは相手の視線を塞ぐ事。勿論、これはフェイク。本命は私の攻撃。
私は気合とともに渾身の一撃を相手に見舞った。