第1夜―風の目覚め
記念すべき壱話目だというのに、戦闘シーンは
皆無と言っていいほどです……。
突如として現れた光は一真を包み込み、その周囲を白く染める。
その光の奔流の中で、一真はもがき続けていた。
――あああああああっ!?
一真の意識は、ほぼブラックアウト寸前だった。
目を閉じていても、瞼を通り越して網膜を灼く閃光。同時に、頭を
鈍器で殴り続けられているような頭痛。
収まることのない苦痛。やがてその苦痛の狭間に、一真は人の声を確かに聴いた。
――風神ノ大太刀を握りし者よ……。
――鬼殺しの血を継ぐ者よ……
――己の肉と魂をその宿命に捧げ……。
――今、伐ち手として目覚めよ……。
「シャアアアアアアアア……!」
目の前の「鬼」は、獲物の身に突然起こった変化を不審に思ったのか、
その歩みを止めて一真を凝視している。
「……」
一真の表情が変わった。先程まで絶望の色に染まっていたその顔は、
死の象徴を前にしているというのに、冷めきった表情を浮かべている。
目は、見様によっては生気が抜けたように光を失っており、
まるで、立ったまま死んでしまったのではないかと思うほどに虚ろだ。
そして彼の掌には、大太刀が握られていた。
刀身は白銀に輝く緩やかなカーブを描いており、いうなれば、
日本刀と同じ形状をしている。
鍔の部分は、猛禽類の片翼を模したものを逆さに取り付けたような形で、
それがそのまま、柄を握る手を保護するようになっている。
片翼の中心には、エメラルド色の宝玉がはめ込まれており、まるで心臓が
脈打つように、周期的に淡い光を放っている。
「……ッ!」
凄まじい威圧感を孕んだ眼差しが、目の前の巨体を貫く。
それは普段の一真から、否、常人からは想像もつかないような、
恐ろしいまでの眼力。
その眼差しをまともに受けた醜悪な怪物は、右足を一歩後ろに踏み出した。
――後ずさったのだ。
一真を絶望の淵に追いやり、その肉を喰らおうとしていた「鬼」が、
まるで狼を目の前にしたヤギの様に、怯えた様子で彼を威嚇し始めた。
「人の世に生まれし穢れよ……。消え失せろ……!」
呪詛の様に物々しい言葉を呟いた瞬間、一真は信じられない速度で走り出した。
そして――、
「りゃあああああああああッ!!」
「ガッ!?」
――赤黒い「鬼」の横腹が、更に赤黒い血で染まった。
「グ、グオアアアアアア!?」
脇腹を襲う激痛に、「鬼」はうずくまり、悶え苦しむ。そして、その背後には、
得物に付着した、穢れた血を振り払って落とす青年の姿があった。
「フン……」
まさに、神風といえる速さだった。
一真は、目にも止まらぬ速さで鬼に接近し、すれ違いざまにその
脇腹に斬撃を叩きこんだのだ。
元より鈍重な「鬼」は、それを目で追う事すらできず、
臓物の詰まっているであろう脇腹を大きく切り裂かれる。
「グガッ、ガアッ!」
傷口を押さえながら、威嚇の声を上げて一真を睨み付ける「鬼」。
だがそこには、先程までの殺意だけではなく、己の身体を傷つけた
「獲物だったはずもの」に対する、明らかな恐怖の意識も混じっていた。
「窮鼠猫を噛むとはまさにこの事だな、『穢れ』よ」
「鬼」に切っ先を向け、嘲るように笑う一真。
常人には到底引き出すことのできない身体能力を駆使していることや、
明らかな人格の変化を見る限り、一真の肉体には、彼自身とは別の、
人間を超える力を持つ何者かの意志が宿っているようだ。
非現実極まりない話ではあるが、そうとでも考えなければ、あの絶望的な
状況を、真逆に覆すことができた理由が見当たらない。
「さて……。今のこの身体では、この力もそう長く持たないのでな」
そう独りごちながら、一真が再び剣を構える。
「そろそろ、貴様の首を貰い受けるとしよう……!」
やや邪悪な笑みを浮かべた瞬間、一真は風のように疾走する。
風神ノ大太刀を低く構え、一気に「鬼」との距離を詰めていく。
「ガアアアッ!!」
憤怒の叫びを上げ、「鬼」は一真を待ち構える。片腕を振り上げ、
直線的に突っ込んでくる一真を真正面から叩き潰すつもりなのだろう。
両者の姿は、「狩人」と表現していいだろう。
お互いを獲物として見、獲物として見られる。
やがて、一真の身体に「鬼」の腕が届くか届かないかという瀬戸際に、
突然一真の姿が「鬼」の視界から消えた。
「ガッ!?」
「馬鹿が……」
頭上から、まるで降り注ぐように向けられる圧力。上を見上げた「鬼」の
目には、己に向かって振り下ろされんとする刃と、それを振りかぶる
青年の姿が入った。
「死ねッ!!」
――刹那、視界がずれた。
「獲物であったはずのもの」が背を向けていた、青白い満月が
縦に切断された――様に見えた。
次の瞬間、斬られたのは満月でなく、己の肉体であることを、
醜悪な怪物は血に染まる視界と急激に薄くなる感覚の中で悟った。
――翌日。
「一真の奴、どうしたんだろうな」
「連絡もよこさないで休んでんだろ?」
「珍しいよな。アイツ、結構真面目なのに無断欠席なんて」
一真とよくつるんでいる男子たちの会話を小耳に挟みながら、
美奈は溜め息をついた。
(どうしたんだろ。昨日、やっぱり風邪だったのかな……)
一真の姿は、学校になかった。彼は朝に強く、逆に美奈は弱い。
美奈がいつもの様に駆け足で学校に向かうと、普段ならば教室の
中央の席に座って、自分にはさっぱりわからない哲学やら現代社会の
論文が著された本を、漫画を読むような姿勢で、さも
気楽そうに読んでいるというのに。
その姿を妙に思い、ホームルームが始まっても現れない彼を、
担任やほかのクラスメート達も不思議そうに思っていたようだった。
(ホント、どうしたんだろ)
3限目の始まりを知らせるチャイムを聞きながら、美奈は再び溜め息をついた。
学校はいつもと変わりなく終わり、西日により、徐々にオレンジ色に染まる
空の下、生徒たちは部活や掃除に精を出している。
(お見舞い、行こうかな……)
校門のすぐ前にある坂道を下りながら、美奈
そう思っていると、不意に彼女の肩を誰かが叩いた。
後ろに向き直った美奈の目の前には、1人の少女が佇んでいた。
「雪音先輩……」
美奈の肩を叩いたのは、彼女の先輩である、瀬戸雪音だった。
背中辺りまでの黒い長髪をポニーテールの形に結び、
端正な顔に、柔らかな笑みを浮かべている。
「可憐」という言葉が似合う、長身の美少女だった。
「どうしたのですか?」
彼女は、その容姿から受ける印象通りの穏やかな口調で美奈に声を
掛けると、その傍らに付いて歩き始めた。
「いえ、その……」
「ふふ……神童君の事ですね?」
口籠る美奈の胸中を、まるで最初から見抜いていたかのように、雪音は
彼女の表情が暗い原因を言い当てる。
「えっ!? どうして分かったんですか?」
慌てふためくように手足をバタつかせる美奈を横目に、雪音は
くすくすと笑いながら、「その顔を、普段のあなたと比べればわかります」と、
さも当たり前のように言い放つ。
「神童君と、何かあったのですか? 喧嘩でもしたとか?」
少し先を歩いていた雪音は美奈に振り返り、彼女の気分が沈んでいる理由を、
具体的に訪ねてきた。
美奈と雪音の付き合いは長い。一真ほどではないが、小さい頃から遊んだり
していた。時には3人で遊ぶことも多かった。
その頃から、彼女は美奈や一真の相談相手役ともいえる立場になっており、
3人が高校生となった現在でも、その関係は続いている。
美奈は、そうやって昔から自分たちの悩みを聞き、解決する手助けを
してくれる雪音に、感謝と後ろめたさを交えた感情を胸に抱きつつも、
自分の悩みを彼女に打ち解ける。
だが、美奈から話を聞いた雪音は、唐突に笑い出した。
「ちょ、ちょっと先輩! 何で笑うんですか!」
自分が真剣に悩んでいるというのに、それを笑われてしまえば、誰だって
憤慨するのは当然である。
「ふふ……ごめんなさい。だって、ねぇ」
雪音は、笑いを押し殺したような表情で美奈に謝罪する。そんな彼女に、
美奈は膨れっ面でそっぽを向く。
だが、次の言葉が出るときには、雪音の笑みは穏やかなものに
なっていた。
「本当に、美奈ちゃんは優しい子なんですね」
「えっ?」
美奈は、意外そうな顔を雪音に向ける。雪音は、その笑みを崩さず続ける。
「大体の人は、誰かが風邪を引いたくらいじゃ、美奈ちゃんみたいに
自分のことみたいに落ち込んだり、罪悪感なんて感じる人は、
そうそういませんよ」
「……」
美奈は、雪音の言葉を黙って聞いていた。いや、返す言葉が
無かっただけと言ってもいい。
「私は、そうやって人の事を心配して、自分のことみたいに
感じられる美奈さんは、素敵だと思いますよ」
その言葉が隣から聞こえた瞬間、美奈の胸に渦巻いていた
罪悪感が、スッと消えたような気がした。
やはりこの人に相談してよかった。美奈は素直に、そう思うことが
出来た。
美奈の顔から暗いものが消えたことを悟った雪音は、ほっとした
表情で、その横顔を見つめる。
「ありがとう、ございます。先輩」
やがて、美奈は小さく感謝の気持ちを口にする。
気付けば坂道は終わりを迎え、黄昏に染まる住宅街が、眼前に広がっていた。
「……どういたしまして」
礼を言われても黙ったままだった雪音だったが、彼女の家に続く分かれ道で、
美奈に小さく微笑んだ。
不思議な感覚だった。
突如現れた白い光と、白銀に輝く大太刀。
光の奔流の中で聞いた、誰かの声。
そのどれもが、一真にとってはあり得ない出来事ばかりだった。
しかし、最も不思議と感じた事、それは――。
――その出来事全てが、「懐かしい」と感じた事だった。
気が付けば、もう日が暮れはじめていた。
窓の外を見れば、小学生たちが走りながら家路を急ぐ
様子が見える。
「……ッ」
昨夜の出来事を思い出すと、幾度となく感じた寒気が、再び一真の
背筋を奔る。
あれは一体、何だったのだろうか。突如として、平穏な日常を
引き裂くように目の前に現れた、あの異形の怪物は。
そして、己の身体を包み込んだ光、その中で聞いた声、
掌の中に現れた、白銀の大太刀。
言ってしまえば、一真はその時のことをあまり覚えていない。
詳しく言えば、白銀の大太刀の存在を目で確認した次の瞬間には、
彼の意識は飛んでいたのだから。
気が付けば、自室のベッドの上で朝日を浴びていた。
夢であったのか――否、夢であって欲しかった。
しかし、身に着けたままの制服にべったりと付着した血を見たとき、
その願望は脆く打ち砕かれた。
殆ど乾ききっているというのに、その赤黒い染みからは、眩暈のしそうな
悪臭が漂っていた。
「……」
一真は、己の右手を開閉させてみる。当然、と言って良いのかわからないが、
白銀に輝く大太刀など現れるはずもなかった。
(……風神ノ大太刀、だったっけか)
頭の中に響いた、あの不思議な声。
声の主に心当たりはない。だがその言葉の内容に、
形容しがたい心懐かしさがあった。
――風神ノ大太刀。
――打ち手。
――鬼殺し。
そのどれにも聞き覚えはない。というより、その言葉それぞれが、
まるでアニメや漫画にでも出てきそうな名前ばかりだ。
普段の一真ならば、馬鹿馬鹿しいと一蹴してしまうだろう。
――だが。
一真は頭を掻いて、緩慢な動作でベッドから立ち上がる。
昨夜の事を考え続けていたせいで、気が付けば喉が水分を欲していた。
変わり映えのない、されど平穏な日常が崩れ去っていくのを
心の何処かで確信しながら、自室を後にする。
そんな一真を、彼の自宅の向かいの家の「屋根の上」から見つめる
影があった。
「新しい打ち手、か……」