第0夜―プロローグ
「人」は穢れ多き存在である。
怒り、憎しみ、嘆き、嫉妬、欲望――。
たとえ世に英知を与えた偉人であろうと。
人々の幸福を願い、神を敬う僧であろうと。
所詮は「人」。その胸中には、得てして闇の感情が渦巻いているものである。
その「人」が生み出した世に、「人」の恐れる異形の存在が、
他でもない、「人」の心から生み出されていた――。
これは、穢れ多き「人」の肉を喰らうモノ達と、
それを守らんとする者達の闘いである。
――深夜の住宅街。
誰もが寝静まり、闇と静寂が支配する空間。
1人の男性が、切れかかった街灯の光に照らされていた。
風体から察するに、中年のサラリーマンと思しき男性。
酒に酔っているのだろう、フラフラと千鳥足で歩を進める。
どこかで飲み明かし、これから帰宅するところなのだろう。
――と、
「ん?」
男性は、不意に足を止め、少し先の、曲がり角を凝視した。
何かが動いたような気がしたのである。暗闇の中、赤黒い影が
十字路を横に通り過ぎたように見えたのだ。
それが何故か気になった男性は、無理をしない程度に早足で歩き、
曲がり角を確認する。が、そこには動くものどころか、
ただ墨の様に黒い空間が広がっているだけだった。
「見間違いかなぁ……」
男性は、自分が酔っていることも自覚しており、今の
酒が見せた幻覚だと納得し、自宅の帰路につこうとした。
しかし――、
「シャアアアアアアアアアッ!!」
「うわあああああっ!?」
突然、背に強い衝撃と痛みを感じ、前につんのめる。
男性は、痛む背を向けた背後を振り返る。と、そこにあった、否、
そこにいたのは――。
優に3mはあろうかという巨人。筋骨隆々の肉体は
どす黒い、血のような赤色をしており、いたるところから黒い突起が
突き出ている。
中でも恐ろしいのが、剛腕の先にある、赤い雫が滴り落ちる鈎爪。
緑色の光を灯した1つ目と、猛獣のような牙の生えた口を持つ、
人間とはかけ離れた顔だった。
――化け物!
「ひ、ひいいいいいいっ!」
酔いは一気にさめ、代わりに彼の心を支配したのは、純粋なまでの恐怖。
必死にその場から逃走を図る。
しかし、その異形の存在はそれを許さなかった。
這いずるように逃げる獲物を捕らえるべく、その巨体からは
想像もつかないような軽快な身のこなしで距離をつめる。
「シャアアアアアアアアアッ!」
そして、獲物の両腕を3本の指がついた手で掴み――、
「うわあああああああああっ!?」
「事件の最新ニュースをお伝えします。本日午前6時、
△△市○○町の住宅街で、男性の惨殺死体が発見され――」
朝のニュースを横目に、神童一真は制服に着替える。
後数分もすれば登校時間だというのに、何故か身支度に身が入らず、
緩慢な手つきでボタンを留めていく。
黒く、やや長めの髪は櫛で整えられ、紅い瞳を灯した中性的な
顔は、一度水を被っているというのに、
その顔はどこか眠たげな表情が浮かんでいる。
「男性は心臓を深く抉り取られた状態で発見されており、
周辺に凶器などもみつけられていないことから、警察は、
過去同様の連続猟奇事件と同一の犯行と見て――」
(またか……)
手に取ったリモコンでテレビを消す際に、もう一度ニュースに
目を通す。
画面の中では、女性ニュースキャスターが最近連続して起こっている、
連続殺人事件について報道していた。
事件の被害者は、四肢を切断されていたり、半身が消失していたりなど、
様々な方法で惨殺されており、その全てに共通することと言えば、
皆心臓を抉り取られているというものだ。
恐ろしい事件だとは思うが、どうせ犯人もその内捕まるだろうし、
自分には関係のないことだと思いながらリモコンの電源ボタンに指を伸ばす。
「母さん、行ってきます」
一真はテレビを消し、壁にかかった遺影に写る女性に声をかけてから
バッグを担いで玄関を出る。
誰もいなくなった自宅の中に、水道から垂れた滴の水音が響いた。
この日以来、自らの運命が狂いだそうとは、その時の一真は知る由もなかった。
「……真君、一真君?」
肩を叩かれ、ようやく自分が声をかけられていた事に気が付いた。
「え……あぁ、悪い。どうした?」
一真に声をかけてきたのは、幼馴染であり、クラスメートでもある
穂阪美奈だった。
「今日、何か変だよ? 授業中もボーっとしてたし、
ご飯だって、さっきから全然食べてないじゃん」
栗色のツインテールを揺らし、あどけない顔の眉間に小さくしわをよせて
彼の顔を覗き込む。
「あ……。ちょっと疲れてて……」
「ふーん……」
彼女は昔から、その朗らかな性格に似あわず、意外と鋭いところがある。
適当に弁解し、彼女は納得したのか、再び食事に戻る。
その隣で、一真は今日、少なくとも15回目の溜め息をついた。
何故か、今日は身体に力が入らない。風邪かと思って保健室に行くも、
結果はいつもの、少し低めの35度7分だった。
訳のわからない気だるさに苛まれながらも、昼休みの時間を無駄にしないために、
いつもより多く感じる料理に箸を伸ばした。
朝から感じていた気だるさは、学校が終わってからも続いた。
むしろ、悪化しているといってもいい。
一真は部活に所属していないため、学校が終われば直接家に
帰るのだが、今日は少し違っていた。
「ごめん、待った?」
昇降口から、バッグを提げた美奈が駆け寄ってくる。
そんな彼女に、一真は小さく手を振る。
明日は彼女の弟の誕生日であるらしく、プレゼントを買うのに
付き合ってほしいと、昨日頼まれていたのだ。
「どこに行くんだ?」
「えーっと、駅前の雑貨屋を探すつもりなんだけど……」
「そっか」
短いやり取りをかわし、2人は正門から学校を出る。
体調はやはり優れなかったが、彼女の頼みを断るのも悪いと思った
一真は、その気だるさを押し殺し、美奈の後に続いた。
「……そういえばさ」
「ん?」
雑貨店に向かう途中、唐突に美奈が口を開いた。
「昨日も起きたよね。人が心臓抉られるっていう……」
彼女の口から出た話題は、あの連続猟奇殺人事件の事についてだった。
「あ……」
その言葉を聞いた瞬間、気だるさが一気に増したのを一真は
確かに感じた。
「何か怖い、よね……」
俯き加減に呟く美奈の顔は暗い。あの事件は、今朝報道していた
事件とは別に、自分達が住んでいるこの町でも、数週間前に同じ事件が
起きている。その時は各学校で緊急集会が行われ、帰宅時間の短縮、
集団登下校の強制などの処置が施された。
尤も、生徒たちは幼い好奇心と、授業短縮で大騒ぎしていたが。
「うん……」
一真は、小さな声で同意することしかできなかった。
「……でも、大丈夫だろ」
何とか紡ぎだした言葉は、何とも単純な気休めの言葉だった。
聞きようによっては、適当に返していると思われても仕方がないだろう。
しかし美奈は振り返り、
「そう……だよね。考えすぎだよね」
と、笑顔で返す。しかし、その笑顔が嘘のもので、不安感を押し殺しているという事は、
すぐに分かった。
そんな彼女を見た一真は、胸中に微かな罪悪感を抱いた。
――寧ろ同意してやったほうが良かったか?
「さ、早く行こ!」
美奈は、そんな一真を置いていくかのように駆けていく。気が付けば、
雑貨店はもう目と鼻の先だった。
「お、おい、そんなに走ると転――」
案の定、美奈は店のドアの前でつまずき、盛大に転倒した。
「あたたた……」
擦りむいた膝を、一真から借りたハンカチ越しにさすりながら歩く美奈。
「まだ痛いのか?」
一真の問いかけに、美奈は苦笑しながら「大丈夫」と返す。
辺りは殆ど闇に包まれており、部活から帰る学生の姿すら見えない。
少し買い物に時間をかけてしまった。自分の弟や両親は、とっくに帰ってきている
だろうなと、美奈は少しバツの悪い顔になる。
やがて自宅の前に着き、一真に別れを告げる。
「ごめんね。ハンカチは明日洗って返すから」
「いいよ別に。あれ、柄も好きじゃないし、美奈にやるよ」
一真はぶっきらぼうに返すと、そのまま背を向け、歩き出す。
大体の人なら、機嫌を損ねてしまうかもしれない対応の仕方だが、
彼は気遣いなどが下手なだけであって、決して素行が悪いわけではない。
幼いときから一真と共に遊んだりしていた美奈はそれを知っており、
彼の、何事にもやや白けた様な態度にも慣れている。
彼が10mほど離れた場所にある十字路を右に曲がり、その姿が見えなくなったところで、
美奈は家族の待つ家のドアを開けた。
街灯の灯りがちらほらと灯る夜道を、一真は1人歩いていた。
少し遅くなってしまったが、別段気にすることもない。母が他界し、
父も単身赴任で遠方に出向いているため、基本的に一真は1人暮らし同然の
生活を送っている。生活費は小遣いも含め毎月十分に送られてくるため、
生活に支障はないが。
美奈や友人達から、寂しくはないのか、と問われることもよくある。
別に、一真は自分の現状を悲観などはしていない。
父は1か月に1度は帰ってくるし、母は物心つく前に既にいなくなっていたため、
思い出などといった類はまるでない。無論、だからといってその存在を
軽んじてなどはいないが。
やがて、暗闇のなかに自宅が見えてきた。バッグの中から鍵を取り出そうとした
一真は、ふと後ろを振り返った。
背後の暗闇から、気配を感じたのだ。
――気のせいか?
そう思い、前を向こうとした次の瞬間、自分に向けられた強烈な殺意を感じた
彼は直感的にバッグを放り投げ、水に飛びこむような勢いで前転する。
彼の腕は、バッグから離れる瞬間、バッグに恐ろしいまでの強い衝撃と、
切り裂くような感覚が走ったのを確かに感じた。
――暴漢!?
1人で生活している以上、万が一に備えて一真も、一通りの対人戦闘ができるように
鍛えてきたつもりだ。下手な運動部よりかは体力や力には自信があった。
襲撃者に対して構えを取る一真。しかし、その「襲撃者」の姿を見据えた瞬間、
一真の身体は凍りついた。
――それは、人間とはかけ離れたカタチをしていた。
赤黒い巨体に、剛腕の先の禍々しい鈎爪。バッサリと裂けた口に生え揃う、
凶悪な牙。そして、直視すれば気を違えて死ぬのではないかと思うほどの、
強烈な殺意を孕んだ一つ目。
まさに異形の存在が、一真を見下ろしていた。
――鬼!?
その表現が最も正しいだろう。幼い頃読んだお伽話に、似たような
怪物が出てきたのを思い出す。しかし、目の前に仁王立ちする「鬼」は、
子供向けの絵本に登場するような可愛らしい風体など、微塵もしていなかった。
全身から振り撒かれる死臭。微かに匂う錆の様な匂いは血だろうか。
――殺される!!
「鬼」から放たれる敵意と殺意。それを肌で感じ取った一真は、「鬼」に
背を向け、一目散に走りだした。
あのままあそこで棒立ちになっていれば、間違いなく殺される。そんなことは、
どんな能天気にもわかることだ。
「くそ……ッ!」
しかし、どこに逃げれば良いかなど、今の一真には考えている余裕などなかった。
背後からは、やはり自分を逃す気はないのだろう。
ベタベタと、何処か粘着質な足音を立て、死が迫ってきている。
「どうすれば……!」
近辺の家に駆け込み、助けを求めれば、その家の住民までも巻き添えになってしまう。
かといって、このまま走り続けていれば、やがて体力が限界を迎え、
アレの餌食となってしまうだろう。
必死逃げ惑う一真はやがて、ある違和感に気付いた。
後ろからの追跡者さえいなければ、一見何の変わり映えもない住宅街。
しかし、どの家にも灯りが付いておらず、それどころか、人の気配すら
感じない。
――どうなってるんだ!?
焦りは段々と膨らみ、徐々にその胸中を支配し始めている。
もはや一真は、眼前に続く道の通りに走ることしかできなくなっていた。
「はぁはぁ……ッ!?」
一真は、絶望的な状況に陥ってしまっていた。
左右と真後ろを囲む、高い塀。気が付けば、彼は袋小路に迷い込んでいた。
やがて聞こえ始める、ベタベタという足音。
――ここまでか……!?
碧眼の一つ目でこちらの姿を見咎める「鬼」は、
背に向けた美しい満月と比較にならないほど、醜悪な姿だった。
「フシュルルルルルルルルルルル……」
数m離れた一真の鼻孔に届くほどの異臭を吐き出すとともに、
「鬼」は低い呻き声を上げる。否、獲物を捕らえたことを喜ぶ、
歓喜の笑い声だろうか。
「……ッ!?」
両目を固く閉じて、襲いくるであろう激痛に堪える一真。
獲物にとどめを刺そうと迫る「鬼」。
その瞬間だった。
―― 一真の掌に、白い大太刀が握られたのは。
―― 一真の瞳に、不思議な光が宿ったのは。
―― 一真の終わりの見えない闘いが始まったのは。