Chapter3 人間-2
ある日の放課後のことである。
ここ最近繰り返しているように、いつもの五人で駅までの道を歩いてるときだった。
「やべ、教科書とノート机の中に忘れてきちまった」
僕は阿呆極まることに翌週月曜の中間テスト初日という予定を忘れて、試験勉強道具一式を教室に置き忘れていた。
「やべ、俺もだ」
新渡戸もだった。そろいもそろってひどいマヌケ学生だ。
「お前ら、試験月曜だぞ? 一夜漬けかよ」
今日が金曜日なので二日間の休み、まぁつまり土日を挟むので一夜漬けというわけではないが……どうせ土曜日も何だかんだで勉強なんてしないだろうな。だから一夜漬け。そりゃあヒロアキすら呆れる。
体を張ったボケというわけでもなく、本当にボケてしまったみたいであるのが救えない。
「加賀君っていっつも一夜漬けなの?」
高島さんが、訊いてきた。
「うん。一夜漬け」
「おいしいよね!」
「おいしいよな!」
おかしなことを言い出したので同調しておいた。
新渡戸がいつものように、仕切るように言う。
「……じゃ、今日はここで解散だ、ヒロアキはどうする? 待つ?」
するとヒロアキは、
「いや、俺もさっさと帰ってテスト勉強しようかね」
「わかった、じゃあ、また来週な」と新渡戸。
「じゃーねー加賀君、新渡戸君!」大きく手を振る高島さき。
霧野みやこも小さく手を振っていた。その霧野の仕草が小動物的でときめきをくれた。
「じゃあな」
そして新渡戸はふぅと息を吐いて、こう言った。
「これは踵を返してしまわざるをえないな」
変に難しい言葉を使っていた。
★
教室まで戻ってくる。既に誰もいなくなった教室。赤い空のおかげで淡く染まる教室。これで女の子と二人きりとかだったらロマンチックなんだけど、よりによって一緒にいるのが新渡戸とは。
ロッカーの中から全ての教科書を鞄に放り込む。
続いて机の中からも全てのノートやら教科書やらを……ん?
「何だこれ?」
僕の机の奥のほうから、教科書達を引っ張り出した拍子に何かが床に滑り落ちた。白くて、手のひらに収まるくらいの大きさの紙袋。それと似たようなものを僕は見たことがある。
それは、病院に行って処方される薬を入れる袋に似ていた。違うのは、何の印字もされていなかったことと、教科書に押し込められていたため袋がグシャグシャだったことくらいか。
中身を覗いて見たところ、どうやら薬のようで、取り出して見たところ緑色したカプセル。完全に薬のようだった。薬の形をした何かであるかもしれないが、今まで十七年間生きてきた経験から言うと薬剤以外に思いつかない。
そして、理由を考えた。どうして僕の机の中に薬が入っているのか。
考えたくない可能性は後回しだ。
まず何者かの悪戯であること。文化祭演劇決定事件の時に誰かが悪戯して入れた可能性。ありえない話ではない。袋の状態から言っても、今日の掃除の時間に間違って放り込まれたとかそういうわけでもなさそうだった。まさかヤバイ薬じゃあないよな。そもそも薬なんてものを通常だったらぞんざいに扱わないだろう。
悪戯の次の、もう一つの可能性……。
考えたくない可能性。
――この席に、席替え前に座っていた人物の所有物であるということ。
以前座っていたのは、霧野みやこだった。
あぁ……繋がってしまったように思った。僕の妄想は肥大する。
(私もうすぐ死ぬの)
あの時の言葉がオーバーラップする。前線へ、パスを求めて駆け上がる。
あり得ないことを考える。霧野みやこが不治の病。そしてこれはその薬。だとするならば、あれは本物の救難信号か。この手の中の薬もその信号なのか? 僕はそれを知りながら今まで?
(私……もうすぐ……死ぬの)
解けかかっている。ゴール前へのセンタリングがピンポイントで上がってくる。
その時だった。
「やっぱり、お前だったのか」
新渡戸の言葉が、僕を教室へと引き戻したのだが、でも答えはもう出てしまった。
霧野みやこが、本当に死ぬという推測。それは僕の中で百パーセントに近く……って、でも待って、今の新渡戸の言葉は?
「何か、知っているのか!?」
僕は、教室が震えそうなくらいの強い口調で言った。
「え? だってその薬……」
「霧野みやこのか?」
「知ってるんじゃないか。やっぱり」
「いや……何も知らない。どういうことだ? 霧野は死ぬのか!?」
すると新渡戸はもみあげのあたりを爪でかきながら、僕の目を直視しつつ、
「……あー、忘れてくれ。今の話、全部」
「何でだ! 教えろよ!」
僕は興奮して新渡戸に掴みかかった。
「離せ」
冷静な声。冷たい声。
「お前が話せよ! 全部!」
「……加賀が知らないとなると、まさか」
あくまで冷静な新渡戸はそう呟いて、僕の手を優しく解くと、僕の隣の席、霧野みやこの机の中に手を突っ込んだ。
「おい、他人の机……」
「黙ってろ」
「う……」
中にはただ冷たい金属の板があるだけで、何も入っていなかったようだ。
そして新渡戸は、金属製のロッカーの右端にある霧野みやこの領域を開けた。
落ちてきた。
雪崩のように滑り落ちてきた。
大量の白い袋が。
「やっぱりか……おかしいと思ってたんだ。笑うはずがないんだからな、まだ……笑うはずないんだからな」
意味がわからない。新渡戸が何を言っているのかわからない。
「どういうことだよ!」
「お前は知らなくていいことだよ」
「おい……ふざけるなよ……! ここまで色々見せておいて! 今更!」
「頼む、頼むから、忘れてくれ……」
困ったような表情の新渡戸。何かを隠しているのは僕の目にも明らかだった。
「霧野みやこをどうする気だ」
「どうもしない。俺にはどうしようもないしな」
「それが、お前の言う、薄っぺらい真相か! 僕は霧野に言われたんだ。もうすぐ死ぬんだって聞かされたんだ! 何か出来ることを探すんだよ! だから! どうしようもないってなんだよ!」
「加賀、お前はさ、今まで通りで良いんだよ。ただこの教室であったことだけを忘れて」
「――いい加減にしろ! 霧野は僕が守るんだよ!」
叫び、僕は駆け出していた。
淡く光る廊下を、駅までのアスファルトを。戻れない、戻りたくない道を。
何も考えられなかった。僕を押し戻すようなビル風が吹いていた。
途方もない……正解のない宿題を背負い込んでしまった。
ただ、その中で一つだけ、ほどけた問題がある。僕が霧野みやこを好きな気持ちに嘘がないことが、わかったこと。
でも……人は、簡単に死ぬのかも知れない。
駅前、広い空の下で立ち止まり、首を振った。
「そんなわけない」
★
土曜日。午前四時。
暗い世界の中、厚着をして家を出た。雨が降っていた。人の通らない道を歩く。午前四時十分。『ベーカリーにとべ』の前に立った。僕はここに来てどうしようというんだろう。
右手に持った青い傘。左手にはただ左手を持って。開店までは五時間以上。こんな狭い路地裏で、僕は何をしてるんだろう。入れもしないパン屋の前でさ。
僕がこの場所に立っている理由は、自分でもよくわからないけれど、昨日夕方の全くもって普通じゃなかった新渡戸の態度を目にして、ずいぶん悩んだ果てに、ここに来ることを決断したのだ。
僕が新渡戸の前から逃げ出してから数時間。さんざん都会の町をうろついた後に家に戻った僕はベッドに寝転がって、どうすれば良いのか考え続けていた。気持ちの整理をしようとしていたのだ。
いつの間にか、外は真っ暗。
都合よく週末だったから、気持ちの整理をする時間ができた。都合悪く週末だったから、昨日のことを問い詰めることも、突き止めることもできない。
いや、どうだろう。新渡戸の店にでも行ってみるか。新渡戸の住んでいる家に行くのは、気が進まない。でも新渡戸の親父さんの店になら、何かヒントがあるかもしれない。思えば、新渡戸の家には何度も行った事があるが、店の方には数回しか行った事がない。何か秘密があるとしたら、店の方にあるのではないか。
行って、何かわかるかも知れない。わからないかも知れない。でも動かなきゃ何もわからない。気持ちの整理なんてしても意味がない。
よし……行こう。
考えた末に、そう決断し、今に至る。
それから、さらに十分ほど経った頃だろうか、パン屋の前で思案に暮れていると、人影が息を切らせて向かってきた。苦しそうに、壁に左手を置いて体を支えながら。
破れたスーツ。サラリーマンだろうか。ひびの入った眼鏡。おかしい。そのシルエットは、どこかで見たことのあるような。
え、そんな。まさか……。
「何で……?」
僕の口から、頼りない声が出た。
信じられない。違う。信じたくないこと。
その男も、か細い声で、僕と同じような言葉を吐いた。
「何で……」
そして叫ぶ。
「何で加賀がここにいるんだ! クソっ」
男は、壁を拳で殴った。
「ヒロ……アキ……?」
僕の決断は、さらに僕を混乱させる事態を招いてしまったらしい。
でも、もし何も知らないままでいたとしたら、そして何も知らなかったことを後に知ってしまったとしたら、それは、何ていうかな、おそらく絶対に、きっと確実に後悔するだろう。
「そんな名前の人間はいない……俺は、ただの……」
「何の冗談だよ。何だよその変な格好、何だよその……」
ヒロアキは息を整えてから、
「あぁ、すまん」
冷静な口調でそう言うと、顔にあった眼鏡を外して、軽く放り投げた。コンクリートに眼鏡が落ちたが、僕は眼鏡なんかに見向きもしないでヒロアキをにらみつける。
「どういうことだよ」
「ごまかせないかな」
「当たり前だろ!」
わけが、わからなかった。
「やれやれ、加賀には、知られたくなかったんだがなぁ」
「何で!」
確実に理解できたのは、嘘をつかれていたこと。その事実が悲しいのか、それとも別の何かが悲しいのか、あるいは悔しいのか、僕は瞳に涙を溜める。
「お前は、こっちに来させたくなかった」
「こっち? こっちって何だよ! 新渡戸もそんなこと言ってた! 何が起きてるんだか教えろよ! 何か知ってるんだろう!?」
あふれ出す。
「ああ、知ってるよ。多分、ほぼ全部」
「言ってくれ」
すると、ヒロアキは、信じられない言葉を吐いた。
「――霧野みやこを殺しにきた」
「……え……何、て?」
何が起きているんだ。これは悪い夢なんじゃないのか。あってはならないだろう、そんなこと。クラスメイトを殺しに来た? あんなに嬉しそうに面倒を見ていて、僕を嫉妬させるくらいに仲がよかったじゃないか。
どうして。
「あれは人ではない。人ではないモノが人のようにしている。それは不自然なこと。摂理にも人道にも悖ること。神と人を貶める、罪の象徴。だから、消す――」
「何だよ、それ……。絶対に、させない!」
霧野みやこは僕が守る。僕に助けを求めた霧野みやこ。
僕を好きだと言ってくれた霧野みやこ。
絶対に、殺させたりなんか――。
「――と、いうのが……」
「え?」
戸惑う僕に向かって、ヒロアキは言う。
「というのが指令。四年前俺に出された指令。俺だって仲良くなったクラスメイトを手にかけたくはない。まして、お前に一生恨まれて、憎まれて生きるなんて耐えれんしな」
「……ヒロ――」
呼ぼうとした名前は、遮られる。
「俺はさ、俺の手は、赤とか茶色とか黒とかで、汚れてるんだよ。笑えないくらいに。そういう風に育てられた。人を殺すために俺は存在していた」
震える声。
「知ってるか? 人間って、簡単に死ぬんだぜ? でも、でもな、本当に、お前や、新渡戸といるのが、楽しかったから。初めてできた自分の居場所みたいだったから!」
何条もの涙を流しながらヒロアキは叫んだ。
「いつの間にか、離れられなくなってた。誰とも、交わっては、いけないのに。おかしいな、涙でてる」
――人を殺すために俺は存在していた。
ヒロアキはそう言った。ヒロアキが何を言っているのか、唐突すぎて僕には理解できなかった。理解したくなかった。ヒロアキの右腕が拭いた涙が、雨と共に袖に消えた。
ヒロアキは、なおも続けて言う。
「霧野みやこと俺は、似てるんだ。まるで感情がない、人形のような。だから……殺せるわけない……殺させるわけには、いかないんだよ……」
ただ「感情のない人形」この言葉に僕は、自然と反応した。霧野みやこは、感情がない人形などでは絶対に無い。そんな当たり前のことも理解していないようだったからだ。
「ヒロアキ……知ってるはずだろ」
「何をだよ」
「霧野は笑うぜ? 泣くんだぜ?」
それは、僕だけが知ってる彼女の姿ではないはずだ。
「お前だってそうだろ。山田ヒロアキは笑ってるぜ? 泣きながら言われても説得力ないぜ。モノが笑うかよ。モノが泣くかよ。モノが迷うかよ!」
それも僕だけが知ってるヒロアキの姿ではないはずだ。
「僕は、その。なんていうか、ヒロアキがどれだけ人を殺して来たかなんて知らない。知りたくもない。ただ一緒にいて、楽しいから。だから、あと一年残った日々を、いや、その後の人生でもずっと! ずっとずっと……僕の親友でいてほしいんだよ」
親友というのが何なのか、よく、わからないけど、それでも。
「加賀……」
「五人で、修学旅行、班組んでまわろうよ」
その時の僕は、どんな顔をしていただろう?
胸につかえていたものが一つだけ外れた気がした。一つだけ。
「ああ。五人……で」
「約束」
「約束だ」
手を差し伸べる。その手の上に、雨が落ちる。握られた、僕の右の手。
「僕は何があっても皆といたい」
「俺も……だ」
雨が、なんだか、心地よかった。
約束。近い日の約束になればいい。
霧野みやこ、僕、高島さん、新渡戸、ヒロアキ。五人で一緒に修学旅行に行って、これでもかってくらいに満喫して、喧嘩とかもして、トランプとか罰ゲームとかして、騒ぎすぎで先生に叱られて廊下に正座させられたりして。そんな輝かしい未来を想像した。やがて来るはずの未来を。
少しの沈黙の後、雨音を遮るように僕はこう言った。
「ところでヒロアキ、お前、その怪我どうしたんだ?」
「あぁ、ちょっとな」
「ちょっとって怪我じゃないだろ」
しかしヒロアキは僕の心配が迷惑だとでも言うように無視を決め込み、こう言った。
「……それよりも、霧野みやこを、守らないと」
「守る? どういう――」
「ちょっとな。よし、侵入するぞ」
ヒロアキはどこからかナイフを取り出すと、それで円を描くようにパン屋のガラス戸を撫でた。撫でた部分が切り取られ、それを捕まえてアスファルト上に静かに置いた。
人一人が楽に通れるほどの入口が完成。
「お、おい……セキュリティーとか、平気なの?」
「大丈夫。見当たらないし、こんな幽霊街にそんなのあったら怪しすぎてすぐバレるだろ」
「バレるって何に?」
「俺たちみたいな、〈追う者〉にだよ」
追う者?
何だかわけがわからない。
「よかったら、教えてくれないか。今、何が起こってるのか……」
「歩きながらで、よかったらな」
僕たちはヒロアキの開けた穴からパン屋内部に潜入した。青い傘はたたんでその入口横のガラスに立てかけるようにして置き、奥へと進む。ヒロアキを先頭に、その後に僕がくっついていくという隊列で。
「実は昨日さ、僕の机の中から霧野さんの薬が出てきたんだ。それで新渡戸を問い詰めたんだけど、『忘れろ』としか言ってこなくって、新渡戸が霧野さんのロッカーを開けたら薬が大量に落ちてきて……」
「なるほどな」
納得した感じの声で、ヒロアキは言った。背中しか見えないから、表情は見えなかった。
「どういうこと?」
「この先に霧野がいるってことだ」
どうしてそうなるのかわからなかったが、ヒロアキも少し興奮状態にあるようだった。あるいは、切羽詰っているというか、追い詰められているというか……いや、両方かな。
そしてヒロアキは呟く。
「あと……二十分くらいか」
「二十分?」
「気にするな。いくぞ」
僕らは階段をゆっくりと上っていく。
「霧野について、だけどな、実は肉体的年齢は俺たちの一つ下なんだ」
「え? な、なんで?」
唐突すぎる新情報だった。霧野みやこは身体が大きいものだから、そういうイメージがなかった。
だけど、そんな情報に、何の意味があるのだろう。考えてもわからない。混乱するばかりだ。
「あぁ……今のはあんまり関係のない話か、すまん」
僕の混乱を見てとってか、ヒロアキに謝らせてしまった。
「あ、あぁ……」
こちらこそ申し訳なく思う。
「それで、だな、霧野みやこは、霧野みやこという人物は存在しない。言い方が難しいな。霧野みやこという自律的意思を持った人間は、十六年の時を生きていないんだよ。四年前、いや、五年前になるのかな。五年前に造られた人間、それが霧野みやこ」
「え……」
全く、わからない。わかりたくない。何を言ってるんだ、ヒロアキは。
「かつて、死んだ人間を蘇らせることを研究した者がいた。その精神の集大成が、霧野みやこなんだ」
僕は、必死に脳内を整理しながら無言を返したが、構わずヒロアキは続ける。
「死んだ人間を蘇らせることができれば、それは不老不死と同じだろう? 人間らしく生きることを放棄した破綻者とも言えるがな。そして研究は今も続いていて、その最終段階が、今、この先にいる霧野みやこだ。霧野みやこのそれが成功したならばおそらく、完成する研究……だがそれはさっきも言ったように、摂理にも人道にも悖る。だから俺らがこの研究を潰す。言ってしまえば、俺は、霧野みやこのような〈器〉を壊すために生まれてきたってことだ」
「…………」
「四年前、俺がここに来て、このパン屋兼研究所を見つけ出した。でもお前らと出会ってたことが俺の手を止めちまったんだよな。それより前の俺だったら、その時に霧野みやこを、確実に殺していたはずなんだがな」
「…………」
「加賀、お前、新渡戸に妹いたの、知ってるよな?」
「ああ……小学校んとき、よく遊んだけど、それきり私立に転校したって……」
「霧野みやこは、新渡戸夕実になるはずの〈器〉だ」
「……何……言ってんだ……」
きっと、夢の中に居るんだと思った。こんなこと、現実では、ありえない。
「――霧野みやこは、新渡戸夕実だ」
「だって、あの娘は……え? あれ……?」
「新渡戸の父親は、死んだ娘を売ったんだよ。生き返らせようとした」
「どうして……? え……に、新渡戸夕実の、死因は……?」
「何のことはない、斬殺されただけだ。人違いでな」
「人違い……?」
「〈器〉と間違えられて殺された」
「毎日のように、遊んだ……」
「これは想像だが、研究所の奴らはそれすら利用して、寄生したんだろう。滞っていた最終実験のラットとしてな。『殺されてしまったのは私たちのせいです。娘さんを生き返らせることが我々にはできます』とか言えば、俺でもすがりつくね」
「嘘だろ。嘘だよ。嘘。ヒロアキの言うこと高度すぎるのか低レベルすぎるのかわかんないけど、僕には理解できないよ!」
「だが……事実だ」
階段が終わって、屋上に出た。建物内には何もなかった。
「……地下か」
上った階段を引き返す。音を立てながら下っていく。
「奴らの方法はこうだ、まず最初に〈器〉である肉体を造る。実験のためか、もともとの肉体の細胞を使わず、遺伝子を操作しながら形作っていく。体と記憶は別々だから、言ってみればニセモノの再生。一の細胞から人間の肉体を復元する。そういう奴らだ。だから霧野みやこは肉体的には新渡戸夕実の止まった時間から誕生した。ということになるんだよ。わざわざ他人の細胞で十一歳の体を造ってな。そこから五年で十六歳。奴らの資料によれば五年で全ての準備が整うとのことだ。五年の間、かつて生きていた者、今回のケースでいくと、新渡戸夕実の記憶、まぁつまり脳みその中身だな。それをどうやってかは知らないが薬に変換し、長期に渡り投与する。拒絶反応が出ないように少しずつ。だから、たまに霧野はここに来ていたはずだ。薬を受け取りに。ただ、まぁ奴らも成功したことはない。俺たち〈追う者〉が、ことごとく壊してきたから」
「つまり、霧野の頭痛は、その薬の副作用?」
「だが飲んでいなかったんだろう?」
「じゃあ、飲まなかったから……」
「たぶんな……」
飲まなかったから、頭痛が発生した、ということらしい。と、その時、
「おっと、見つけた……」
ヒロアキは一見何も無さそうな壁を押した。よく見たら、そこだけ張りぼての壁だった。
隠し扉。
押し開かれた隠し扉の向こうには。地下への道が続いていた。
急な階段だ。
「いこう」
ヒロアキが先に降りて行き、十五段ほどの階段を降り切ってすぐに扉があった。
「加賀はそこにいろ」
「……わかった」
ヒロアキが静かに鉄扉を開く。次の瞬間にはもういなかった。
「ひぃ」
という悲鳴といくつかの銃声が、未だ閉まらない扉の向こうから聴こえた。
鉄の扉の閉まる音。
数秒の沈黙があって、再び扉が開かれる。
「入っていいぜ」
言われた通りに入ったら、二人の男がコンクリートの床に倒れているのが見えた。
「加賀、いいか……? これが、証拠だ」
そう言ったヒロアキの目線の先には……横たわる霧野みやこの姿があった。
その、彼女の姿は、なんだか、美しくなかった。
「霧野……さん……?」
体からいくつもの管が伸びていた。その先には巨大な四角い白い箱。パソコンみたいな機械があって、カリカリと、耳に障る音を立てていた。
バスケットコートくらいの広さの部屋の中。卓球台くらいの大きさの台に霧野みやこは横たわっていた。
証拠?
証拠なんて、見たくなかった。
「よし、すぐ連れ出すぞ」
「え? でも、この点滴みたいの抜いて大丈夫なの?」
「知らん! だが、そうゆっくりもしていられないんだ。さっきも言ったろ? 霧野みやこは壊すべき〈器〉なんだよ」
「あ……」
何が何だかわからないけど、頭がゴチャゴチャしているけど、ヒロアキの言う通りにしなくては。
「先導してくれ、加賀。お前の家まで運ぶ」
「何で僕の!?」
「現状そこが一番近くて比較的安全だからだ」
ヒロアキは霧野みやこに繋がった管を迅速に全て抜き取ると、彼女を背負った。
「いこう」
三度目に鉄扉が開いたその時だった。一条の風が通り過ぎたように感じた。
また急に、予想もしていない光景が生まれた。
振り返れば、僕らの高校の制服を着た女に白刃を向けられた霧野みやこと、そのずっと向こうに膝をつくヒロアキの姿があった。
わけがわからない。
女の持つ凶器は、刀のような形状をしていて、しかし短く、あのくらいは小太刀と呼ぶんだったか。その刃は大きく反り返っていて、ピッタリと太刀を覆う鞘があるのか疑わしいほどだった。少なくとも通常の鞘には納まりそうにない。そうだな、何かを引っ張り上げるクレーンのフックのような形。「?」マークのような形と言っても良いかもしれない。
「きり――」
ヒュ……っと、声を出しかけた僕の首の近くを何かが通り過ぎた。それがナイフのようなものであったことを確認するまで随分長い時間かかった気がする。
恐怖。
それでしばらく、僕は動けなくなった。
「まさか、こんなところとはね。やってくれるわね、山田君」
髪の短い女が言って、長い髪のみやこに刃を振り下ろした。視界がスローモーションになる。
だけど、体が竦んで動かない。何で、何が、起きているのか。
甲高い澄んだ音、金属がぶつかる音。
止まる刃。
ヒロアキが、二人の女の間に割り込んでいた。
「往生際が悪いわよ、山田君」
「級長さんこそ、しつっこいよ?」
苦笑なのか苦悶なのか、そんな微妙な表情のヒロアキ。
って級長?
本当に、あの級長なのか?
いや、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
僕も、加勢しないと。
ようやく動きはじめた指先。恐怖から立ち直った身体。僕は何ができるのか考えながらヒロアキの近くに駆け寄ろうとする。
「加賀ぁ!!」
ヒロアキが僕を制した。
「え」
「霧野つれて先いけ!」
必死の叫び。
「でも」
「はやく!」
ヒロアキのただならぬ声に、僕は強く頷く。そして、霧野みやこを背負――重い……。
ヒロアキは何とか女を抑えている。
みやこが……重い……。
でも!
ここで背負えないようなら、僕はこれから先、何もできない!
そう、自分に言い聞かせる。
「ぅ、く」
ふらつきながらも彼女を背に乗せて階段へと向かう。鉄扉が開いて閉じた。逃げようと、階段に足をかけた、その瞬間。
嘘だろ、鉄の扉が文字通り八つ裂きにされて、女が飛んできた。
斬った? 人が? 鉄を? どうやって?
僕はあまりにも無防備で、でもここで霧野を離すわけにはいかなくて。
でも、目の前にはもう光を反射する鋭利な鉄のカタマリが……あっ……だめだ……死――
不意に鈍い音が鳴る。
死んだと思った。けれど、いつの間にか閉じてしまっていた目蓋を開くと、僕は生きていた。それどころか無傷。ヒロアキが止めてくれたようだ。
僕は歯を食いしばり、ヒロアキの姿を確認することもなく急いで階段を上がる。ふらつきながらも、素早く。振り返らず。
ガランガランと、金属が床に落ちる音が聴こえた。
振り返ればきっと竦んでしまう。捕まる。だから、このまま。
「ヒロアキ!」
このまま走る。叫ぶ。
「僕の家で待ってるから!」
振り返らない。視線は階段に向けたまま。
「ぁんの、馬鹿……」
弱々しいヒロアキの声は聞こえなかったことにした。
「っはぁ…………」
僕は霧野みやこを背負ったまま、ヒロアキがガラス戸に開けた出入り口から外に出た。そのまま止まらずに歩き出す。
さっき、死ぬかと思って血が凍った瞬間。焼き付いた無表情の女の顔。
なるほど確かに級長。学級委員様。
本当に、どうなってんだ。
僕の頭はパンクを通り越して、タイヤが破れているのに不思議パワーで走り続ける車輪のごとく意味がわからない。意味がわからない。
背中には霧野みやこと新渡戸夕実。高島さんだったらもう少し軽かったとか思い浮かんだが、軽口を叩けるくらいの余裕はあるのかな。
とにかく僕は自分の家に向かう。
「近道……か」
僕は少し広い公園、その中を突っ切ってショートカットを目論んだ。
と、その時――
「ん……」
僕のではない誰かの呟き。さらにその声は続けて、
「…………え、ここは……」
女の子にしては少し低めの声。霧野みやこが、目覚めたようだった。
「霧野さん!」
「加賀……くん……?」
霧野みやこが起きた、助かった。
「どこか、痛いところない?」
気のせいだろうか、僕の質問に首を横に振ったような振動があったような気がする。
幻覚だろうか。顔見えないからわからないが。
「……加賀くん……私、こわい」
「え?」
「私が、どんどん、削り取られて、いくみたいに、小さく……」
「き、気のせいだよ。大丈夫」
「あ……降ろしてくれていいよ、重い……でしょ?」
「あ、あぁ……」
正直、重かった。僕に力がないだけだけど。
なるべく衝撃を与えないように霧野みやこを降ろす。
「……あの、加賀くん。それで、これは……どういう……」
「説明は後、走ろう! 走らないと!」
「え……え……?」
僕は、戸惑う霧野みやこの手を取って走り出――
「ぁぅ……っ…………っあ!」
手を取って、走り――
こんな、何で、何が、何が起きた?
「ぃ、痛い! 痛……よ!」
彼女の背中に刺さった刃物。
膝を折る霧野。
赤い、血が、なんか、赤いのが、流れてるけど、これは。
僕の左手には、暖かい彼女の右手。
なのに音もなく、ただ刺さって……流れて……冗談……。
えっと、何て、いうかな。おお神よ……とか?
あれ、違うな。そんなことじゃなくて。そんなことじゃ、なくて。
「ぅ……くっ……か……加賀、く、ん……いっっ……」
女は無感情に言う。
「がんばったとは思うけど、チェックメイトね」
力なく僕にぶら下がり、うつむく霧野みやこに、女は再び白刃を向けた。
「き、霧野? 霧野?」
僕の腕は彼女の重みを支えてやることができずに、彼女は地面に横たわる。どろりと流れ出す、美しくない液体。鉄のニオイがする。
彼女は苦しげに声を出す。途切れ途切れに、苦しそうに。
「だか、ら、関わらな……いほうが、いい、って……言ったでしょ……っは……」
「霧野! みやこ!」
「私、貴方に会えて、よかっ……た、よ?」
「――――」
声にならない声がでた。
雪のような白い肌。
黒い黒いその瞳。閉じられたその瞳。
わずかに落ち始めた広葉樹の葉の上で、どれだけ彼女の名を叫んでも彼女は返事をしなかった。いつの間にか止んでいた冷たい雨が、また僕を打ちつける。
楽しかった。
二人きりで回った文化祭も、会話は少なかったけど楽しかった。
嬉しかった。
舞台の後、好きだと言ってもらえて嬉しかった。
僕はダメな男だから別の女の子のことも大好きで、とても複雑だったけれど嬉しかった。
霧野みやこ。
僕を好きだと言ってくれた女の子。
僕が助けられなかった女の子。
何がどうしてどうなれば、こんなことになってしまうのか。理解できない。全く理解できなかった。
「お別れは終わったかしら?」
「まだだよ」
涙を、拭う。
「そう、でも、そろそろ街が起きだすわ。決着を……」
「…………」
崩れていく。どうして。ただ一緒にいたかっただけ。
日々がどうして続かない。こんなにも不幸を、苦しみを感じて。
不意に、あの娘が叫んだ。
「嫌! 私! 死にたくない! 楽しかった! だって、楽しかった! 嫌! 死にたくないよ! ……っ遊規! ねぇ、どこ!」
「ここに、いる、よ」
彼女の虚空を掻く左手に両手を伸ばす。
「加賀!!」
後ろから僕を呼ぶ声がして、僕は手を止めた。
苦々しい様子で、刃物を持った女は舌打ちをする。
「ち、新手か! いや、なんだ新渡戸夕貴か……」
新渡戸だった。新渡戸は混乱した様子で、
「え、級長殿? 何を……」
僕はそれ以上に取り乱して、
「新渡戸! 新渡戸、霧野。霧野が!」
「お、にぃちゃん……?」
彼女は、虚空を見上げながら、誰に視線を合わせるでもなく、言った。もしかして、もう、目が、見えて、いないのだろうか。
「……夕実? 夕実か……? 夕実!!」
新渡戸の手は妹の左手を両手で掴んだ。優しく。
「ご、めん。せっかく会えたの、に、ごめんね、おにい、ちゃん……」
「なんで……」
「遊規……ねぇ……ありがとう。あははっ……あ、……そう、だ…………あぁ少年よ。急ぎなさい……彼女の手を引けるのは、そなただけなのだか……ら……」
彼女はそう言って、劇の中の台詞みたいなことを言い放って、そう言ったきり、もう、まったく、動かなく、なった。
「…………う、そ、だろ? 霧野? 霧野ぉ……」
「嘘じゃないわ。止まったの」
学級委員の女の、冷たい声が頭の奥に何度も響いた。
――止まった? 止まっ……た?
冷静に言葉を放つ委員長みたいな級長に、僕は、僕は!
殴りかかっていた。
「うああああああああああ!」
人生で一番大きな口をあけて叫びながら。
「何で! 何で殺した! 何で!」
許せなかった。
「あいつが、霧野が、みやこが、何をしたよ! 新渡戸夕実が何をしたよ!? 」
当たらない拳。
「何で! わけもわからず殺されて! わけもわからず生かされて!!」
何度殴ろうとしても俊敏にかわされる。
「わけもわからず殺されるんだよおおおおお!!」
「加賀……落ち着け」新渡戸の落ち着いた声がした。
それもまた、許せないと思った。
白く、赤く、黒く、視界がぐるぐる色を回す。
許せない。絶対に許せない!
「落ち着けるわけないだろうが! 器!? しらねぇよ! 人間だったじゃねえか! 霧野みやこは確かにいたんだよ! 生きてたんだよ! 笑ってたろ!? ちゃんと、魔女の役もこなしてさ! 何だよ、お前ら全員見ただろうが! 頑張ってただろうが! 何で死ぬんだよ! ふざけ――」
暗転した。
★
百回でも千回でも言ってやる。いつまでも、僕が死んでも。百代でも千代先の子孫にだって、言わせてやる。霧野みやこがここにいたこと。
加賀遊規が霧野みやこに恋したこと。
――永遠みたいだろ?
そう言って。
声がする。
遠のく意識の中で、優しい彼女の声がする。
「加賀くん」
「なんだい霧野さん」
「私、あなたに会えてよかったよ」
「でも」
「加賀くんは私に心をくれた。だから、きっと好きだから、幸せに……」
「誰と? どうやって?」
彼女は答えない。
「……霧野……霧野?」
返事がない。
「…………みやこ?」
名前を呼んでも、何も返してこなかった。
普通という言葉が、嫌いだった。
今も好きじゃないけれど、それを求めている人もいて、それを求めている僕もいて、嫌い、だなんて、言い切れなくなった。
「またね」
祈りを込めて弾倉は回る。
【新渡戸編へ続く】