Chapter1 かわりゆく日常-2
ある朝のこと。というかまぁ友人二人に僕の少々甘酸っぱい想いの欠片のしっぽを掴まれてしまった次の朝なんだけども、前日の謎の世界史ノート――つっても謎でも何でもないが――を見られるという事件が僕を加速させたのかも知れない。
朝のホームルームが終わって、僕は、何と彼女に話しかけていた。
「あ、あの、霧野さん……」
お、おい、僕霧野さんに話しかけてるよ!
ウルフと呼ばれる霧野みやこに!
って話しかけながら何他人事のように現実逃避の実況中継してるんだ僕は!
「…………」
返事がない。ただの屍……ではないな。僕のことしかめっ面で凝視してる。
えっと、これほど二の句が継げない雰囲気はかつてないぞ。人生初だぞこれ怖いぞなんか怖いぞ!
「お、おはよう!」
精一杯でそんなものだった。正直、何かの反応があるとも思えず、頭をかいて踵を返そうとした。だが、
「……おはよう」
おお、返ってきた! おはようって言った! なんかうれしい!
と、そんな風に思いつつ拳を握りながら歓喜に震えている時、僕を呼ぶ声。
「加賀君加賀くーん!」
「え?」
僕を呼んだ声は、霧野みやこの声ではない。この背後からの声は、
「ぁ、高島さん」
やれやれ、水を差された気がするぜ。
「おはよう加賀君!」
「ん、おはよ」
今日も高島さんは可愛い。そんな高島さんは、何だか可愛らしくキョロキョロしながらも歯切れ悪く、
「あのね、加賀君、今日の一限目体育だよ、皆もう……」
とか呟くように言ったので、僕も周囲を見回してみる。そして、あることに気付き、叫んだ。
「しまったああああ!」
金曜の体育は男子が隣のクラスへ行って着替えるんだった!
そして女子がこの教室で着替えるわけで。僕が霧野みやこに話しかけるかかけないかとか心の中でのた打ち回ったり放心たりしている間にクラスの男子は僕のみを残して移動し隣のクラスから女子がなだれ込み、そして今、僕に刺すような視線を送っているのか。つまり高島はこう言っている。
「加賀君? そろそろ出てかないと遅刻しちゃうよ」
いやそうじゃない。ぼかさずに言えば、「着替えられないからさっさと出て行け男子!」ってことだろう。
「あ。あぁ、ありがとう高島」
僕はそう言って急いで教室を後にした。
「ふぅ、相変わらず話のわかる男だな僕は」
などと変な自画自賛的つぶやきをしつつ、隣のクラスの扉を開ける。
――と、開けたところで気付いた。戻らなくてはならない。女子だらけのあの教室に。
失態。体育着を教室に忘れた。
「高島! 高島ぁ! 高島ぁー!」
叫びながら我がクラスの扉を何度も叩く。教室中では女子の生着替え真っ最中であろう。あぁ、恥ずかしい、恥ずかしいっ!
ゆっくりと引き戸が小さく開き、視界を遮るように高島さきが出てくる。まぁ高島さんちっちゃいから隙間からちょっと見えちゃったけどね。
「どうしたの加賀君。あんな大声で呼ばれたら恥ずかしいよぉ」
頬を赤らめつつ、後ろ手で戸を閉めながら上半身ジャージで下半身スカートという僕の精神が不安定になるような格好で出てきた。
「その、言いにくいんだけど」
「何?」
上目遣いで、訊いてくる。
「体育着を教室に忘れましてー……」
それだけで理解してくれたようで、彼女は頷き、
「あぁ分かった。待っててぇ」
そう言った高島さきは出てきた時の動きを巻き戻したように中に入るとすぐにガラっと。
ガラっと?
えっと、ガラっと、引き戸が全開になり……霧野みやこが出てきた。
そして霧野は僕を一瞥して歩き去った。
え、あれ。目の前の全開扉の先に見える光景と聴こえる悲鳴は何だろうねこれ。
下着姿の女の子たちが、いっぱい。
おっぱいが、いっぱい……。
「ち、ちがっ! ちがう! けど! ごめん!」
結果的にのぞき行為をしてしまったのは申し訳ないとしか言えない!
でも違うんだ!
え、なにこれ霧野さん? デフォルトでこの出かたなのか!
僕は赤面しつつ、おもむろに扉を閉めて高島さんが出てくるのを待つ。
興味のない女子の着替えとか見ても別になぁ、などと考えてることとは裏腹に胸がドキドキしてたりするのは秘密である。絶対に秘密である。高校二年の男が、女子の着替え自体に興味があるのは仕方ないことだというのは言わずともわかることであろうが。とにかく秘密である。
「加賀君、そんな人だったんだ……」
静かに出てきた高島は、出てくるなりそんなことを言ってきた。
わざとらしい上目遣い。冗談だと信じたい。
「いや、霧野が」
「霧野さんが……?」
「いや、なんでもない」
あの娘のせいにするみたいで嫌なので誤魔化した。
「ふむぅ……まぁいいや。で体育着。これでいいんだよね! もう時間ないから急いで急いで!」
「あぁ。ありがとう高島ぁ!」
無意味に走り去る僕。目指す先は、隣のクラス!
隣のクラスに着いた。一瞬だ。隣だからな。で、そこには二、三人の姿しかなかった。既に八割以上の男子はグラウンドに向かっていて、新渡戸もヒロアキも既に居なかった。授業ギリギリに着くように出るあの二人がいないっていうのは遅刻への黄色信号が点滅だぜ。
そして、着替えながら考える。
体育着は教室の後ろにあるロッカーに入れてあった。ということはロッカー内部のあの混沌とした風景を高島に見られたということか。別にいいけど、いいんだけど、ちょっと恥ずかしいな。
とか、そんなこと。本当にどうでもいいな。
着替え完了。僕はグラウンドに走った。
「遅いぞ加賀ぁ!」
教師の声色を真似たつもりなのだろうが明らかに新渡戸の声だった。
つまり、
「間に合った」
息を切らして到着した僕を親友二人が迎えてくれた。
「加賀、何してたの? 女子の着替えでも覗いてたのか?」
ヒロアキめ、冗談が過ぎるぜ。しかし間違ってもいない。というか限りなく正解に近いというか、八割方正解というか。見事パーフェクトに正解と言っても良いかもしれない。
「いやぁ、トイレいってたんだよ」
嘘ついたのだが、その嘘を耳にした新渡戸が僕を見てニヤニヤしだす。
「いっぱいでたかい! いやまて、長引いたということは何らかの……」
「ちょっと出は悪かったぜ!」
親指を立ててやった。
嘘を塗り重ねると申し訳ない気分になるけれど、本当に女子の着替えを覗いてしまったということは不名誉というかなんというか。わざとじゃないけれど。知られたくないのだ。
ともあれ普通の男子らしい少々下品な会話で誤魔化して授業に臨む。
内容はサッカーで、僕ら三人はまったりスリーバックで失点を重ねた。なんてひどいフラットスリー。
★
さて、あっという間に昼休み。
「さぁ飯だ飯だー!」
新渡戸が英語の授業からの睡眠からチャイムと共に目覚め、椅子をガタガタと運びつつ、僕の机の上にパンと飲み物を机いっぱいに広げる。あっという間に机が占拠された。後からヒロアキが僕の前の席のよく知らない女子の机をガダガタとくっつけL字のような歪な図形を作る。
二つの机を三人の男が囲むという普段と何ら変わらない光景だ。
華がないのが唯一にして最大の難点である。
昔は食堂に通っていたが昼食代がなんだかんだで高いと感じた僕たちは、パンにすることでコストを抑えたわけだ。とはいえパンだって学校で買ったりしたら安くはない。では何故パンにするとコストが抑えられるのか。そこで新渡戸の登場である。
実は新渡戸の家はパン屋だ。
大して売れてない。まぁ、売れないだとかそんな事を言うとパンをもらえなくなるので決して口に出してはならない。以前口走ってしまったヒロアキが三日間施しなく過ごしているのを見て僕は恐怖した。それに、売れないと言っても新渡戸父が作るパンがまずいわけではない。むしろ美味い。とても。
売れない理由を新渡戸は「立地と知名度が致命的」とか何とか言ってたっけ。そこで宣伝も兼ねて僕とヒロアキに無償で提供するという協定が締結された。リッチでは決してない僕らにとってはうれしい話だ。
「さぁ今日もありがたく食べるがいいぞ」
「ははぁ~」
某有名時代劇の町人のように平伏さざるを得ない。
その時、僕が頭をあげる前に新渡戸が言った。
「さぁ加賀君、今日の調子はどうだい?」
僕は顔を上げて首をかしげてみせる。
「どうって?」
「もちろんあのことだよ」
あのこと、とは霧野みやこのことに他ならない。
そんな気になるってだけで一日で進展したら街中ラブラブで見てられないことになるぜ。
だが、多少の進展はなくもなかった。
「あぁ、話しかけた」
これはちょっとした進展だろう。
「何て!?」
興味津々である。
「おはようって」
「なんだそれだけか」
なんでそこでガッカリするんだこの野郎。
「まぁ当然、無視だろ、かわいそうに」
ヒロアキは黙って僕らのやりとりを眺めている。
「いや、おはようって返ってきたけど」
「んな!?」
妙に驚くなぁ。オーバーすぎやしないか?
「何をそんなに驚く?」
「何ってお前……霧野だぞ……?」
「あぁ」
「霧野がまともに声を発したところ見たことあるか?」
僕は記憶を辿ってみる。見たことがなかった。授業の際にも反応がないので、諦めた教師たちは彼女に答えさせることが皆無であるほどなのだ。学校の勉強なんてやってられないわっ、ということなのだろうか。だとしたら不良である。
「いや、記憶の中ではあれが初」
僕は答えた。
「ちょっと今行って来い。行って何かしゃべって来い」
こうなると新渡戸はしつこいし、うざったい。
「え、いや、今はその、えっと」
「行けないんなら霧野と会話したことは嘘だとみなす!」
「んなこと言ったって……」
「嘘つきの最低野郎だって言いふらされたくなかったら行くんだ!」
いやまぁ実際さっき女子の着替え覗いてないとか嘘ついちゃった最低野郎なんだけど。割と普段からついつい嘘吐いちゃったりするダメな男なんだけど。
いやしかしここは、行ってみるしかあるまい。今日の僕は、何故だか勇気に満ち溢れている。
椅子を勢いよく膝の裏で弾き飛ばし、立つ。ガタン、と激しい音がなった。
握り締めた拳に汗が出はじめるのを感じた。
右斜め後方で教室の隅を見つめていた霧野みやこの元へ向かう。
一歩一歩近づく。
目の前に立った。
霧野は最も廊下側の席なので窓からの陽光が遮られたのに気付いて僕の顔を見た。
ブラックホールのような漆黒の瞳、その中心が僕を見ている。
綺麗だった。吸い込まれそうなくらいに。
不意をつかれたのかいつものしかめ面ではない。
綺麗だと思った。
この世で一番綺麗だと思った。
「あの……」
と声を掛けたが無言が返ってきた。
「えっと……」
また無言。
「好きです!」
告っていた! なんだそれ! あほか!
あまりの話題のなさに困った脳みそがかろうじて弾き出した四文字、ビックリマーク入れれば五文字。僕らしくない。僕らしくもない!
「な、なぁんちゃってぇー……」
誤魔化そうとする。男らしくない。
「…………」
無反応……だと?
妙な寒気とか冷や汗とか、顔とか耳とか妙に熱かったりとか、ああもうなんていうか、どうしよう!
相変わらず僕をみる漆黒の瞳には表情が宿らない。
僕の言葉が届いてないようで、それはそれでいいよ!
いいよもう!
許してよ、愚かな僕を許してよ!
「…………」
ただひたすらに、無言空間が広がっていた。
だめだ、いたたまれない。
僕はくるりとUターンし、霧野に背を向けて自分の席に駆け、ガタガタと音を立てながら飛び込むように座って頭を抱える。
「ぁぁ…………」
意図せず力ない声が漏れる。
新渡戸がプククと笑っていた。ヒロアキもニヤニヤしている。
「加賀……おもしろすぎるぜお前!」
「新渡戸ぇ~」
「何甘えたような声出しやがる。まだ何も起こってないじゃないか」
「んなこと言ったってぇ……」
すると、これまで黙って事態を眺めていたヒロアキが言うのだ。
「雨降って地固まるってやつだな」
何か違うだろそれ。ていうか全然違うだろ。
そしたら、新渡戸が「雨降ってない上に地固まってもいないぞ」と冷静ツッコミを入れていた。
幸い、というか何と言うか、僕らのこのやり取りを聞いていた者はほとんどいなかった。
女子グループは何故か大勢でどっかの地方のローカル儀式のように窓際で外を向き海苔巻きを口に咥えながら何が面白いのか爆笑していたからだ。高島さきの発案らしい。いよいよもって不思議な女子である。面白いことが好きなんだろうが、そんな季節じゃないぞ。九月だぞ。
そして男子は僕ら以外飲み物を買いに行ったり、食堂に出払ったり、グラウンドで暴れたりしていたようで。
ということは事実上、僕と霧野みやこ、新渡戸とヒロアキの四人きりの空間が奇跡的に生まれていたわけで、幸いというか何と言うか。
不意にチャイムが鳴った。
それが救いの鐘のようで、月並みな言い方しかできないけれど、僕はそっと胸を撫で下ろした。
★
さて、金曜の五、六限はホームルームである。何やら進路についての説明だとか、文化祭についてだとか決めたりする時間だ。
今日は文化祭について話し合っていた。
そこそこの進学校であるこの高校において、高校二年である僕らは積極的に文化的催しに参加する最後のチャンスのようなものと思われる。思われるというのにこの教室全体のゆるみ切った空気はヒドイとしか言いようがない。
五限。
「まずクラスとして参加するかどうかだけど……」
おかっぱを崩したようなショートカットで眼鏡をかけた、委員長らしく威厳に満ちた口ぶりの女子学級委員が何とか皆をまとめようと声を張っている。だが、ざわざわと騒がしい音は消えない。半分の生徒は耳を傾けない。
僕にはそれを何とかする力はないし、文化祭にさしたる興味がないので放置である。それよりも今考えなくてはならないのは霧野みやこのことである。
今僕が置かれている状況をまとめてみよう。
世界史のノートにシャープペン(2B)を走らせる
一、僕は霧野みやこが気になっている。
二、たった今さっき霧野みやこに告ってしまった。(誤魔化したけど)
三、霧野みやこはウルフと呼ばれてしまうほど人を避ける。
四、ああ、もうわけわからん
考えようと思ったことを列挙してすぐに考えるのを放棄した僕は、霧野みやこの方を見た。また目が合った。またしても氷結。だが今度は負けない。その飲み込まれそうな暗黒の瞳を見続けた結果、僕は……目を背けてしまった。
敗北を意味するのは言うまでもない。
そして新渡戸とヒロアキのニヤニヤした視線が痛い。
僕は学級委員の居る教室前方へ向き直り、周囲に気付かれないように小さく溜息を吐いた。と、その時、
「加賀君加賀君!」
そんな声がして背後から左肩に手を置かれる。
僕は左に身体をひねりながら後ろを振り向こうとした。そしたら頬に高島の少し長い爪が軽く甘く刺さった。痛いというよりはくすぐったい。
「何小学生みたいなことしてるのさ」
「んに? どしたの? 何か元気ないけど?」
「いや、別に、何もっ」
「なーんか隠してるでしょお?」
半眼になって僕を見ていた。可愛い。
僕は視線を逸らしながら、誤魔化すように、
「ぇ? 別に、何もっ」
「ふーん、まぁいっか。ところでさ、加賀君のロッカーって汚いよね」
唐突に何を言い出すんだこの小娘は。
「男子なんてあんなもんだろ、新渡戸のなんてもっと酷いぜ」
たぶんそうだと思う。見たことはないけど。
「――っ……まじで?」
驚愕の表情を向けてきた。
えっと、そんなにやばいのか、僕のロッカー。なんかすごい不安になるな。
「もしかして、加賀君の部屋もあんななの?」
「いや、まぁあれを一回り酷くした感じだけど……」
「教科書とかぐちゃぐちゃーって?」
まぁ部屋を掃除した最後の記憶が無いからなぁ……。
「部屋だと教科書の代わりに漫画とか娯楽雑誌とかCDとかゲームとかで足の踏み場がない感じかなぁ」
「あ、置き勉?」
「オフコース」
置き勉、それは怠け者の証。学生に必要な予習復習を無視して学校のロッカーや机の中にあらゆる勉強道具を配備する。利点は教科書等の忘れ物がほぼ皆無となる。難点は、言うまでもないだろう。
ちなみに新渡戸やヒロアキも置き勉党である。特定の科目のみ持ち帰り、課題のようなものをやったりやらなかったり。特にうちの英語の先生は容赦ないので持ち帰る確率は大きい。
そんな時、会話の流れというものをまるで無視した言葉が、高島さきの口から放たれた。
「ねぇ、明日さ……暇?」
「え」
突然何だなんだ。
単語を区切りながらハッキリした声で訊いてくる。
「明日、土曜日、暇?」
「まぁ暇だけど?」
だけど明日は授業あるよ、と言おうとしたが、その前に高島さんが声を発した。
「じゃあ……明日授業終わったら遊ぼうよ」
置き勉の話から脈絡なく変な話になっとる!
ていうか遊ぶったって何するんだ、一体。
とはいえ、断る理由など世界のどこを探してもない。
「まぁいいけど」
「本当?」
「でも何して――」
言いかけた言葉を高島さきが遮る。
「明日の、おたのしみ~」
何なんだ一体。
で、ちょうど雑談まみれの教室で学級委員のストレスが限界に達して、
「あーもう他に意見は!?」
と叫んだところで、何と高島さきが細く短い左腕を伸ばした。
「はい、高島さん」
「演劇、やりたいです!」
五限終了のチャイムが鳴ったとき、教室は、静まり返っていた。
何なんだ、一体。
★
六限になった。なったのだが、いつの間にか六限も残すところ十五分とちょっとだった。
混乱が限界に達した僕の頭は、考えることを完全に拒否し、休み時間に気絶に近い眠りに落ちてしまったからだ。最後に残っていた記憶は、暗い視界の中に机の木目があるという画面だった。
つまり六限終了間際まで寝ていたということ。
黒板には演劇の項を黄色い線が丸く囲っていて、ということは文化祭の演劇でのクラス参加が決定したことを意味する。よくもまぁ、たこ焼き屋に勝てたものだ。やっぱり女子のほうが多いクラスだからかな。
ぼやけた頭が少しずつ覚醒してきたところで僕は後ろを振り返る。訊きたいことがあったから。
「高島さん高島さん」
「ん、何?」
彼女は小動物的に小首を傾げた。
「何で演劇?」
「んーと、なんとなく!」
満面の笑みで言ってのけた。
理由があるけど端折ったとかそんな雰囲気でなく、純粋に、何も考えていなかったように見える。やはり高島さきは変な子なのかも知れない。
そして今度は急に真面目な顔をして、
「何かやるほうが、何もやらないよりは変わる気がするから……」
うーむ、真面目な顔もなかなかだ。どっちにしろ可愛い系だけども。
「楽しそうじゃない? 演劇って。加賀君は、そう思わない?」
「まぁ……」
しかし僕はたこ焼き屋がやりたかった。
可愛い高島さんが可愛く「ヘイヘイ、らっしゃい、らっしゃいー」とか言いながら頭に可愛くねじった可愛いタオルを可愛く巻いて小麦粉の可愛い塊を可愛く回すところを見たかった。
と、その時――
「いて」
不意にルーズリーフを丸めた紙の玉が僕の頭を打った。大して痛くなかったが反射的に「痛い」とい言ってしまう。何故僕の頭に紙球がぶつけられたのだろう。
ああ、あれだ。きっと女子同士の授業中の交換手紙か何かが偶然僕の頭に当たってしまったに違いない。そう思ったのだが、僕が落ちた紙球を拾い上げようと思い、振り向いた時だった。
「うわわわわ」
次々と紙や消しゴムのカスやらが投げ込まれてくる。どうやら女子の交換手紙などではないらしい!
クラス中の男子からの一斉砲撃である。わけがわからない!
とりあえず、そのいくつもの丸まったルーズリーフを広げてみる。中に書かれた文字は、
『しね』『この野郎ゆるさねぇ』『バカ』『紙クズ』
その他いろいろ……。
なんだこの頭の悪い文面は。
どの塊を拾い上げても同じようなことが書いてある。呪いの言葉以外見当たらない。そしてそれは、どうやら僕に向けられた呪いのようだ。だが何故だ。
高島さきは経緯を知っているようで憐れむように、そして、ほんの少し申し訳なさそうな表情をして僕を見ている。
何にせよ、僕の机の周りだけ白い紙で散らかって非常によろしくない。
――先生、僕いじめられてるようです。
そんなことを心の中で主張しつつ、担任の相馬先生の方を見てみると、明らかにこの情景を見ているのに止める素振りもなく、目が合うと両手を広げて首をかしげた。
(ボクハシリマセーン、ジゴウジトクデース)
とかそんなジェスチャー。
あー、起きぬけの頭じゃ謎が解けない。脳内をハテナマークが流れていく。
しかも新渡戸やヒロアキまで僕を攻撃しているだと? どうしたんだ親友どもよ。
夢か? デイドリームか!
掃除とか、誰がするんだ……って、ああ、今日まで掃除当番じゃないか、僕が。というか僕の班が。
高島さんは気に病んだ様子で言う。
「加賀君、起こしたんだけど起きなくて……」
ああもう、なんかもう色々ありすぎて、疲れすぎる。頭を抱えざるを得ない。
その時、パチンと手を叩いて学級委員もとい級長の女子が声を上げる。真面目そうな赤フレームのメガネをかけた細身の女子だ。苦手な教科は体育という情報が新渡戸からもたらされるくらいには、男子人気の高い女子である。ピンと伸びた背筋が格好いい女の子。歩く姿は颯爽としていて、僕も彼女のことは素敵だと思う。
にもかかわらず、同じクラスで長いこと過ごしているにもかかわらず、委員長の本当の名前を僕は知らないのであった。
「それじゃあ、細かいことは明日にでも決めるとして、あとは、席替えね」
席替え。そういえば先週か先々週あたりにそんなことを言ってた気もするな。今の今まで忘れてたが。
「時間ないからさっさとやっちゃって、さっさと帰りましょう」
★
というわけで席替え。
白い小さな紙袋に事前に用意してあったクジが入っていて、廊下側から一人一枚ずつ袋に手を入れて引いていく。その結果として僕は一番廊下側の一番後ろの角をゲットした。隅っこはいい。実に落ち着く。
ちなみに、机自体は移動せず中身だけ移動するからそこはつまり霧野みやこがつい数十秒前まで座っていたわけで、よく机に伏して眠る彼女の髪が触れた机なわけで……。
いけない、発想が病的で変態じみている。
目を覚ませ。目を覚ますんだ加賀遊規!
自分に言い聞かせてみた。
で、その霧野みやこは僕の左隣の席で、けだるそうに伸びをしていた。
机から、良い香りがするとか、そんなこと思ってない!
いやしかしそれにしても、まさか隣の席になるとは。
ついでに言えば新渡戸は霧野みやこの左隣。僕からみると隣の隣。
ヒロアキが廊下側の後ろから二番目。
つまり二人の親友は今現在、僕の目の前視界内にいるわけだ。
いるわけなのだが、僕の方を見ようともしない。意識的に避けている気配がひしひしと伝わってくるのだが、原因が分からない以上どうしようもない。ちなみに、まだ紙球が俺の方に向かって時折飛んできている。教師の前で堂々としたイジメ過ぎるだろう。僕が一体、何をしたと言うんだ。
で、最後に、高島さんは窓側の一番前。僕の席から最も遠い。だけども、もしもこの教室が地球のようにまるいのなら一番近くもあるね。しかしそんなことはあり得ないか。
えっと、なんだ、僕は少しガッカリしてるのか。
確かに、あの背後からの「加賀君加賀君!」っていう元気な声がなくなるのはとても寂しい気がするけども。
「きりーつ、気をつけー、礼ー」
学級委員、もとい級長の号令で学校での一日が終わる。
だけど、僕はまだ帰れない。掃除当番だからだ。というわけで掃除する。
「あ、加賀君加賀君」
「なんだい高島さん高島さん」
「頭にゴミついてるよー」
ちっちゃい高島さんが体とちっちゃい手をいっぱいに伸ばして僕の頭についた消しゴムのカスを払ってくれた。あぁなんて優しい子。ハートの傷にしみるぜ。
「ところで加賀君、これ、どうしようか……」
「日本がいかに幸せな国かわかるよね……」
紙くずが、ゴミ箱に入りきらないでいた。
「高島さん、一つ訊いてもいい?」
「だめ」
「なんで?」
「明日にして」
「……わかった」
質問前から拒否って一体どういうことだ。まさか高島さんも怒っているとでも?
「ゴミ、あたしが捨ててくるね」
「え、待ってよ、僕が……」
「一回目は行くって事。まだゴミあるでしょ? 箱に入りきらないの。加賀君は次いけばいいから」
「でも、あ……」
言いかけた時には、もう高島さきは視界にいなかった。
怒っているわけではなさそうだけど。
どうもいつも彼女のペースに引っ張られている気がする。
で、同じ班の皆が一度後ろに下げた机を元の位置に戻す間、僕は教室の隅っこで大量の紙くずと戯れていた。いつもは待ってくれている新渡戸もヒロアキも既に帰ってしまっている。一変した環境の変化に僕は全くついていけていない。
ボーっとしながら紙玉を突っついていると、
「おまたせー」
高島さんが戻ってきてしまった。
もう掃除は大体終わっていて、僕の足元の紙くずたちを残すのみだった。
班の皆はジャンケンがないとわかっているのでさっさと教室を出て行く。
「じゃあねー、さきー」
「あ、うん。じゃあねー」高島さきが応えて手を振った。
最後の一人が出て行って、二人きりになった。
高島さきはチリトリをしてくれている。
まぁ、すでにまとめられたゴミを箱に入れるだけなのでそう時間のかかる作業ではない。
あっという間に終わって、僕は掃除用具入れに箒を戻した。
「さ、じゃ、途中まで一緒にいこ」
高島さんは言って僕にゴミ箱を手渡す。
「ああ……」
ゴミ箱を抱え、電気を消して教室を出る。カバンを肩に掛けた高島さきを先頭に、僕が続く。彼女の後姿はとても小さくて、とても可愛らしかった。
階段を降りていく。高島さんはリズミカルに、僕は重い足取りで。階段を降り切って、昇降口を出て、別の校舎へ。
そしてゴミ捨て場へと続く廊下。
「あれ、高島さん?」
「ん? 何?」
「別にこんなとこまで付いて来てくれなくてもいいんだけど」
「邪魔?」
「いやそんなこと」
ないけど。
ていうか、付いて来るというか彼女が先導していてむしろ僕が付いて来たように錯覚する。錯覚じゃないかもしれないが。
僕は彼女の背中に語りかける。
「なぁ、やっぱ訊いてもいいか?」
「だめ」
「どうしても?」
「だーめ」
「理由は?」
「えーと、別に理由なんてないけどー」
「じゃあ」
「だめだってば」
わけがわからない。黙るしかない。
「とにかく、明日、いっぱい話しよ」
そう言った彼女は立ち止まって振り返り、今来た道を少し戻って、僕とすれ違うと、少し歩いてまた立ち止まった。
振り向いて笑顔で手を振った後、すぐに走り出した彼女を、僕は半身になって見ていた。
「じゃあねー!」
「ああ、また明日ー」
静かに光る廊下を元気に蹴る音が響く。廊下は走るの禁止だぜ高島さん。
ゴミを捨てる。暗くなった教室に軽くなったゴミ箱を戻し、鞄を肩に掛けて帰路につく。
何故だか、溜息が出た。