Chapter5 新渡戸の想い_2
それから週末まで、俺を含む五人は、より一緒にいる時間が長くなって、そんな日々がたまらなく楽しかった。
霧野みやこという女の子を人間として見れるようになったことで、ようやく俺も仲間になれた気がして、全てうまくいくような気がしていた。
あの時までは……。
あっという間に日々が過ぎて行ってしまって、憂鬱な中間試験前の最後の登校日。加賀と共に二人で忘れ物の教科書たちを取りに来た教室で、思いもよらない別の忘れ物を見つけてしまうまでは……。
「何だこれ?」
夕日で赤みがかった世界で加賀が呟いた。はじめ、俺はそれを気にせず自分の作業を続行していた。教科書やノートをロッカーから、机から、全て鞄に詰め込んで、加賀に声をかけようとした時、加賀の手に握られているものを見て、俺の心は揺らいだ。
ひどく波立った。
ありえない光景だった。
……何で?
どうして加賀がそれを持っているのか?
見覚えがある白い紙袋。
霧野みやこの薬。
霧野みやこという存在を消して新渡戸夕実にする魔法の薬、呪いの薬。
親父を狂わせ、母を追い出した薬。
「やっぱり、お前だったのか」
そんな言葉が、俺の口から出たらしい。
「何か、知っているのか!?」
「え? だってその薬……」
その薬を霧野みやこに飲ませなかったのが加賀ってわけじゃないのか?
「霧野みやこのか?」
「知ってるんじゃないか。やっぱり」
「いや……何も知らない。どういうことだ? 霧野は死ぬのか!?」
死ぬ?
いや、死なない。
いや、死ぬのかな。
……死ぬ。
どうだろう。
「……あー忘れてくれ。今の話、全部」
冷静に放った。
「何でだ! 教えろよ!」
加賀は俺の襟を掴んで押した。ロッカーに押し付けられた。
「離せ」
「お前が話せよ! 全部!」
考える。話せるわけがない。
霧野みやこが作られた存在などと。加賀には知られてはいけない。
こんな汚いものを、汚い俺を、知られたくない。絶対に。
保身?
そうだな。保身だ。
でも怖いんだ。
知られてしまうのが。
だから、往生際なんて言葉は、俺の頭から消してやる。
「加賀が知らないとなると、まさか」
俺は緩やかに加賀の手を解いて、霧野の机の中を探った。
「おい、他人の机……」
「黙ってろ」
「う……」
何も無い。
そうか、テスト前だから机の中のものを全てロッカーに入れたのか。
俺は、霧野みやこのロッカーを、開けた。
大量の白い袋が俺の上履きを撫でて床に落ちた。
「やっぱりか。おかしいと思ってたんだ。笑うはずがないんだからな、まだ、笑うはずないんだからな」
薬を飲んでいないんなら、そういうことになるのも無理がなかったのか。
霧野みやこはやはり人形?
さあ、どうだろう?
霧野みやこを人形にしていたのはこの薬ってところか?
真実なんてもうこの際関係ない。
ただ、加賀をこれ以上関わらせてはいけない。
そんな予感がある。
「どういうことだよ!」
「お前は知らなくていいことだよ」
「おい、ふざけるなよ! ここまで色々見せておいて! 今更!」
「頼む、頼むから、忘れてくれ……」
「霧野みやこをどうする気だ」
「どうもしない。俺にはどうしようもないしな」
そうだ。俺に選択することはできない。
霧野みやこが薬を飲んでいなかったことは遅かれ早かれ奴らに知られる。
「それが、お前の言う、薄っぺらい真相か!」
真相はお前には教えないよ。
「僕は霧野に言われたんだ。もうすぐ死ぬんだって聞かされたんだ!」
そんなことがあったとは知らなかった。
でも関係ない。
お前にも、どうすることもできない。
「何か出来ることを探すんだよ! だから! どうしようもないってなんだよ!」
何も、できないんだ。
俺にも! お前にも!
俺は、加賀に言い聞かせようとする。
「加賀……お前はさ、今まで通りで良いんだよ。ただこの教室であったことだけを忘れて……」
「いい加減にしろ! 霧野は僕が守るんだよ!」
加賀は走って出て行ってしまった。自分の鞄を持って帰ることも忘れて。
「ちっくしょう!」
鈍い金属音。思わず、俺は金属製のロッカーを殴りつけて、凹ませた。
器物損壊、軽犯罪。
よく知らない女子のロッカーだった。
金属が凹む音が、俺の頭の中で虚しく反響した。
霧野を守る? お前が?
どうやってだよ。無理に決まってるだろ。お笑いだな。
研究所の奴らは言っていた。
「投薬を途中でやめてしまっても霧野みやこは死んでしまう」
というようなことを。
ならば、研究所の奴らに報告するしかない。
助けたいと思うなら、せめて生かさないと……。
――ああ、俺は、失敗ばかりだな。
でも、心のどこかで、加賀に打ち明けたい気持ちもあったのかも知れない。
中途半端なのが、一番、救えない。
★
俺は帰りにパン屋の下の研究所に寄って、一部始終を報告した。
「何故しっかり監視していなかったのだ!!」
とか激怒していたけど、そんなことは知らない。
しっかり人数をかけてやればいい。金があるんだったらプロにやらせればいい。
俺に罵声を浴びせる権利なんか、お前らにあるものか。
まぁ奴らも追われる身で、周囲にプロの軍人等がいたりすると逆に不自然さから気付かれやすくなることを知っていて、だからこのパン屋にも一切のセキュリティを導入していない。
見つかればどの道計画は全て潰れる。
見つからない方法を模索した結果、最善と考えて実行するのが、無防備で無謀とも思える俺のような一般人を使った計画だった。
結果的に、それで今まで四年以上、尻尾を掴まれていないらしい。
そして親父は研究員に向かって、すがるように、こう言った。
「あぁ、夕実は大丈夫なのですか?」
どうして親父はここにいるとき、ここで霧野みやこといるときだけはおかしくなってしまうんだろうな。
「大丈夫です。命に別状はないでしょう」
命に別状はない?
その言葉に何故だか違和感。
やっぱり、霧野みやこを、俺は、人間として、見ていない。
最初から、生きてなんて……。
「あああ、よかった。よかったぁ」
親父は心の底から安心していた。
「これから少々荒療治ですが薬を直接血液から吸収させます。そうすることで次に目覚めた時に彼女は新渡戸夕実になっているはずです。私どもの、考えが正しければ」
「おお……ついに、ついに夕実が帰ってくるんですね。ありがとう。ありがとうございます」
「まだ、わかりませんよ。私どもも初めてなのでね……」
奴らも、できるだけ早く終わらせたいんだろうか。焦っている。そんな風に見えた。
★
家に戻ってベッドに横になった。
頭がボーッとしている。テレビの映らないチャンネル、その砂嵐のような画面。
そう、加賀に俺の嘘を知られたことが、衝撃が大きかった。それは認める。
加えて、俺が結局一度霧野みやこを人間だと認めながらもまだ心のどこかで否定していたことがわかったこと。これもなかなか衝撃的だった。
こんなにも自分の気持ちがわからないものなのかな、人間ってのは。
霧野みやこの立場になって考えてみよう。今まで五年もの間妹の代わりに近くにいたにも関わらず、こういうこと、一度も考えたことなかったな。
――もしも俺が作られた人間だったら。
これは、あり得ないことじゃないんだ。霧野みやこという例がいるんだから。そしてそのことを周囲から知らされず生きていたら、知らないままなら良い。知ってしまったら、きっと、おかしくなってしまうだろう。
でも俺の記憶は間違いなく物心ついた頃から引き継がれてきているものだ。
俺は霧野みやこでなく、新渡戸夕実でもないから分からないのだが、作られた人間にとって、記憶はどのようにして蓄積されるのだろう?
人間と脳の基本構造は一緒であろうからやはり変わらないのか?
薬による記憶はどのように?
栄養を摂るようにして?
メカニズムはわからない。
ん……?
待てよ……。
今俺は気付いてしまった。
こんな簡単なことに今まで気付かなかったなんて、俺はなんて馬鹿なんだろうか。
五年。こんな出来事に遭遇し続け、五年目にしてようやく、気付いた。
――俺の記憶が、五年かけて作られたものではないという確証は、ない。
昔からの友や親に聞いたとしよう。
「いいえ、そんなことはない。私は貴方が昔からずっとここにいることを覚えている」
嘘をついているとしたら。俺を想って嘘をついているとしたら?
「いいえ、そんなことはない。私は貴方が昔からずっとここにいることを覚えている」
その記憶も五年かけて作られたものだとしたら?
五年?
五年かけなくても記憶を作り出せる技術がないという確証は、ない。
証拠がない。証拠が、ない。
「は、はは……は……」
笑いがこぼれた。狂ってしまったような笑い。
今まで考えなかった理由がわかった。
いや、もしかしたら今まで何回もこうして同じことを考えた結果、狂って、リセットされたのかも知れない。
テレビゲームみたいに。そうでないという確証もまた、無い。
こんなスパイラル。
渦巻く。
証拠、証拠、証拠、確証、確証、証拠。
信じるに足る証拠。きっと求めてもそんなもの、存在しない。
証拠に代わるもの。それが信じること。
俺にそんなもの、あるわけがない。あるわけがない。
あるわけが……。
人を騙し、俺を騙し、欺き、操作し、まるで外から手を加えるように。
神様気取りで。傍観者気取りで。
最低、最悪。醜悪、救いようがない。嘘つき。
度を越えていた。
「新渡戸だからしょうがないな」
「なんだ、また新渡戸の嘘か。しょうがねえ、付き合ってやるか」
「新渡戸のやつ、またかよ」
「誰か新渡戸に言ってやらなくていいのかよ」
頭の中に、鳴り響く。
「うるさい! うるさい! うるさい! だまれ! 黙れ黙れ黙れ! だまれ! 違う! 黙れ! うるさい!」
叫ぶ。
「おい、あんな嘘いいのかよ?」
「新渡戸だからいいんだよ」
「やめろ!」
追いつかない自責と、消えない幻覚。
麻薬の症状で聞いたことがある。
麻薬なんてものに手を出した記憶は無いが、その記憶も消されているのかもしれない。
知らない間に投与されたかのように、浮かんでは消える。
「また新渡戸に嘘ついたろ、程々にしとけよ」「あいつ何もしらないから面白いんだよ」「まぁ新渡戸だからな」「あははははははははは」
「――嘘つき」
「お前なんか死ねばいい」
「――嘘つき」
「ひどいネクロフィリアだと思わないか? この狂人め」
「――嘘つき」
「だからお前の母親は消えた」
「――嘘つき」
「お前に親友? 友達すらいるものか」
「――嘘つき」
「加賀のため? 笑わせる。お前のためだろう?」
「――嘘つき」「嘘つき」「嘘つき」「嘘つき」
「父親が狂ったのが誰のせいだか本当にわからないのか?」
「――嘘つき」
「自分を好いてくれている人が死ぬとしたら、お前ならどうする?」
「わからない! わからない!」
「――嘘つき」
「生き返らせるんだろう? 奴らを使って」
「――嘘つき」「嘘つき」
「なんで! なんでこんな人が加賀くんの親友なのよ! 信じらんない! 最低!」
「――嘘つき」
「なぁヒロアキ、嘘ってついたことあるか?」
「そりゃあるぜ。人間だからな」
「――ほら、お前も嘘をつかれているんだ」
「違う!」
「――どうして? だってお前はあんなにも嘘つきじゃないか」
「――嘘つき」「嘘つき」「嘘つき」
「ちがう! 違う! 違うんだ! 俺は! 俺はただ……」
「――嘘つき」
「……ごめん……」
――突然、
携帯が鈍い音で鳴いた。しばらく鳴き続け、止まった。
それで俺はなんとか自分の部屋のベッドの上に戻ってこれた。
「夢……?」
悪夢すぎる。
本当に悪夢だったのなら、良いんだが。
気持ちが悪い……胸を圧迫されるような感覚。
息を切らせながら時計を見ると、午前四時五十分。
こんな時間に誰か起きてるのか。
暇人だな。いや、素直に早起きだと言っておこう。
だけどあんな悪夢の後だ、もう一眠りさせてくれ。
そう思って布団をかぶった。
また、携帯が鳴いた。そしてすぐに鳴き止む。
しばらくして、また鳴いた。
「クソ、何だよ」
俺はベッドから這い出て携帯を確認する。
ヒロアキから電話が一件。
そして、メールが二件。
あの野郎、メールは嫌だとか言っといてちゃんと使えるんじゃねえか。
内容は、
『新渡戸夕実が死ぬぞ』
『公園を通ってパン屋に向かえ』
「……え?」
整理……。
これは、一体、どういうことだ?
何でヒロアキが……?
新渡戸夕実、って、どうしてその名前がヒロアキが言うんだ。
死ぬ?
霧野みやこに何か?
でも霧野は研究所のはずで……。
いずれにしても、まずい。
何が起きているのか、まずは確かめなくては。
俺は駆け出した。出かけた服装のままでいたので、厚手のジャンパーを一枚羽織るだけで外に行く格好にはなった。制服にジャンパーって、外に行く格好と言っていいのかどうかは知らないが。
右手に携帯だけを持って、走った。
何が起きている?
どうしてヒロアキが知っている?
俺の、嘘を。どうして……?
自転車に鍵を刺し、開錠。
勢いをつけて跨ぎ、誰もいない下り坂を駆け下りた。右に曲がって入り組んだ道、いつもパン屋から家に戻るときに使う道を、徒歩の十倍くらいのスピードで走り抜ける。
障害物を右に左に、ハンドルを切って避ける。人がいないからいいものの、誰か飛び出してきたらちょっとした人身事故になる。でもそんなことも言っていられない。左に曲がってまた右に。また左で右に曲がる。
狭い抜け道で車輪は回る。
何分か前に降っていたらしい雨の影響で、タイヤが滑って横転した。何箇所か擦りむいた。痛い。
でもそんなことも言っていられない。
人……。
一人の人間の、命、が、賭かって、いるのだから……。
公園を通ってパン屋……。公園を通ってパン屋……。
俺は、霧野みやこの姿を探した。公園の北東の入口にはいなかった。パン屋に行くには北西の出口から出るのが一番近い。本当は公園を通らないほうが親父のパン屋に行くには近いのだが、公園を通れとヒロアキが言った以上、何か理由がある……は……ず……。
俺の目に飛び込んできた光景を、俺の脳は冷静に処理した。
俺の心はそれを拒否した。
波立つ。
男の左手から延びる長身の女の腕。
その女に刺さった鋭利な刃物。流れ出る液体。色は赤。
禍々しい刃を持った別の女が彼ら二人を追い詰め、その刃先を力なく垂れ下がる女に向けている。
流れ出る液体。広がっていく赤。
そこにヒロアキは居ない。
呼び出しておいてどうして?
代わりにいたのは……加賀遊規……。
「――嫌! 私! 死にたくない! 楽しかった! だって楽しかった! 嫌! 死にたくないよ! っ遊規!! ねぇ、どこ!?」
がくんと俯いていた女が叫んだ。
霧野か……? それとも夕実……?
どっちだ……。
どっちでもいい!
そんなこと!
――どっちもだ!!
自転車を放り出す。
ガシャンと激しい音がした。
「加賀!!」
俺は背後から加賀に走り寄る。
「ち、新手か! いや、なんだ新渡戸夕貴か……」
この声。この顔。でも、そんな、この女、どう見たって……級長だった。
眼鏡が無かったが。
「え、級長殿? 何を……」
「新渡戸! 新渡戸、霧野。霧野が!」
そうだ、今はそんなことより、出血するこの娘を……霧野みやこを助けないと。
「お、にぃちゃん……?」
体中に、寒気が走った。歓喜か恐怖か、よくわからないが、心が激しく揺さぶられた。
その声は、夕実の声とは全然違った、似てもいなかった。
でも、その声は、たしかに夕実!
夕実だった!
「……夕実? 夕実か……夕実!!」
俺は携帯を放り投げて、妹の左手を掴んだ。少し冷たくなっていた、その、手を。
「ご、めん。せっかく会えたの、に、ごめんね、おにい、ちゃん」
「…………なんで……」
何で死んだんだ。
何で今まで眠っていたんだ。
何で帰ってこなかったんだ。
何で一緒に……。
何で……。
――何で死ぬんだ……。
「ゆうき……ねぇ……ありがとう。あははっ……あ、……そう、だ……あぁ少年よ。急ぎなさい。彼女の手を引けるのは、そなただけなのだか……ら……」
そう言ったきり、妹は動かない。新渡戸夕実は動かない。霧野みやこは動かない。
「……う、そ、だろ? 霧野? 霧野ぉ……」
加賀は必死に名前を呼ぶ。
親父のつけた、適当なその名前を。
「嘘じゃないわ。止まったの」冷たく言い放つ級長。
「…………」
「…………」
これで良かったのかもしれない。
そう思った。しかし、その感情を、俺自身がすぐさま否定した。
何が、良かった、なんだろうか。
目の前に、親友の好きな人が力なくあるのに?
目の前に、親友を好きな人が力なくあるのに?
今にも消えてしまいそうなのに?
良かった……?
本当に……?
俺は本当にそう、思ったのか?
一瞬でも、そんなことを、考えたのか?
最低、という言葉では、言い表せない位、最低だ、俺。
「うああああああああああ!」
土砂降りの雨の中、加賀が夕実の右手を手放したその左手で級長に殴りかかった。左手の次は右手。また左手と、右足を引きずりながら、みっともない拳を突き出す。当たらない。右足は負傷しているようで、血が、飛び跳ねていた。
「何で! 何で殺した! 何で! あいつが、霧野が、みやこが、何をしたよ! 新渡戸夕実が何をしたよ!? 何で! わけもわからず殺されて! わけもわからず生かされて!! わけもわからず殺されるんだよおおおおお!!」
お前、全部知ってたのかよ……。
「加賀……落ち着け」
霧野みやこはまだ生きてる。気を失っただけだ。
この程度なら助かるはずだ。出血は多いが……可能性はある。
「落ち着けるわけ、ないだろうが! 器!? しらねぇよ! 人間だったじゃねえか! 霧野みやこは確かにいたんだよ! 生きてたんだよ! 笑ってたろ!? ちゃんと、魔女の役もこなしてさ! 何だよ……お前ら全員見ただろうが! 頑張ってただろうが! 何で死ぬんだよ! ふざけ――」
級長の繰り出した刀での一撃で、加賀は崩れ落ちた。冷たい目でそれを見下す級長。
出血はない。おそらく峰打ちというやつだろう。
あぁ、そうか。そういえば言っていた。研究所の奴らも追われていると。今、目の前にいるこの女。我らがG組級長が、追ってきた刺客。
そういうことか。
「お前たちを殺す気はない。ただ、そこにいる女の形をした器を壊す」
冷たい目が、俺を見据えていた。
「させない……って言ったら?」
「抵抗してもいい。そこにいる加賀遊規のようになるだけだ」
死ぬことはないだろうな。そういう思想なんだろう。よくわからんけど。
「クラスメイトだろう? 話し合わないか? 級長だろ? 学級委員だろ?」
「ここは学校じゃない」
平坦な声。感情のない。
俺は加賀に全てを知られ、ヒロアキに全てを知られ、高島さきに追及され、霧野みやこが、そして夕実がこんな風にボロボロになってようやく、自分の気持ちに答えを出すことができた。
――器?
ちげぇよ。
人間だ。
「……霧野みやこを殺したければ殺せばいい。だけど、覚えておけよ。お前らの言う、その器とかいうのをを壊すということは、二人の人間を殺すということなんだよ!」
「違う。それは人間じゃない」
「人間だ」
「人間じゃない」
「本当はお前も疑ってるんじゃないのか?」
「何を」
「人形のような人間だっているだろう?」
「いない」
「お前は?」
「私は人形じゃない」
「じゃあ霧野はもっと人形じゃない!」
「私は人形じ――」
銃声。級長の声をさえぎるように軽い音が響いた。
どこから? 上? 木の上?
キョロキョロと周囲を見回す。
「っく」
銃弾は級長の左足を掠めて、落ち葉を貫いて地面に突き刺さった。高速で通過した銃弾によって、掠めた足からわずかな出血。軽傷。
また銃声。
もう一発。今度は右肩に直撃した。級長の体が仰け反り、赤い血が流れ出す。
拳銃とは、物騒な武装だこと。
「これであいこだな」
そう言いながらイチョウの木の枝からヒロアキは飛び降りた。
ひどい格好だった。背広がボロボロで台無しだ。
そして俺も、加賀と同じように気を失ったらしい……。
目の前は、ただ、赤と黒の、グラデーション……。
あぁ、雨音がうるさいな。
「ごめん新渡戸」
そんなヒロアキのノイズ交じりの声と共に、幻みたいな幸せそうに眠る夕実の顔を見たのを最後に……暗転だ。
★
親父を責めることはできない。俺もきっと同じ答えを出しただろう。
助けたかった。可能性があった。すがらないことが罪で、すがることも罪ならば、俺も親父と同じ選択をする。
だって、可能性を生まなければ奇跡など起きないのだから。
でも、罪。
そう、罪。
罪を犯した人間が、のうのうとこうして生きている。
人は秘密を持っている。誰もが、隠したいことを持っている。それが罪なのだろうか、あるいは罰なのだろうか。
秘密を、どんなに近い人間にも打ち明けられない。
たとえば、父にさえ、俺の抱く父への嫌悪の感情をひた隠す。
人は潜在的にも実質的にも、孤独なんだよ……。
そう、思っていた。
でもヒロアキは知っていた。加賀も踏み込んできた。
二人は、俺の知らぬ間に全てを知っていた。
支配しているんだと思っていた。
俺の生み出した筋書きを、なぞらせようと思っていた。
でも、初めて絵を描く子供が、塗り絵の本を手に、線の通りに絵を塗るだろうか?
初めて筆を握った子供が、お手本の字をなぞるだろうか?
俺はただ、願っていただけだった。叶うはずもない事を。
そのために、取り返しのつかない数の嘘を、塗り重ねた。
取り返しのつくわけもない酷い嘘を、塗り重ねた。
汚い、絵。
汚い、字。
「――嘘つき」
俺は救いようの無い、大馬鹿だった。
だけど、わかってほしい。
ただ、助けたかった……助けたかった……。
それだけだったんだ……。
弾倉が回転する音が、空しく響いた。
【ヒロアキ編に続く】




