透明な泥水
目に見えないものというのはどうにも認識しにくいものである。実際に遭遇したとしても、それが現実だということはにわかに信じがたい。しかし断っておくが、これから話すことはすべてぼくの実体験だ。
信じなくてもいい。知っておいてほしいのだ。ぼくには『あれ』を見つけた者として誰彼かまわず教える義務があるのだから、ぼくはそれを果たそうとしているに過ぎない。
実際、大した話じゃない。都市伝説や怪談ていどの与太話で『不審者に気をつけましょう』ていどの警鐘だ。
『気をつけましょう』
そうだ。
ぼくがきみに言いたいことは一つだけ。
気をつけろ。
危険は、目に見えない。
これからきみに話す物事の中で、大きなウェイトを占める要素がある。まずはそれを紹介しよう。
ぼくが遭遇した目に見えないもの一つとは、要するに『水没』だ。
その上にあるものは、何もかも沈んでいく。そういう話だ。しかしこの水没の怖いところは、それが地上で起きるところだ。
地上での水没。
なんでもない道端で、いきなり地面にずぶずぶと沈んで、落ちていく。
どこに沈んでいくか。そんなのはわからない。大事なことはそこに沈んでしまったら、自力で出てこれないってこと。ここが大事だ。そこに何があるかといえば、別に難しい話じゃないんだから。
例えるなら、それは雨上がりにできたぬかるみ。
あるいは、底なしの沼。
どうしようもなく不自然なのにどうしようもなく自然現象で、ぼくらにどうこうできる問題ではない。
ただ、それに飲み込まれないように。
注意して。
目を凝らして。
耳を澄ませて。
鼻を効かせて。
抜き足差し足。
常に石橋の上を行くように。
叩いて、叩いて、叩いて、歩いていくしかない。
はまったら、とにかく抜け出すように努力しろ。
助けを求めろ。
大事な人の名前でも叫べ。
運が良ければ、助かるかもしれない。
あのときの出来事を思い出す度、ぼくは自分の足元を確認する。
あの『見えない泥』に足をすくわれないよう、ぼくはいつも怯えているのだ。
/1
「目に見えない危険ってあると思うんだよね」
ぞうきんで教室の扉を磨いていた天野が言った。
「具体的にはばい菌だけどさ。そういう汚れを掃除して、みんなが汚れないようにすることが掃除係の仕事でしょ」
放課後。教室の中にはぼくと天野の二人だけだ。
ぼくと天野は今日の掃除係を請け負っていて、その最中である。ちなみに他にも掃除係で天野の友達がいるのだが、いつの間にかトンズラしていた。帰宅部を含めて部活にいそしんでいることだろう。
その証拠に掃除係であるはずのクラスメイトの机の上に、脱ぎっぱなしの制服が放置されている。一応女子ならあんなふうに脱ぎ散らかしていくべきでないだろうに。
「汚れないように、ねえ」
筋は通っているがそれにしたって天野は少しやりすぎだと思う。ぼくは遠回しに反論する。
「そんなの、手洗いを推奨すればいいことなんじゃあ?」
「ダメ。手についた汚れはいつ体の中に入るかわからないんだよ。そもそも、いつ手についたかもわからないし」
「そりゃあいろいろあるだろうけどさ。ばい菌なんてそこら中にいるわけだし」
「その中でもさらに重点的な雑菌の根源があるでしょ? クラスの全員がほぼ毎日触れて、かつ手洗いをする暇もなく使ってしまうものといえば」天野は一拍間を置いて「扉でしょ」
「いや、そんな当たり前のところから疑問を持っているわけじゃないから」
無意味に間を空けなくていい。
「じゃあ取っ手部分だけじゃなくて、扉全体を拭いていることが不自然って言いたいんでしょ?」
「だいたいそんなところ」
「違うんだなあ。引き戸だと、戸の部分に手を置いてスライドさせる人、すごく多いんだから。ちゃんと扉全体を掃除するべきなんだよ」
その開け方はぼくもよくやる。取っ手に手をかけるの、面倒だし。でも。
「いくらなんでも教室の扉のレールを撫で回すようなやつはいないんじゃないか?」
そう。
天野がさっきから丹念に拭いているのは教室の扉のレール部分なのだ。
そこは手をつくところじゃなく、踏む場所だろ。
「敷居って踏んじゃいけないんだよ。敷居はまたぐもの」
「敷居ねえ……」
どうでもいいけど、この汚いレールを敷居と呼ぶのには抵抗があるなあ。
「ていうか、どの道またぐんじゃないか」
「いつどこに触るかなんてわからないでしょ」
「……暴論だな」
「とにかく、私たちは掃除係として面倒で渋々ながらも徹底的に教室を綺麗にする義務があるわけよ」
「面倒で渋々やってるようには見えねえけどな」
むしろわざと掃除を長引かせているように思える。
学校の掃除なんていうのはほんの十分二十分、ほうきを動かしておけば済むものなのに、もう一時間近く掃除をし続けている。学期末の大掃除ならまだしも、今日は祝日も行事もない六月のなんでもない月曜日だ。
「わたしだってやらなくていいならやらないよ。でもやらなくちゃいけないの」
「そりゃ、係だからな」
「違うよ」天野は呆れた様子でため息をつくとレールを磨く手を止めた。
「橋田。なんで掃除をするんだと思う?」
「そりゃ、不衛生だからだろうよ」
「でもこの教室にあるのってホコリや紙くずや消しカスだけでしょ。衛生面ではあまり関係ない」
知るもんか。
「おまえはどうしてだと思うんだ?」
「そこにゴミがあるから」
「登山家かよ」
「ゴミってゴミを呼ぶのね。ほら、いつだか授業で聞かなかった? 窓ガラス一枚割った状態の建物を放置しておくと、全部の窓が割られて廃墟になるってやつ」
「なんか聞いたな」
ブロークン・ウィンドウズ理論だっけ。
「ゴミはゴミを、汚れは汚れを呼ぶわけ。つまり、こういうところのゴミを二、三日でも放置していたらあっという間にこの教室は反抗期に入った少年少女の掃き溜めになるってこと」
「なるほど。だから掃除をすると」
「そういうこと」
一応、理屈になっているような気がした。
嫌なものは嫌なものを引き寄せる。
噂をすれば影が差す。
類は友を呼ぶ。
逆もまた然り。
たしかに、そういうものかもしれない。
「でもやっぱり、教室の扉のレールは掃除しなくていいと思うぞ」
「文句言わない。手を動かす」
「へいへい」
「ついでにすばらしいトーク力で場の空気を盛り上げるとなお良し」
「知るかそんなもん」
なんだ『場』って。
二人だけじゃん。
ぼくは窓拭きに集中する。一見、窓に汚れはついていないように見えるのにぞうきんで拭くと泥がべったりとついている。変な汚れ方だ。
土曜の豪雨のせいである。
先週の土曜日、天気雨が降った。空模様はすばらしい晴天なのに雨はゲリラ豪雨さながらの強さで、町のあちこちでとんでもなく大きな水たまりができたり川が氾濫したりで、妙なことがあるものだと大人たちはつぶやいている。
その雨の汚れが、この窓についているらしい。まさに目に見えない何かがついているみたいで、この汚れはなかなか落ちない。窓自体の透明度は充分なのだから、別にほっといてもいいんじゃないかと天野に訴えたが聞き届けてもらえなかった。残念。
真っ黒になったぞうきんをしぼり直す。窓の外から聞こえる部活動の音が遠くから聞こえる。
毎年コンクール予選落ちの吹奏楽部のへたくそなラッパ。何が楽しくてやっているのかよくわからない野球部員の怒声。もうそろそろ日暮れだ。
「あのさあ」天野の声がした。
「何」
「橋田ってさ」
そこで声が途切れた。いや、ものすごく小さい声で何か言われたような気がする。振り向くと、天野の手が止まっている。
「なんだよ」
「その、」
天野の耳が赤くなってるような気がする。西日のせいか、緊張してるのかは判断できない。
「橋田って、彼女いんの?」
「はあ?」
なんだいきなり。何言い出してんだ。
思わず赤面する。
こいつまさか、ぼくのことが好……きなわけじゃねえな。うん。絶対ねえわ。キモいぞぼく。自意識過剰だ。
天野とは小学校のころからの腐れ縁だ。なんの偶然か、小学校一年からこの中学二年までの間ずっと同じクラスである。誰かにバラされたら死ねる弱点を、お互い知り尽くしている。つまり、それだけの醜態をぼくはこいつに晒しているわけだ。百年の恋も冷めるようなやつを。こんだけ長く付き合っておいて、何を今さら惚れた腫れたと問題になるのか。自分のことは棚に上げてそんなことを思う。
そりゃあ仲良しと言えば、仲良しだろう。けれどそこはどこまで行っても男子と女子なわけで、思春期真っ最中のぼくらは中学に入ってからあまり話さなくなっていたのだ。『ぼくがこいつに』ならまだしも、こいつがぼくに好意?
ない。
ないない。
絶対ない。
「……いや、そうでもないか」
誰にも聞かれないような声で、ひっそりとつぶやいてみる。
とはいえ、最近は少し様子が変わってきているのだ。
授業と授業の間の休み時間に、ほとんど毎回、天野が勉強のことでぼくに質問してくる。ぼくだって全然わかってないのに二次関数やら関係代名詞やら太宰治が走れメロスを書いた理由についてやら、果ては教師の私生活についてまで聞いてくる。放課後も昼休みもやたらと話しかけてくるし、登下校でもやたらといっしょになる。
何かあったのだろうか。
気のせいか。天野だし。だいたい、ずっといっしょにいるんだから何かあればすぐに気づくだろう。
「いねえよ。わざわざ言わせんなよ、知ってるくせに。虚しくなるだろ」
「そっか。やっぱ彼女いないんだ」
なんでこいつがぼくにそんなことを聞くのか。適当に考えてみる。最悪のパターンが頭に浮かんだ。
「もしかして、恋愛相談でもする気だったか?」
それは勘弁してほしい。告白する前に失恋なんて悲惨すぎる。泣くぞ。
「橋田なんかにするわけない」
「なんかっつったなこの野郎」でも安心。
「ま、そうだよね。いないよね。橋田だもん」
そっかそっかとやけにうれしそうな天野。正直、意味不明だ。ぼくとしても、それはとても喜ばしいことだけれども。
「よし、掃除終わり!」
天野が万歳しながら言った。
窓拭きが終わっていないことは、ここだけの秘密である。
/2
小石を蹴る。進行方向に転がった小石を、もう一度蹴る。
学校を出てから途中の分かれ道で天野と分かれて、ぼくは一人で下校中だった。中学生くらいになるとさすがにみんな卒業するのかもしれないが、ぼくは帰り道に小石を蹴りながら進むのがけっこう好きだ。
天野はなぜ『彼女がいるか』なんて聞いたのだろう。
もしかしてぼくら、相思相愛?
……まさかぁ。
周りに人はいない。ぼくは存分ににやにやしながら小石を蹴り出す。好きな子への告白を妄想しながら、にやにやと小石を蹴る中学二年生という図は、はたから見れば相当に気味の悪いことだろう。しかしそんなことは気にしない。小石を進行方向にうまく蹴り飛ばして順調に帰路をなぞっていたぼくは、気合を入れるために小石を思い切り蹴ろうとした。
足をすかさないように狙いを定めて、左足で踏み込む。
そのとき、地面を踏み外した感覚がした。ぐらりと体勢を崩す。
「っと!」
慌てて飛び退く。犬のフンでも踏んでしまったのではないかと思って、焦りながら後ろを振り向くとそこには茶色いペーストがあるわけではなく、綺麗なアスファルトだ。
靴の裏を見る。なんともない。
「なんだ?」と思わず独り言。
歩道を注意深く見ても、ただのアスファルトが見えるだけ。前屈みになっても変わらない。
気のせいか。
結論を出して体を起こしたとき、人影が見えた。スーツを着た男の人がこちらに向かってきている。サラリーマンだ。ぼくのことを少し不思議そうに眺めながら、澄ました顔で歩いている。
見られたらしい。
ぼくはバツが悪くなってぐりぐりとつま先で地面を踏んでみる。『ちょっとこけちゃったよ。てへへ』みたいなオーラを出す。恥ずかしいことこの上ない。あの人が通り過ぎるのを待とう。
しかしサラリーマンが、ちょうどぼくが足を踏み外した場所を通過しかけたとき、電子音が鳴った。男の人のほうから聞こえる。携帯電話だ。
着信音は数秒で終わらない。電話のようだ。男の人はその場で立ち止まり、ポケットから携帯電話を取り出してボタンを押し、耳に当てる。そのまま道端で通話をし始めた。
ぼくが進もうかまだ立ち止まっていようか悩みながら、そういえば先ほど蹴ろうとした小石はどこにいったんだろうと疑問に思ったとき、地面に映っていた男の人の影が縮まった。
「え」
見ると、目の前の人がずぶずぶとアスファルトの中に沈んでいっている。
男の人は軽く足踏みをするように足を上げているけど、通話に集中していて状況がよくわかっていない。
唖然としつつそのまま見つめていると、男の人の足首が沈んだ。
男の人もいい加減に何かおかしいと気づいたらしく、通話しながら下を見た。ようやく自分の状況に気づく。しかしもう遅い。足首まではゆっくりだったが、そこからは早かった。
一気にスネまで沈む。体勢が崩れて、携帯電話を取り落とした。前に倒れそうになって、後ろに重心を傾けると今度は尻もちをついてしまう。
いや、尻もちなんてものではない。
地面についた尻がそのまま地面の中に沈む。みぞおちのあたりまで道路に浸かる。地面についた手も沈み出して、もがきながら体を起こそうとするがそれもできない。胸の下まで沈む。へんてこな悲鳴が聞こえた。叫びは言葉にならず、三秒ほどで上に伸ばした手の指まで沈んでいった。
そして誰もいなくなる。
目の前には、綺麗な道路があるだけで日は相変わらず橙色の光を放っている。カアカアとカラスの間抜けな鳴き声まで聞こえる始末だ。
「……」
は? 何これ?
沈んだ。
何が?
人が。
目の前で?
道路で人が沈んだ。夢みたいな出来事だが、足元に転がった携帯電話が今の出来事が事実だと教えてくれる。通話は切れている。携帯電話を拾い上げるとほんの少し生暖かかった。
「夢だろ。夢だろ、これ?」
すぐ足元の地面を見る。別に何も起きていない。
しかし恐怖が勝った。
悲鳴を上げながら即座に回れ右して、全力疾走。途中で振り返ることもできず、信号を全て無視してクラクションを鳴らされながら公園を突っ切り駐車場を横切り、ポケットから鍵を取り出すと自宅の扉を叩き開けて二階にある自室へ駆け込んだ。ベッドの上に飛び乗って、部屋の中をぐるぐると見回し、あのおかしな現象が家で起きていないことを確認する。そのまま窓を開けて外を見下ろす。何も起きていない。
「なんだよ、あれ」
窓を閉めて鍵もかける。ぜえぜえと息を切らしながら、うっとうしいネクタイを引き千切るように解いて、ワシヤツを脱ぎ捨てる。
なんだあれなんだあれなんだあれ。歯がガチガチと鳴る。全身の震えが止まらない。
沈んだ? たしかに沈んだ。人が、地上で沈んだ。
夢だ。夢に違いない。そう自己暗示しつつ額に浮かんだ汗を拭うと、右手があの携帯電話を握りしめていることに気がついた。
思わず投げ捨てる。音を立てて床に転がる携帯電話。落とした衝撃で液晶画面が点灯する。
息を整えて、気分を落ち着ける。
落ち着け。あれは悪い夢か何かだ。この携帯電話は、ただあの道で拾ったものに過ぎない。
携帯電話を床に放置じゃ薄気味悪い。いつ着信するかもわからない。ゴミ箱に入れることを考えるが、携帯電話なんかを捨てたら家族に怪しまれる。
しょうがなく携帯電話を拾って、電源を落としカバーを空けてバッテリをもぎ取る。百パーセント着信しない状態にして、ようやく安心する。
明日、外に捨てよう。
制服の尻ポケットに携帯電話を突っ込んで、制服を脱ぐ。
すると、左右の靴下で色の濃さが違うことに気づいた。左の靴下が妙に湿っている。脱いでみると、明らかに足の皮がふやけていた。靴下を軽く握る。
「……濡れてる」
なんで?
靴下は湿っているなんてものではなく、靴下は水を含んで少し重くなっていた。握りしめると、靴下の汚れで濁った水滴が、ぽたぽたと床に落ちる。右の靴下も脱いでみたが、特になんともなっていない。
首をかしげながら一階に降りて洗濯機にシャツと靴下を放り込んだ。そのままリビングに行って、テレビをつける。チャンネルはちょうどローカルチャンネルで、土曜日の大雨の被害についてリポーターが語っていた。
/3
翌朝。昨日の夕方のことは悪い白昼夢というやつだったのだろうと結論して、ぼくはけっこう落ち着きを取り戻していた。いつも通り登校する。日差しはすっかり七月のそれだ。この分だと、まだ町に残っている水たまりも今日中に消えるだろう。
そんなことを考えながら、昨日の水没を見た道を歩いているときだ。電信柱の側に立って携帯電話をいじっている天野を見つける。天野は携帯電話の画面を凝視しながら、うんうんと何度もうなずいている。こんなところで何をしているのだろう。天野の家があるのはこの道を抜けた先だ。こんなところで、しかも道端で立ち止って。さっさと登校すればいいのに。
「天野」
呼びかけると、ぼくに気づいた天野が顔を上げた。
「おはよ」
「おはよう。何してんだ?」
ぼくの疑問に、げっ、と顔を引きつらせると携帯電話に目線を落とす。
「んー、ちょっとね」ものすごい早さでタイプすると、ふたを閉じた。「なんでもない。学校行こうよ」
「いいけど、どうしたんだおまえ?」
「いいから」
天野に背中を押されて歩き出す。
「おい、なんだよ」
聞き耳持たずな様子で、しょうがなくぼくは自分で歩き始めた。
「天野。おまえ最近、なんか変じゃねえか?」
「どこが?」
「どこがって」
そりゃ全体的に。わざわざ遠回りをして学校に登校したり、やたらと掃除を長引かせたり、おかしいことだらけだ。
「そういえば!」天野が思い出したように声を上げる。「はははははははは橋田ってわたしの携帯の番号、知ってたっけ?」
いきなり笑い出してこいつはいよいよ一一九の出番かと思ったらどもったらしい。すごくわざとらしい『そういえば』だ。言葉は棒読みだし、誰かに入れ知恵でもされたのだろうか。話題を変えるのがへたすぎる。昨日からさっぱりわけがわからない。最近ずっとこの調子だけれども。
とりあえずぼくは答える。
「知らない」
携帯電話、持ってないし。
「じゃあ、わたしの番号教えとくね」
「いいよ別に」
「いいから」さっきからこいつは『いいから』ばっかりだな。
良くねえよ。いや、電話番号が知れるのはうれしいけども。
天野に電話番号が書かれたメモ紙を押しつけられ、それをポケットにしまう。メモ紙が何かにぶつかった。
何が入ってるのかわからずそれを取り出しかけて、すぐに押し込んだ。
携帯電話。
ポケットに携帯電話を入れていたことを思い出す。そういえばあの水没現場を見たのは、たしかここらへんだった。
ここを歩いていたらぼくも沈んでいくんじゃあ?
まさか、である。昨日のことは何かの見間違いだ。幻覚でも蜃気楼でもなんでもいい。とにかく、あんなものが現実の出来事だとしたらとんでもないことだ。この道を歩いている人が全員、あの沼の中に沈んで、
ず。
「――――、」
瞬間、息が止まる。
今、踏んだ地面がへこんだ。夢じゃなかった。
あの沼は、まだ存在しているらしい。背中を悪寒が走る。頭をぐっと押さえつけられるような感覚。震え始めた足を必死に動かして、『沼』の上を歩く。
「……マジでかよチクショウ」
思わずうめいてしまう。
ずぶ、ずぶ、と歩く度に足が沈む感覚。沼の存在を知らなければ気がつかないていどのやわらかい感触。恐怖に押しつぶされそうになりながら、だいじょうぶだと心の中で自分に言い聞かせる。
昨日、足首からは一瞬の出来事だったがそれまではけっこう時間があった。いきなり沈みこむなんてことはなく、一定時間立っているとああなるのだろう。現にぼくは昨日、無事にこの道を通っている。
ふつうに歩いて通過する分には問題ない。
数歩、だいたい四メートルくらいで足が沈みこむような感覚はなくなった。どうやら沼はそこまで広いものではないらしい。
「橋田、どうしたの?」
となりの天野が怪訝な顔をして聞いてくる。ぼくは首を横に振る。
「別に」
声は震えていたと思う。
/4
その日はまったく勉強に手がつかなかった。授業中、ずっと考えていたのはあの道のことだ。
どうする、あの沼。
すでに人間一人が飲み込まれている。こうしている間にも、あの沼を知らない誰かがまた沈んでいくかもしれない。なんとかする必要がある。でも、誰かに言って信じてもらえるものか?
『先生。ちょっとついてきてくれませんか?』
『おお、どうした?』想像の中の先生がにこやかに答える。
『はい。実は、登校中に目で見えない沼を発見いたしまして』
『なんだ、道路が液状化でもしたのか?』
『違います。とにかく、沼のようなものの中に人が沈んでいくんです』
『なるほど、そりゃ一大事』
「……」
んなわけないだろ。
あの沼を見せる前に救急車を呼ばれそうだ。先生は信用できない。警察も似たようなものだ。となると両親か。
『お母さん、ちょっと聞いてくれ』
『何?』想像の中の母親はにこやかに話を聞いてくれる。
『いいから、この道を見てくれよ』
『この道がどうしたって?』
ずぶ。
『何よ、何も起こらないけど?』
ずぶずぶ。
『あ、あれ!? 何これ!?』想像の中で母親が沈んでいく。
『母さぁあああああああああああん!』
ダメだ。マジでダメだ。無理無理。絶対無理。
そんなバカなことを考えていると、終業の号令が終わっていた。
「橋田、いっしょに帰ろうよ」
天野が席の前で立っている。
「ああ、うん」
鞄を掴んで席を立つ。けっきょく、解決策は浮かんでいない。
/5
帰り道、珍しく天野は静かだった。ぼくもあの沼について考えなくちゃいけなかったから好都合だ。
日が沈んでいく。夕暮れの道を二人で並んで歩く。そうだ、いつも通り下校すればいい。
学校を出て、順調にいつもの分かれ道まで歩いた。天野は右の道の先に家があって、ぼくは左の道の先が家だ。この左の道にはあの沼があるけど、右の道には別に何もないはず。問題はない。
「じゃあな、天野」
手を挙げて去ろうとすると、天野が後ろからついてきた。
「……何してんのおまえ?」
「わたしもこっちに用がある」
「用? こっちに店か何かあったか?」
こっちの方向はただの住宅街のはずだ。駅も天野が行きそうな店も全部別の道である。
「そうじゃないけど」しどろもどろと天野があさっての方向を見ている。
「どんな用だよ」
「ちょっとね」
沼の件がある。『ちょっと』でここを通らせたくない。とはいっても、変に通行禁止と言ったら怪しまれるだろう。それに天野がこっちに用があると言うなら、一人にさせるわけにはいかない。ぼくにしたって、迂回したくてもこの道を通らなければ家に帰れないのだ。
悩んだ結果、仕方なく通過することを選ぶ。すぐに通る分には問題ないのだ。心中は戦々恐々だったが天野に察せられてへたに立ち止まるとまずい。努めていつも通りを装って気持ち足早に進む。
天野もぼくも黙っている。
建物に挟まれたこの道はところどころに影ができていて、昼間は日があまり当たらない。日没間近でようやく日が差し込んできたくらいだ。
サラリーマンが沈んだ地点まで、あと少し。ここからが本番だ。一気に通過しなければならない。
だが突然、となりを歩いていた天野がぼくの前に出て、立ち止まる。天野の姿はちょうど、建物の影に入っていた。
どうしたのだろう。
「天野、さっさと歩けよ」早口に言ってしまう。
「あのさ、橋田」前を見たままぼくに告げる。「いきなりで、驚くかもしれないんだけど」
「いやいやいや、いいからほら。さっさと進もうぜ。この先の公園にでも、」
「いいから聞いて」
聞くのはおまえだ、バカ女。もうここは沼の圏外ギリギリだ。昨日見た場所まで数メートルしかない。まだ沼の有効圏内を正確に測ったわけではないし、どこまでが安全な道かはわからないのだ。沼はもうそこまで迫っている。ぼくは気が気ではなかった。
どうする?
考えてもいい案は浮かばない。しかし、目線を天野の足元に向けると、もうそれは始まっていた。
「――――天野、」
……静かに。
天野の靴底が。
数センチ。
沈む。
おい、待て。
「わたしね」
「ここで立ち止まるなバカ!」
天野の足首が沈むのと、ぼくが反射的に手を伸ばして天野の手を掴むのは同時だった。
「な、何!?」
天野が自分の足首を見て叫ぶ。
昨日のサラリーマンことがフラッシュバックして、足首からは沈むスピードが一気に上がることを思い出す。
「足を引き抜け!」ぼくが叫ぶ。
「は、え?」
「足抜け! 沈むぞ!」
天野はほうけた顔で足に力を入れるがびくともしない。
「ダメ、抜けない! 何これぇ!」
天野が悲鳴を上げる。ふくらはぎまであっさりと沈んだ。天野の背が縮み、ぼくもそれに合わせて前のめりになる。天野がぼくにしがみつく。ぼくも両腕で天野を抱きかかえる。なんとか沼から引き抜こうとするけれど、沈むスピードが緩まるだけで効果なし。
「くそ!」
沼とふつうの道には境目がある。それは今日の朝に確認済みだ。今も数歩離れた天野は沈んで、ぼくは沈まなかった。その境目に手だけでもつけば完全に沈み込むのだけは防げるはず。
そう思ったとき、ぼくの左足首が沈んだ。
ギリギリで沼の中に入ってしまったらしい。二歩ほど後ろは安全な道だってのに。
天野は必死に身を捩って沼を出ようとするが沈んだままだ。
何か方法はないのか。
どうやら沈んだ状態は変わらないが、前後左右に体を動かすことはできるらしい。ぼくに抱きついた天野は沈むのに合わせて腕の角度をちゃんと変えているし、昨日のサラリーマンだって、最後には腕を突き上げた状態で沈んでいった。引き抜くことはできなくても、中から出すことはできるのだ。
案が浮かぶ。もしかしたら、と。
条件を反復する。見落としはなく、できない理由は見当たらない。しかし、成功しても失敗しても、ぼくは沼の中。沈むのだ。あのサラリーマンのように。もがきながら腕を突き上げて消えた光景が思い出される。放置された携帯電話。綺麗なアスファルト。沼から出られる可能性は限りなく低い。それこそ今までの条件から見れば可能性はゼロだろう。
死ぬかもしれない。
死ぬ。
死。
「――――っ」
これまでの人生で初めて、その言葉がリアルに感じられた。その言葉の手触りに肝が縮む思いになる。天野の顔が見える。天野は恐怖ですっかり泣きそうだった。
死ぬかもしれない。
でも。
迷っていたのは一秒もない。
「しょうがねえよなチクショウ!」
左足で地面を思い切り踏みつける。タイムラグは一切なく、一気にそのまま足が道路の中に潜っていった。尻を勢い良く落として、さらに深く沈む。天野は腰まで沈んでいる。急がなければならない。
「橋田、何やってんの!」
うるさい。力を入れて、重心を落とし沼に深く浸かる。足を前に突き出すと、天野の体に当たった。
外から引き上げることがダメでも、中からなら押し上げることができる!
「だから、何やってんのって聞いてんの!」天野の声。
息を大きく吸った。上半身を深く沈めて、沼の中に潜る。天野の腰のあたりを両腕でホールドすると、安全な道のほうに向かって持ち上げる。腕はちゃんと上に伸ばせる。ふつうに考えて、天野の体は沼を出ていってるはずだ。
天野を助けられる。
今度は足のほうを掴んで押し上げる。最後に足の裏を押し出す。これで天野は沼を完璧に脱出できた。これでよし。
あとはぼくの問題。体が沈んでいくのに対抗して、バタ足で上に進めないかやってみる。期待も虚しく、足が空回りするだけでまったく上に行かない。まずい、作戦失敗。息だってもうそんなに保たない。思い切り腕を上に伸ばす。悪足掻きだ。腕も濡れているからどれくらい地上に出たのかはわからない。やれることをやるだけだ。沼のない道に向かって腕を振り下ろす。
手だけでもなんとかふつうの道に届けば!
行け。届け。ここを出て、天野に自分の気持を言ってやるのだ。
「がッ!」
しかし期待もあっけなく。
指は空を掻いて、手は虚しく沼を叩いた。バシャン、と沼を叩くつまらない音が鳴ったことだろう。
もう手は安全地帯に届かない。
「橋田!」天野の声が聞こえた気がした。
沈む。
/6
沼の中は、何も見えなかった。真っ暗で、体もほとんど動かない。足を動かしてみるが、妙な抵抗感を覚える。泥の中で動くように、全身の動きに対して抵抗感があった。動くのをやめて、代わりに目を凝らす。
何もない。
闇。
無。
宇宙ってこんな感じなのかな、とぼんやりした頭で考え、目を閉じる。息が苦しくなってくる。死ぬのか。窒息死とは一番嫌な死因だ。うまく気を失えればいいのに。
ついてないな。
助かる手段はなく、素直に諦めて体から力を抜いた。ぼくの人生はどうやらここまでらしい。
しかし、諦めたぼくの腕に、何かが当たった。腕は地上に向かって突き上げたままだ。何に当たったというのだろう。
力が込められる。手のひらが絞めつけられる感覚。
熱い。いや、これは体温か? 誰の? 当然ぼくじゃない。なら、一体。
手のひらに感じる体温だけではない。腕にも熱を感じる。これは日差しの熱だ。手首から二の腕、肩と、日差しの熱を感じる範囲は広がっていく。
直後、光が視界を覆う。
泥水のような闇が明るく透き通って、――――目が覚めた。
目の前に、天野の顔がある。
「橋田!」
ぼくは仰向けで、道路に寝転んでいた。
目を開けたぼくを見て、天野はそのまま泣き出した。ぼくはその様子をバカみたいに眺めている。視線の先にちょうど夕日があって、ものすごくまぶしい。体は弛緩していて、運動後に生まれる倦怠感が全身にある。
右手は天野の手を握っていた。深く息をつく。
助かったらしい。
/7
沼の危険がないことを確認して、ぼくと天野は近くの公園で休んでいた。
「疲れたね」
「ああ」
答えつつ、制服のスラックスを握り締める。指の隙間から、ジワリと水が滲みでてきた。水は見えないほど綺麗だが、スラックスを握った手のひらは真っ黒に汚れている。
こりゃ、洗濯するにしてもかなりの手間になりそうだ。ため息をつきながら、あの泥沼についての回答を考えてみる。
あの見えない泥沼はいったいなんだったのか。
ここまで来たら、さすがにあの沼がどういうもので、どういう理屈でぼくらが水没したり助かったりしたのかがわかってくる。
透明度が高すぎて、ほとんど視認できない泥水。昨日の掃除のときも、三日前も同じような水を見た。
要するに土曜の雨が関連しているに違いない。これはほとんど妄想に近い推測だけど、土曜日の雨が原因でできた、一種の水たまりだったのではなかろうか。
なぜ土曜日の雨が、三日も経った今日にまで影響するのか。簡単だ。まだ雨が水たまりとして残っていたから。
天野があの場所で沈み出した理由も簡単だ。
あのとき天野は影の中に立っていた。あそこは昼間、日差しが入らない。あの場所にあった水たまりが、まだ干上がっていなかったのだろう。だから結果的に沈んだ。
ぼくがそれまで沈まなかったのは、その影の中に入っていなかったからというだけの話。そしてぼくが助かったのも、西日で日差しが傾き、残っていた水が干上がったから。
わかってしまえばとんでもなく単純なことだ。それがわからずこれだけ慌てふためいてバカバカしい限りである。ものすごく疲れた。服も水を吸って重たいし、立ち上がる気にはなれない。
天野は制服が腰まで濡れていて、ぼくなんかは全身濡れねずみだった。この気温だ。もう少しすれば乾くだろう。
ぐったりとベンチの背もたれに体を預けた天野が、口を開く。
「なんだったんだろう、あれ」
「さあ。わかんね」
けっきょく原因はわかったけれど、じゃあ土曜の雨がなんだったのかとか、なんでただの水たまりが沼みたいになっているのかとか、そういうことはわからない。ただ、少なくとも、化け物みたいな感覚で恐れるようなものでないことはたしかだ。台風とか、雷とか、そういう天災と同じ。
ただ単に、目に見えない泥沼。
それだけのものである。
「ありがと、橋田。よくわかんないけど助かったよ」
「お互いさまだ。ぼくだってわけわかんないうちに助けられた」
一息ついてお互いに無言でいると、ふいに見たことのあるスーツ姿が公園の前を横切った。
早足で地面ばかり見ている。何かを探しているようだ。何を探しているのか、すぐに思い当たる。
やっぱり、助かっていたようだ。
あの道の中でも、あの場所は割と日の当たりやすい場所なのだ。あれから数分も立たずに干上がったに違いない。水たまりが干上がりさえすれば、中に沈んでいたものもぼくと同じように浮かんでくる。
ぼくは立ち上がると、ポケットの中を確認して歩き出した。
「どこ行くの?」
「ちょっと、落とし物を届けに」
歩きながら携帯電話を取り出すとバッテリを入れてカバーをはめる。ズボンは完璧に濡れていたから、ポケットに入っていた携帯電話が壊れていないか少し心配だ。
携帯電話の無事を祈りつつ男の人に近づき、声をかける。
「もしかして、昨日ここで携帯電話を落とされましたか?」
男の人が振り返る。ぼくのほうを向いた顔。それは、地面の中に引きずり込まれたはずのサラリーマンの顔だった。
驚いた表情でぼくを見つめてくる。ぼくはかまわず手に持っていた携帯電話を差し出す。
「昨日拾いました。あなたのものですか?」
サラリーマンは虚を突かれた顔をしたあと、すぐに破顔してうなずく。
「どうもありがとう」
携帯電話を受け取ると、キーを操作して画面を確認すると、ポケットにしまった。故障はしていないようだ。
「昨日いつの間にか落としていたらしくてね。今日、上司に怒られましたよ。なんで電話に出ないんだって。そこで初めて自分が携帯電話を落としていることに気づきました」
「へえ」
「拾っていてくれて良かった。助かりました」
「どういたしまして」
サラリーマンはぼくに向かって深々と頭を下げると、道路のほうを見てつぶやく。
「でも、まさか携帯電話を落としていたのにそのまま気がつかないなんてなぁ」
サラリーマンは照れたように頭をかいて、
「ふつうに暮らしていると、なかなか気づけないものですね」
ぼくも笑いながらうなずく。
「本当に」
サラリーマンはもう一度頭を下げて去っていった。ぼくは公園にもどり、天野のとなりに座り直す。
「落とし物、渡せた?」
「うん。喜んでたよ」
そうこうしているうちに、日が沈んだ。あたりが青色の薄い闇に包まれる。
星が見え始めた空を眺めていると、となりでうつむいて天野が突然、顔を上げた。
「さっきの話の続きだけど」
やけに大きな声で前置きしてから数秒して、またうつむいた。
「なんの話だよ」
「ほら、あの道でわたし、立ち止ったでしょ」ぼそぼそとつぶやいている。「あの話の、続き」
「ああ」
天野は頬を染めてはにかむ。
「えっと、でもまあ、ほら。あれだよ、うん。あれはまた、今度ね」
そっぽを向きながらごまかす天野を見て、気づけば言葉が口を突いていた。
「ぼくも、おまえに話があるんだ」
言った直後、一気に心臓が高鳴る。
「え?」と天野がポカンと口を開けてぼくのほうを向く。
……ああ、チクショウ。そんな顔で見るなよ。かっこつかねえだろうが。
やっぱりやめるか、と逃げ腰になりかけるが臆病風を押し込んで、ベンチに座っている天野の前に立つ。
目に見えないものというのは、どうにも認識しにくいものである。
相手の気持ちに気づかないで右往左往とするものだ。
だけど、それはお互いさまだろ。
「天野」
さっきは油断したけれど、今度は譲るものか。ぼくが先に言ってやる。
まるで泥にまみれるほど見っともなくたって、それを必死で隠してでも言いたいことがあった。
「ぼくは」
だからこれは。
「ぼくは、天野が好きです」
要するに『がんばろう』って話なのだ。
了




