雨と泥
一度立ち去ったふりをして、オルハはナギがのっていた小舟の前に立っていた。
左手で押してみる。だけどびくともしない。
右手は使えない。長く伸びた爪を折るわけにはいかないから。
左手の爪だけを船の表面に突き立てた。
脆弱なオルハの指がたちまち痛む。
ナギはオルハより背丈は小さいが、横幅は広い。手足はがっちりとしていて太い。
その太い腕で軽々とオルハが押してもびくともしない船を扱うのだ。
オルハは自分のひょろりとして背だけ高い身体も、細い手足も嫌いだった。それはここでしか生きていけないということだから。
時が迫っている。ナギはきっと秋が来る前に行ってしまう。
「船に触れるな」
不意に聞こえた重々しい声にオルハは肩をびくつかせた。
振り返れば、そこにいたのはおじじだった。
オルハが見たこともないような険しい顔をして船に触れているオルハの手を見ていた。
「それは命を預ける道具だ、関係ないものがむやみに触れることはできない。
オルハはおずおずと左手を船から外す。
そして船を改めてみる。使いこまれて、削り目が摩耗している。濡れてじっとりとした木肌。濡れそぼっていてもきつい潮のにおいがする。
「さっさと行け、お前のすみかに」
そう言って山を指差す。オルハの住む集落のあるあたりを。
その断固とした指先にオルハは逆らう気力もなく、とぼとぼと足を進めた。
雨の日は視界が悪い。だからオルハの仕事はそれほどない。だけど今はたくさん仕事がしたかった。
ただ糸を操っていれば何も考えなくてもいい。
山を上る。久しぶりに海の近くまで降りた。土はぬかるんで、足を取られそうになる。
下草の生えているあたりならば滑らないが、普段歩かないオルハの足は柔らかい。下手をすれば足を切る。
普段は仲間の少女達と行動しているオルハは一人で行動することがなかなかない。
何度も道の途中で間違えそうになり、そのたびに立ち止まる。
雨を嫌って土の女衆も外にはいない。雨で冷えた身体を抱きしめた。
体が冷えて、本格的に動きがぎこちなくなってきた。
自分はこんな狭い範囲ですら自由に動くことはできない。こんな萎えた足では遠くへなんていけない。
オルハは膝をついた。そして小さくしゃくりあげる。
ひとしきり泣いたらオルハはうずくまった体勢を崩す。着ている、薄い茶の葛布に泥撥ねが飛んだ。
その泥が激しく降り注ぐ雨の中、奇妙な模様へと変化する。それをオルハはしばらくじっと見つめていた。
べったりとついた裾の泥は雨に打たれて徐々に広がり薄まっていく。
色のついた布を織るとき、まず糸から染める。
だけど、おりあがった布を染色液につけてもいいのではないだろうか。
そんなことを考えて、オルハはさっき以上に心が疲れた。
どうしてこんな時に浮かぶのは仕事のことなんだろうと。




