おんぼ様
私の母がまだ小さな子供だった頃の話。
私の母には達夫(仮名)というお兄さんがいた。
達夫兄さんは子供の頃から何かと問題を起こす人で、両親をよく困らせていた。
兄さんは中学校を卒業するとすぐに働きだしたが、ある日街をぶらついているとよからぬ者に声をかけられ、金を用意したら商売をさせてやる、と言われた。
兄さんは何かとうるさい両親と一緒にいるのが嫌で、家を出たがっていため、渡りに舟とばかりに家の金を持ち出して家出してしまった。
その金はこの先何かあった時に、と母親(私の祖母)がこつこつと自宅預金していたものだった。
兄さんはこれで自分も一人前に商売が出来ると相手に金を渡したが、そこは大人の悪人、何のかのと言ってうまく金だけ巻き上げて姿をくらましてしまい、兄さんは帰りのバス代もなく街に放り出されてしまった。
騙されたとわかった兄さんは、一晩歩きづめでやっとのこと、自分の村に戻った。
しかしもう家には帰れない。
親は金を持ち出した事にもう気が付いているだろう。
帰ったら今度こそ父親に半殺しにされる。
仕方なく兄さんは村の山寺の縁の下にしばらく隠れ住む事にした。
寺の縁の下に住み出してしばらくした頃
夜中にふと目を覚ますと、寺の前庭に誰かがいた。
縁の下からうかがっていると、それは小学低学年くらいの歳の、おかっぱ頭で赤い着物姿の、素足に赤い鼻緒の草履をはいた女の子だった。
女の子は月明りの下でてんてんと毬をついたり、前庭の花をさわったりと一人で遊んでいる様だった。
この寺の子か、と兄さんは思った。
それにしてもこんな夜中に子供が一人で遊んでるなんて。
そして気付いた。
そういや、この寺の住職の子は男の子ばかり三人のはずだったが……
以来、女の子の姿は時々夜中に見かける時があった。
女の子も縁の下の兄さんに気付いている様で、時々縁の下のそばまでやって来て、じいっと兄さんの方を見ている時があった。
それに兄さんは、変な子だ、もしかしたら人間じゃないのかもしれん、と無視していつも寝たふりをしていた。
ある夜、兄さんは喉が渇いて目が覚めた。
もう一ヶ月ほど縁の下で生活をしていて、ろくなものを食べていない。山の木の実、草の実や、よその畑の作物や軒下にあったものを盗んで食べていた。
水筒代わりにしていた竹筒の水はみな飲んでしまっていた。兄さんはヨロヨロと立ち上がり、山寺の裏の谷川へと降りて行った。
暗い中、熊笹をかきわけて崖といってもいい様な山道を下っていると、空腹だったのとまだ寝ぼけていたのもあり、足を滑らせた。
兄さんはあちこちをしたたか打ち付け擦り剥いて、谷川まで転げ落ちた。
ひたひたと冷たい谷川に浸かり、しばらく呆然としていたが、身体があちこち酷く痛んでうまく動かない事に気付くと、ようやく自分が助けを呼ばないといけない状態になっている事に気が付いた。
しかしそこはふだんは誰も来ない山寺の裏の谷川の底である。しかも時刻は真夜中の、真っ暗な中だ。
泣いてもわめいても誰にも気付いてもらえそうになかった。
こんなとこでこのまま死ぬんだ、と兄さんは思った。
そう思ったら痛いわ冷たいわひもじいわ情けないわで涙が出てきた。しかしもう遅い……
兄さんは子供の様に鼻をすすって泣いた。
と、そのそばで。
じゃり、と
土を踏む音が聞こえた。
兄さんが顔をあげると
谷川に半分浸かって川岸にすがっている兄さんのそばに、赤い鼻緒の草履を履いた小さな素足があった。
暗がりの中、あの女の子らしき影が見えた。
「た、たすけ……」
兄さんが覚えているのはそこまでだった。
次に目を開けた時は
兄さんの周りには沢山の人たちがいて、兄さんは誰かにおぶわれ、崖を登ってゆく途中だった。
「達夫!」
目を開けた兄さんのそばには母親がいた。
「しっかりせんか!このバカたれ!」
母親は兄さんの頭をはたいた。
兄さんの怪我は打撲や擦過傷等だけで大した事はなく、しばらく自宅療養すれば済む程度のものだった。
後で聞けば、兄さんが寺の縁の下に住み着いているのは村の皆が知っていたらしかった。
兄さんの両親も。
兄さんの母親はまた何か迷惑をかける前に迎えに行こうとしたが、父親は
「あのバカたれが音を上げて自分で帰ってくるまで放っておけ」
と言ったので迎えに行かなかったという。
兄さんは歩ける様になってから、両親に連れられて、谷川から引き上げてくれた人たちや寺の住職にお詫びとお礼を言いに行った。
兄さんたちが寺をたずねると、出て来たのは住職だけだった。
住職さんとこのお嬢ちゃんにもお礼を、兄さんがと言うと、住職は「それはいい」と言った。
いやそういうわけには、住職さんに知らせてくれたのはあのお嬢ちゃんでしょう、と兄さんが言うと
「あれはうちの子じゃない」
と住職は言った。住職の言葉に、兄さんが「じゃあ、あの子は?」と言うと
「あれはな。うちの子じゃのおて、おんぼ様じゃ」
と住職は言った。
"おんぼ様"というのはその土地での"お坊様"の意味だったため、兄さんも両親もわけがわからないでいたが、住職はそれ以上何も言わず、親や皆に迷惑をかけるのもたいがいにせえ、と言って寺の奥に入ってしまった。
達夫兄さんは二十年程前に亡くなった。
谷川の底で危うく死ぬところだった事にも懲りず、結局兄さんは一生何のかのと皆に迷惑をかけっぱなしだった。
寺の赤い着物の女の子を見たのは達夫兄さんだけだったという。




