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第9話 世界一幸せなポーション屋

 帝城の朝は、どこまでも優しく、静かな光に満ちていた。


 最高級の絹のカーテン越しに差し込む陽射しは柔らかく、部屋の空気をふんわりと温めている。肌にまとわりつくようなカビと薬品の湿気ではなく、清潔で乾いた空気が肺の奥まで満ちていく。

 リリアナは、雲のようにふかふかなベッドの上でゆっくりと目を開け、美しい天蓋の天井をしばらく見つめた。


(……朝まで、一度も目を覚まさずに、ちゃんと眠れた)


 ただそれだけのことが、今の彼女にとっては途方もない奇跡のように感じられた。

 追放される前の祖国の地下室では、三時間眠れれば御の字だった。足音や怒鳴り声の幻聴に怯え、常に心臓が警鐘を鳴らしていた日々が、今では遠い昔のようだ。


 体を起こそうと寝返りを打つと、サイドテーブルの上に小さなガラスの小瓶が一輪挿しとして置かれていることに気づいた。

 昨日眠る前には、絶対になかったはずだ。

 飾られているのは、朝露をまとった可憐な白い花。自己主張しすぎない、心が安らぐような淡い甘い香りが漂っている。


 そして、その花瓶の根元には、見慣れた流麗な文字で書かれた小さなカードが添えられていた。


『今日も絶対に無理をするな。しっかり朝食をとるように。――それから、寝顔も酷く愛らしかった』


 最後の一文が完全に余計で、余計だからこそ、リリアナの胸の奥がじんわりと温かくなる。


(……皇帝陛下が、わざわざ朝早くに忍び込んで花と手紙を置いていくって、どういう状況なのよ……)


 呆れながらも、頬がカッと熱くなるのを止められない。

 顔を覆いながらベッドの上でもだえていると、コンコンと控えめなノックの音が響き、侍女長のマルタが満面の笑みで入ってきた。


「おはようございます、リリアナ様。素晴らしい朝ですね。……おや、陛下からの贈り物はすでにご覧になりましたか?」

「ま、マルタさん! これ、絶対止めてくださいって言ったのに!」

「ふふっ。この国の最高権力者の恋路を邪魔するなど、私のような一介の侍女には到底不可能ですから」


 からかうように笑うマルタに手伝ってもらい、リリアナは身支度を整えた。

 美味しい朝食をゆっくりと味わった後、いつものように自分の聖域である『特別薬房棟』の作業場へ向かおうとした。


 しかし、廊下を歩き出したリリアナに、マルタが穏やかな声で告げた。


「本日は来客の予定は一切ございません。城内の医務室への納品も昨日のうちに済ませておりますゆえ、薬房は午前中、完全に閉鎖しております」

「えっ? でも、いつも午前中は明日の分の薬草の仕込みをしないと……」

「陛下からのお達しでございます」


 出た、伝家の宝刀『陛下のお達し(完全なる職権乱用)』。


 リリアナは盛大なため息を飲み込み、代わりに少し不安げに尋ねた。

「……何か、あるんですか? もしかして、また祖国から厄介な使者が来ただとか……」

「いいえ、あの国は現在、絶賛自滅の真っ最中ですので、こちらに構う余裕など一ミリもございません。ご安心ください」


 マルタはそれ以上何も答えず、ただ意味ありげに、そして酷く優しく微笑むだけだった。


 首を傾げながら薬房棟に足を踏み入れると、リリアナは思わず入り口で立ち止まった。


 作業場は、いつも以上に異常なほど整えられていた。

 棚のガラス瓶は一つ残らずピカピカに磨き上げられ、寸分の狂いもなく整列している。大鍋も炉も塵一つなく、床の石畳は鏡のように光を反射していた。

 そして何より、部屋の中央の何もないスペースに、純白の布が掛けられた小さな丸テーブルが置かれ、美しい花々が飾られていたのだ。


(これ……本当に私の薬屋の作業場だよね? どこかの神聖な式典会場じゃないよね!?)


 混乱して後ずさりしかけたその時。

 背後の重厚な扉がノックされ、返事をする前に、低く、鼓膜を震わせる魅力的な声が降ってきた。


「入るぞ」


 振り返ると、そこに立っていたのはアレクシスだった。


 いつもの漆黒の執務服ではない。かといって、使者を追い払った時のような威圧的な大礼装でもない。

 上質な深い群青色の生地に、銀糸の刺繍が控えめに施された、落ち着きのある正装。肩口に輝く双頭の鷲の紋章だけが、彼がこの世界の頂点に立つ『皇帝』であることを静かに示している。


 そして、彼の大きな手の中には、ベルベットの小さな箱が握られていた。


 リリアナは嫌な予感――というより、心臓が爆発しそうなほどの緊張を覚え、咄嗟に後ずさって言った。


「へ、陛下! まさか、また『特別薬師の証』だとか言って、新しい徽章を増やすとか言いませんよね! もうこれ以上目立つものは付けられませんから!」


 アレクシスは一瞬だけきょとんと目を瞬かせ、それから、ふっと吹き出して真面目な顔で答えた。


「安心しろ、メダルは増やさない」

「……なら、その箱は一体何ですか」

「メダルなんかよりも、ずっと重くて、厄介で、お前を一生縛り付けるものだ」


 さらっと恐ろしいことを言わないでほしい。


 アレクシスはゆっくりと歩み寄り、花が飾られたテーブルの上に、その小さな箱をそっと置いた。

 彼の群青の瞳が、真っ直ぐにリリアナを捉える。

 逃げ道を塞ぐような、王者の威圧感ではない。ただ、リリアナという存在のすべてを慈しみ、確認するような、ひどく慎重で強い光だった。


「リリアナ」


 本名で呼ばれると、それだけで胸の奥がキュッと勝手に反応してしまうようになっていた。自分がここまで彼に絆されていることが、少しだけ悔しい。


「……はい」

「お前は、ここへ来てから何度も言ったな。誰にも迷惑をかけず、ひっそりと静かに暮らしたい、と」

「……はい、言いました」

「そして、もう二度と傷つきたくない、安全な場所で守られたいとも言った。……言葉にはしなかったが、お前の怯えた顔に、そう書いてあった」


 リリアナは、ギュッとエプロンの裾を握りしめた。


「……それは、私が弱くて、臆病だからです。一人じゃ何もできないから」

「弱いからではない」


 アレクシスは即座に首を振り、強い声で断言した。


「それはお前が、生きようとする『人間』だからだ。理不尽に傷つけられれば痛いし、休まなければ倒れる。……当たり前のことを望むのは、決して弱さではない」


 その言葉が、過去の呪縛の最後の欠片を洗い流すように、リリアナの胸の奥に柔らかく落ちていく。


 アレクシスは、少しだけ緊張したように息を深く吸い込んでから、言葉を続けた。


「私はこの帝国の皇帝だ。広大な領土と、無数の民を守る責任がある。……だが、最近、私の人生にもう一つ、何に代えても『個人的に守り抜きたいもの』ができた」


 リリアナの喉が、ゴクリと鳴った。


(やめて。そういう言い方、心臓がもたない……)


 アレクシスは、一歩だけリリアナに近づいた。


「お前の店だ」

「あ……」

 リリアナは、少しだけホッと息を吐いた。(そうだよね、私の作る国宝級のポーションと、このお店が国にとって大事なんだよね……)


 ――その、直後。


「そして、この世界で一番愛おしい、お前自身だ」


 安堵の感情が、見事に綺麗にひっくり返された。


 リリアナは足の裏が床に縫い付けられたように固まったまま、視線だけを泳がせた。

 ピカピカの作業台。並んだガラス瓶。大きな窓。逃げ道のない空間。ここ、私の職場(薬屋)のはずなのに、なんでこんな甘すぎる空気に支配されているの。


 アレクシスは、長い指でベルベットの箱の蓋を、ゆっくりと開けた。


 そこに鎮座していたのは、見事な指輪だった。

 成金趣味のような派手で巨大な宝石ではない。澄み切った清流のような、極上の蒼い石が一粒。窓からの光を受けて、静かに、だが確かな存在感できらめいている。

 アレクシスの瞳と同じ色だ。


 リリアナの声が、情けないほど裏返った。


「……ゆ、指輪、ですか」

「ああ、そうだ。求婚の証だ」


 アレクシスは淡々と頷いた。

 声も表情も皇帝としての威厳を保っているのに、よく見れば、彼の耳の端がうっすらと赤く染まっている。本人は気づいていないのか、必死に気づかないふりをしているのか。


「お前を無理やり権力で縛り付けるつもりはない。お前が望まないのなら、これはただの綺麗な石が入った箱だ。いつでも捨てて構わない」


 その言い方が、本当にずるい。

 『望まないなら』と逃げ道を用意してくれているのに、もし自分が本当にそれを拒絶して逃げ道を使ったら、この絶対強者であるはずの男が、この世の終わりのような傷ついた顔をするのが分かってしまう。


 リリアナは、震える唇をキュッと噛み締めた。


「……陛下。私は、皇妃だとか、そういう貴い身分には、絶対に、絶望的に向いていません。礼儀作法も完全に忘れましたし、難しい政治や貴族の派閥争いなんて、ちっとも分かりません」

「完璧など不要だ」


 食い気味の即答だった。


「礼儀作法など、教えれば済む。政治も派閥争いも、煩わしいことはすべて私が力でねじ伏せる。お前は、無理に完璧な皇妃を演じる必要はない。……お前は、お前のままで、私の隣で笑っていてくれればそれでいい」


 それは、あまりにも甘すぎる、お伽話のような提案だった。


 リリアナは焦って言い返す。

「そんな都合のいい話、現実にあるわけありません! 貴族たちが黙っていませんよ!」

「ある」


 アレクシスは、本当に当たり前の真理を説くように、胸を張った。


「私は皇帝だ。お前が笑って生きられる『都合のいい世界(仕組み)』くらい、私が作ってみせる」


 最強で、最大の反則チートすぎる返しだった。


 リリアナは一瞬、呆れ果てて笑いそうになって、すぐにギュッと真顔に戻った。


「……じゃあ、最後に質問します」

「言え。何でも答えよう」

「私が皇妃になったら、私の仕事はどうなりますか。ポーション作りをやめて、ただお飾りの妻として後宮に引きこもれと言われたら――私は、絶対に嫌です」


 言い切った瞬間、胸の中のモヤモヤがすうっと晴れていくのを感じた。

 これが、リリアナの偽らざる本音だ。薬を作ることが、彼女が世界と繋がる唯一の手段であり、生き甲斐なのだから。


 アレクシスは、少しだけ目を細め、ひどく優しい顔になった。


「やめろとは言わない。……むしろ、一生続けろ」

「えっ」

「お前が大鍋の前で夢中になって木べらをかき混ぜている時が、一番生き生きとしていて、美しい。……私は、その姿を一生独り占めしたいんだ」


 見られていた。

 自分の薬オタクっぷりも、作業中のニヤケ顔も、全部この男に見透かされていたのだ。

 カァッと顔から火が出そうになる。


 アレクシスは、甘い声で決定打を放つ。


「皇妃になろうとも、この特別薬房は永遠にお前だけの場所だ。『世界一幸せなポーション屋』を、ここで、私と共に作ってくれ」


 世界一幸せなポーション屋。

 その言葉が、リリアナの胸の奥底で、ふわっと温かく膨れ上がった。


 リリアナは、自分の視界が急速にぼやけ、熱くなるのを感じた。


(あれ……私、もうあの国との決別の時に、一生分の涙は流し切ったと思ってたのに)


 涙は、安心した時にこそ溢れるものだと、マルタは言った。

 今なら、その意味が痛いほど分かる。


 もう、誰かに利用される恐怖がゼロになったわけじゃない。未来への不安もある。

 でも、自分のすべてを肯定し、「お前がここにいていい」と全力で守り抜いてくれる人が、目の前にいる。


 リリアナは、震える息を深く吐き出して言った。


「……陛下は、私の作った『奇跡の薬』が欲しいから、私を囲い込みたいんですか?」


 アレクシスは、少しだけ悪戯っぽく笑った。

「欲しい。喉から手が出るほどな」


 やっぱり。

 リリアナの胸が、一瞬だけキュッと痛む。


 けれど、彼はすぐに真剣な眼差しに戻り、続けた。


「だが、どんな神話級のエリクサーよりも欲しいのは――『お前』という存在そのものだ」


 ずるい。権力者のくせに、言葉が真っ直ぐすぎる。


「お前がここにいて、息をして、笑っている。それだけで、私の心はどれだけ救われているか。……あの日、裏通りで致命傷を負った私の肉体を治したのは、確かにお前の薬だ。だが、冷え切っていた私の人生に熱を与え、生かしてくれたのは、紛れもなくお前の心だ」


 リリアナは、ポロポロと溢れ落ちる涙を、すすけたエプロンではなく、自分の手の甲で乱暴に拭った。


「……私、まだ過去を全部忘れられません。時々、トラウマを思い出して怖くなります」

「無理に忘れなくていい。過去ごと私が抱きしめる」

「夜中にうなされて、変なポーションを爆発させるかもしれません」

「いくらでも城を吹き飛ばせ。翌日には新しい薬房を建ててやる」


 とんでもない財力と愛の重さだ。

 前は「止める」「禁止する」と言われるのが怖かった。自分の価値を否定される気がしたから。

 でも今は、彼の言葉が、何よりも強固な盾になって自分を守ってくれているのが分かる。


 リリアナは、テーブルに置かれた指輪の箱を見つめた。

 祖国では、婚約というものは「自由を奪う冷たい鎖」だった。

 でも、ここにある指輪は――きっと、自分を温かく包み込む『絶対の守り』になる。


 リリアナは、小さく、だが力強く頷いた。


「……条件があります」

「何でも言え。国を半分よこせと言われても即座に書類を用意しよう」

「いりませんよ! ……私の店は、ずっと『ひっそり』のままにしてください。看板は小さく。客は城内の限定で。無茶な納期の注文は絶対禁止。夜間作業も、もちろん禁止のままで」


 それは、アレクシスが最初に提示してくれた「超絶ホワイト労働条件」の再確認だった。

 アレクシスが、満足げに深く頷く。


「誓おう。すべてお前の望む通りに」

「それから……」


 リリアナは言葉を探した。最後の条件は、自分で言うのも少しだけ恥ずかしい。


「……私が、過去の傷を完全に癒やして、陛下のことをちゃんと『好き』って言えるようになるまで……もう少しだけ、急がないで待っていてください」


 言い切った瞬間、自分の耳までカッと熱くなったのが分かった。


 アレクシスは一瞬だけパチリと目を見開き、それから、今までで一番優しく、蕩けるような笑顔で頷いた。


「分かった」

 そして、少しだけ声を潜めて、意地悪く囁く。

「だが、お前も知っての通り、私は気が短い。……お前が明日にも私に惚れ直すように、全力で甘やかすから覚悟しておけ」

「……知ってます。職権乱用陛下」


 リリアナは、泣きながら、吹き出すように笑った。


 アレクシスは箱から蒼い石の指輪を取り上げると、リリアナの前に恭しく差し出した。

 触れる直前でピタリと動きを止め、最後の確認をするように、優しく尋ねる。


「……受け取ってくれるか」


 リリアナは、もう微塵も迷わなかった。


「はい」


 火傷の痕が残る、荒れた小さな左手に、指輪がゆっくりと通される。

 冷たかった金属が、すぐにリリアナの体温を吸って温かくなる。重すぎず、薬草を扱う作業の邪魔にもならない、完璧に計算されたデザインだ。

 リリアナは、薬指をそっと握りしめた。


 アレクシスは心底安堵したように長く息を吐き出し、だがすぐにいつもの「傲慢で有能な皇帝」の顔に戻って言った。


「さて。では、さっそく正式な婚約の儀と、お披露目の準備を――」

「あ、待ってください」


 リリアナがピシャリと遮ると、アレクシスが素っ頓狂な声で眉を上げた。

「何だ? まだ何か不満が?」


「今日の私、労働条件の規約によれば、午前は『二時間だけ』作業していい日ですよね? もう三十分経っちゃいました」


 アレクシスは一瞬完全にフリーズし、次に、腹の底から愉快そうに声を立てて笑い出した。


「くっ……はははっ! プロポーズの直後に労働時間の心配をする皇妃など、歴史上お前だけだぞ!」


 リリアナは目元の涙を袖で乱暴に拭き、鼻をすんと鳴らして、ピカピカの大鍋の方へクルリと向き直った。


「私、大好きな薬をたくさん作って、このお店を続けて、誰よりも幸せになります。陛下が隣にいても、いなくても――いえ、やっぱりいてほしいので、一生隣で私を甘やかしてください」


 自分でも何を言っているのか分からないくらい、支離滅裂で、でも最高に正直な本音が出た。


 アレクシスは、背を向けたリリアナの後ろ姿をしばらく愛おしそうに見つめていた。

 そして、とても低く、甘い声で誓うように言った。


「もちろんだ。……私の命に代えても」


 その日、帝城の広大な敷地の一角、特別薬房棟の入り口に、新しい小さな木札の看板が掛けられた。


 表向きは、相変わらず誰の目にも止まらないほど目立たず、ひっそりとしている。

 けれど、知る者は知っている。

 この小さな扉の向こうに、神話級の奇跡を生み出す“帝国の至宝”がいることを。


 そして何より――。


 コトコトと煮える黄金色のポーションの匂いに包まれながら、リリアナは木べらをかき混ぜ、心から思った。


(私、今、やっと『私自身の人生』を生きているんだ)


 自分を虐げた祖国は自業自得で崩壊し、偽りの聖女は地に堕ち、過去のトラウマは少しずつ遠ざかっていく。

 けれどリリアナは、彼らへの復讐が完了したから笑っているわけではない。


 ただ、絶対的な権力と不器用な優しさで守られ、愛され、一番好きなポーション作りをしながら生きている。

 その事実だけで、十分すぎるほど満たされていた。


 世界一幸せなポーション屋は、今日も元気に、そして「ひっそり」と営業する。


 ――皇帝陛下の重すぎる溺愛という、過剰な追い風を帆に受けながら。

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